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33 判明した藤島玄さんのサイン
(前回から続く)家に戻ってから、『越後山岳第6号 越後の国境踏査報告書』(1968)を開いてみた。この本は、学生時代に新潟市の古本屋「学生書房」で購入したものである。定価1,500円が、10倍の15,000円だった。予想通り、関川村山の会の高橋千代吉さんと平田大六さんが県境踏査で大境山山頂に達した日付と金属プレートに打刻された日付が一致した。
その金属プレートの写真をハガキに印刷し、平田大六さんに送ったところ、「佐渡を含めて9区分の46団体が、2枚ずつ30センチ四方のプレートを設置したのだが、担当者の名前を記録する場所が無かったので、別のプレートにタガネで打刻したもの」と返事のハガキが届いた。「当時は山頂に反射板があり、その反射板に取り付けたのだが、反射板が撤去され、金属プレートだけが山頂に残されたのだろう」とも書かれていた。
その数日後、関川マラソン大会があり息子が参加するので、『越後山岳第6号』を持参して関川村に向かった。学生書房で購入した『越後山岳第6号』には、誰のものかわからないサインがあった。そこでハーフマラソンの先導バイクに同乗する前の平田大六さんにサインについて訊ねてみた。
平田大六さんは、「『玄山人』とは藤島玄のことで、藤島が書いたものだろう。藤島にしては字がうまい」と教えてくれた。
当時、峡彩山岳会の会合が学生書房で行われていたようだ。日本山岳会越後支部長だった藤島玄さんは学生書房の書棚に並んでいた『越後山岳第6号』を見つけ、茶目っ気でサインしたのだろう。
