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23 蒲萄山地で発見した「太平山」の石碑

 蒲萄(ぶどう)山地は、長年勤務した職場の背後に位置する南北に長い小さな山脈である。南端は下渡山で間違いないが、北端は越沢集落の城山だと思い、何回かに分けて踏査した。しかし、その後北端は寒川集落ではないかと考え直し、寒川集落〜蒲萄山を歩いて、蒲萄山地縦断を完成した。

 南北に長い蒲萄山地縦断は一ルートしかないが、横断ならいくつものルートが考えられる。最初に歩いたのは、2001年3月、能化山から上野集落に至るルートだった。間島駅で列車を降り、能化山から旧村上市と旧朝日村の境界まで歩いた。上野集落への道は沢沿いにあるが、雪で不安定なのでその沢の右岸尾根を下った。右岸尾根には踏み跡が確認できた。

 その1週間後に山仲間を誘って、吉浦集落から早稲田集落に至るルートを歩くことにした。吉浦集落から鍋倉山には2回登ったことがあり、鍋倉山の手前から稜線を歩いたり、忠実に塩の道の跡を辿ったりして、最高地点の612m峰に着いた。

 あとは早稲田集落に下るだけだと、次の595m峰に向かったところ、そのピークで大きな石碑を発見した。花崗岩に刻まれた文字が見にくかったので、凹みを雪で埋めてみると「太平山」の文字が浮かび上がった。

 その後、発行された『早稲田里山の自然と歴史』(早稲田里山研究会)により、この石碑は慶応4年5月に早稲田集落の若者たちによって運び上げられたものだと知った。江戸から明治へと大きく時代が変わるこの年、早稲田集落の若者たちはどのような思いでこの石碑を運び上げたのだろうか。


※写真は同じように凹みを雪で埋めてみた石碑(2022年12月3日撮影)