2007年
12月31日、明日の夜までの食材を買いに行き、昼はいつもの手巻き寿司。昼酒を飲んで高校サッカーを観た。島原商は新潟を舐めていたんじゃないか。いずれにしても、夏の甲子園といい、新潟は頑張った。道路が乾いてきたので外に出るが、あまりに風が強いので3キロだけ。
12月30日、野々海の西の窓に信越トレイルが開設され、湿原が踏み荒らされている夢で目が覚めた。どうしてトレイルなんて開設するのだろうか。トキソウは激減するだろうな。トレイルが開設される前にもう一西の窓に泊まってみたいと思う。弟家族が年末の挨拶に来た。
12月29日、関川マラソン大会でもらったゆーむの券が年内一杯なので、新潟マラソン大会でもらったバッグを持って出かける。家に戻って「ホワイトアウト」を観る。ところどころあり得ない場面があるが、まあ面白かった。その後で、2泊3日のスキー合宿から帰って来た息子を迎えに行く。
12月28日、新保岳に登った。これで12箇月全ての月に新保岳に登ったことになる。しかし今日登った理由はそれだけはない。今年のランニング距離は2200キロを超えた。しかし反対に山行日数は10日に満たないはずである。ランニングに明け暮れた1年であったが、最後は登山で締めくくりたかった。恐らく雪が積もってからは誰も登っていないブナの森を輪カンを付けて歩く。自分の原点はやはり山にあることを確かめるためなのである。
12月23日、しかし、今朝になって松代から伯父さん夫婦が村上まで来ることになった。娘も少しずつ元気になり、昼には寿司も食べた。夕方にはすっかり元気になり、「早くクリスマスプレゼントを出せ」と言う。「うちのサンタさんはあわてん坊じゃないんだよ」と応戦してやる。
12月22日、祖母の四十九日が12月29日なのだが、年末で慌ただしいので一週間繰り上げて今日することになっていた。ところが、娘が熱を出して日帰りでは行けなくなってしまった。娘の風邪が治って、本当の四十九日に日帰りで仏様参りに行くことにしようかと思っている。
12月18日、元旦マラソン大会のナンバーカード引換証が届いた。あと2週間である。しかし、新潟マラソン大会から体重が増加している。3キロは太っただろうか。最低限の目標は夏のレースだったかみはやし穀菜マラソン大会の44分の記録を上回ることだ。だけど今月は100キロがやっとだろう。
12月16日、スキー合宿のウエアなどを買いに新発田に行く。去年は息子一人だったが、今年は娘も行くと言う。2泊3日2人で65000円である。息子には小さくなったら、そのあとに娘にも着せるのだからウエアは男でも女でも着られるオレンジ色のウエアを選ぶ。田んぼにはハクチョウが集まっている。
12月9日、ジョックン・お系宅から羊ヶ丘まで早朝に往復。それから札幌ドームを見る。コンサドーレがJ2優勝なので、展望台が無料だ。ただ高所恐怖症なので怖い。大通り公園に戻るが、完全な宿酔いでホットワインを飲めるような体調ではない。結局ろくに食べず、飛行機に乗る。
12月8日、北海道6回目だが、初めて旭川に下りる。旭山動物園はさすがに人が集まるわけだ。ペンギンの行進も練習を開始した。札幌まで旭山動物園号で戻る。大通り公園まで歩いてクリスマス市でホットワインを飲む。地下鉄で澄川駅まで行き、小坂宅で飲み、ジョックン・お系宅に泊まる。
12月3日、新潟マラソン大会の記録集が届いた。元旦マラソン大会で6キロ過ぎに追い越され、なんとか数メートル後ろを付いていき、ゴール直前で抜き返したランナーもフルを走っていたが、私が目標としていた3時間40分であった。16分の差は明らかに脚力によるものである。
12月2日、福岡国際マラソンを観る。女子に比べて実力者が揃った。誰が日本人一位になるかわからないから面白い。それにしても、最後の藤田には呆然とさせられた。あと10mでゴールというところで転倒である。腕を大きく振らなければバランスが取れなかったのだろうが、あんなゴールシーンは見たことがない。本人は記憶がないかもしれない。私のような一市民ランナーでは追い込むことができない極限状態だったのかもしれない。日本人一位の佐藤敦史よりも藤田の印象が残った大会だった。
12月1日、もう12月。11月は月間100キロも走れなかったから、今月は心を入れ替えようと朝走り出すとすぐに雨。そこで10時前に町内のクリスマス会の会場に子供を届け、パルパークへ。2時間走って、お昼を食べて子供を迎えに行く。これから天気が悪くなる季節だから、パルパークは貴重だ。
11月25日、母と子供を連れて電車で新潟に行く。万代で買い物と食事をして、古町まで歩き買い物をしてバスで駅に戻る。書店で時間を潰し、家内のお土産を買う。家内に買わせようと思っていたデジカメが村上の店よりも高いのでビックリ。急いで買う必要はないのである。
11月24日、「鮭の傷みが激しいようなので、こちらで処分しますがよろしいでしょうか」と朝電話が来る。テンカラで捕獲した鮭だから、キズが付いているのは当然だが、冷蔵庫に入れてあるのだから夕方までは持ちそうだと思うのだが。夜は鮭鍋だと思っていたが、残念である。
11月23日、千葉国際駅伝を観て走り出す。中州公園手前まで来ると道路に何か落ちている。ネコの死体かなと思ったら、突然飛び跳ねた。鮭である。カラスに見つからないように道路脇に放り投げ、急いで家に戻る。母に袋を持たせて現場に辿り着くとまだ生きている。袋に入れて警察に届ける。
11月18日、朝から雨が降り続いていたが、金曜日に母がほとんどの冬支度をしていたので、簡単な戸締めをして村上に母と一緒に戻る。13時前に村上に着き、東京国際女子マラソンを観る。野口はブランクを感じさせない力強い走りだった。北京当確は間違いないだろう。
11月17日、祭壇から祖母のお骨を下ろす本家のお父さんの後ろにいた自分がお骨を受け取ってしまい、そのままお墓へ。お墓は母の古い実家があった場所のすぐ下だった。納骨の準備ができるまで祖母のお骨を持って母の実家の跡に向かった。歩道を登っていくと、祖母の実家もすぐ近くだということい気づいた。祖母の実家にまずお骨と一緒に向かい、その後で母の実家の跡を祖母に見せた。そこは自分が生まれた場所でもあった。小春日和の穏やかな納骨の日だった。
11月14日、母と弟と三人で菖蒲高原の滝見場へ行き、線香を炊き菊の花を供えた。それから野々海へ上がった。松代は紅葉まっさかりだったが、野々海のブナはすっかり葉を落としていた。家に戻ってご飯を食べて、母の実家に母を残して弟と一緒にそれぞれの家に帰った。
11月13日、結局祖母にあげた『森の遠くで』は見つからなかったので、叔父にあげた『森の遠くで』を棺の中に入れた。10時から葬儀。11時から火葬。お斉の途中で住職をお寺に送る役割だったが、送り終えてからなんとか骨を拾う時刻に間にあった。夜は一番下の孫が子供の頃からの夢を叶えて今春JRに就職したので、車掌の演技(本人は仕事の台詞なのだが)で大笑いの夜が過ぎた。
11月12日、午後4時から納棺だった。亡くなってから、それまで祖母の顔を見ることができなかった。祖母は亡くなる直前よりもずっと楽な顔をしていた。2年前に倒れた時に用意しておいた子供の絵や写真、それに『森と水の恵み』を棺に入れた。祖母にあげた『森の遠くで』は見つからなかった。
11月11日、暗い中で携帯が鳴った。母からである。「脈拍が分20回くらいに減ってきたので、近い人に連絡してほしい」と看護士に言われたというのである。「実家の弟夫婦には連絡したが、宏は早起きだから電話した。よく考えて来い」と言う。とりあえず昨晩風呂に入っていないので、風呂を沸かして入り、5時半に家を出る。病室に入ると母は「持ち直したようだ」と言ったが、祖母はさらに荒い息になっていた。時々頭を動かし、数秒間呼吸が止まるようになった。しかし、呼吸をまた始めるのである。そんなことを何度か繰り返していると6時近くなり、叔父を病室に残して朝ご飯を食べに家に戻ろうとした時だった。ずいぶん長く呼吸をしなくなった。「あれ、おかしいんじゃないの」と叔父は看護士を呼んでくると、「まだ脈拍が10回ほどありますので、脈が無くなったら先生を呼んできます」と言う。叔母は「おばあちゃん、おばあちゃん」と背中をさすってやるが、祖母は再び息をすることはなかった。叔父は二人の妹の家に電話をした。しばらくすると、看護士が「先生を呼んできます」と病室にやってきた。心臓が停止したのである。先生が来て、「6時28分、死亡を確認しました」と述べた。
2005年1月5日に脳梗塞で倒れ松代病院に入院、いくつかの施設を移動し、2006年2月10日再度様態が悪化して十日町病院に入院、それでも医者に「こんなはずはないんだが」と言わせるほど回復し松之山の施設に移動。もう肉親が見舞いに行ってもほとんどわからないようになっていたが、右手で食事を食べるようになった。2007年7月18日ついに点滴だけの状態になり松代病院に入院。頭を少し動かす他、目を開けるのと欠伸をするくらいしかできなくなった。何時逝ってもおかしくない状態になりながらもそれから4箇月も生きていた。『おーい竿山』の中で高桑さんはお風呂の中で急逝した池田知沙子さんと癌と闘いながら亡くなった鈴木竿山さんを比較し、どちらも立派な死に方だったと書いているが、祖母もまた立派な死に方だった。何より母を「もう死に目に会えなくてもいい」と言わせるほど、2年10箇月の間何度も見舞いする機会を与えてくれたのだから。
外に出て、村上の家に電話した。そして、自分は葬儀が終わったら帰るが、母は今度の日曜日まで帰らないと家内に伝えた。それからなぜ実家に戻ったのかわからない。再び病院に行った時は祖母の遺体は車に乗せられていた。病院から母の実家まで何百メートルもないのだが、祖母の遺体を家の中に運んだシーンを見ていない。祖母は自分の部屋で横にされていたが、祖母のそばにいることができずずっと居間にいた。
11月10日、7時前に母と一緒に村上を出発し、10時過ぎに松代病院に入る。病室には祖母しかいなかった。オムツカバーに血を吐いたままになっている。新しいオムツカバーをあてがい、口の中をティッシュで母はきれいにしてあげる。祖母は荒く息をしているが、すぐに逝きそうではない。病院から近い母の実家に行き、それから実家に帰る。昼ご飯を食べ、家を何日か過ごせるようにする。母は昨晩は弟が病室に泊まったので、今日は自分が病室に泊まるという。母は昼ご飯から間もない夕ご飯を食べ、風呂に入り病院に行く。病室には内孫になる従姉妹の容子がいた。しばらくすると叔父もやって来た。少し話をして、コンビニでビールを買って実家に戻る。風呂にも入らず、ビールを飲んで炬燵で寝る。
11月9日、仕事を終えて家に戻ると母が「祖母がいよいよ逝きそうらしい」と実家の弟から電話があったと言う。しかし、「明日7時に村上を出る」と伝えたというのである。もう4回目である。母は何度も自分の親と最期の別れをしている。急いで松代に行くこともないというのである。
11月7日、一昨日に続いて山形県との昼休み県境踏査。明瞭な踏み跡を追いかけていくと突然ナメコの原木が置いてある。さらにヒノキが植栽されている。あと1時間あれば日本国を往復できるのだが、13時には現場に戻らなければならない。続きは休日の楽しみに残しておこう。
11月4日、今年最後のマラソン大会。酒田市茂木杯ハーフマラソン大会。新潟マラソン大会以来ろくな練習をしていなかったが、好天に恵まれ目標だった1時間40分を切ることができた。ただふくらはぎはピクンピクンと痙攣寸前だった。痙攣の予防には走り込むしかないらしいのだが。
11月3日、飯豊町の国道113号線脇にある耕作放棄水田に天然更新したハンノキ林の写真を撮った後で、赤湯・龍上海のからみそラーメンを食べる。それから南陽市の菊人形を見ようと思ったが、誘導係の指示がわからず結局諦め村上に戻り、明日に備えて7キロのランニング。
11月1日、「小笠原、新庄、岡島がいなくたってパリーグ優勝できたじゃないか」と思っていたが、やっぱり日本シリーズは甘くなかった。落合監督の「北海道に絶対戻らない」という思いを感じた第5戦だった。来シーズン、梨田監督はどのようなチームづくりをするのだろうか。
10月28日、小学校の展覧会とふれあいセンターの環境フェスタの予定任務を終え、久しぶりの20キロラン。瀬波海岸で同様に昨晩飲み過ぎた同僚とすれ違う。いつものように岩船港で釣りの状況を眺めた後で、大池まで足を延ばしハクチョウの飛来状況を確認する。
10月27日、本当は巨人と当たってほしかったのだが、昨年と同じ中日との日本シリーズ。テレビを観ながらの無線の飲み会である。ダルビッシュで一勝は予定通りだとしても、その後の勝ち星を計算できる投手がいない。落合監督にやられそうな日本シリーズが始まった。
10月21日、木曜日にパリーグのクライマックスシリーズ第5戦を見ながら、日ハムが勝ったことに喜んで焼酎のお湯割りを飲み、うたた寝をしてしまったせいで風邪をひいたようだ。風邪薬を飲んで横になって、新潟マラソンを思い浮かべながら北京マラソンをテレビで観る。
10月20日、家内と近所の女性が引き合わせた二人が2、3年の交際を経て結婚することになり、披露宴に出席するので子供を連れて新潟まで行った。披露宴の時間は久しぶりにデッキ401へ。帰りの車の中で、「良かったのか、悪かったのか」と二人は話していたが、それはこれからの二人しだいなのである。
10月14日、蔵王や浄土平へ紅葉を見に行くには遅く起きすぎたので、樽口峠に母と子供を連れて行く。ラーメンを作ってオニギリを食べて飯豊を眺めながら登山気分。買い物して家に戻って、17キロのジョグ。この体重を維持するには走り続けるしかないのである。
10月13日、祖母の様態が悪くなってきたというので、母と二人で松代へ日帰り。祖母は彼岸の時よりも表情は良くなったように感じたが、あくびを一回しただけ。実家で冬支度をちょっとして、お昼を食べ、少しだけ昼寝をして村上に戻る。往復ともETCの割引を利用する。
10月12日、新潟マラソン大会の写真が掲載された。はっきりと自分だとわかるだけでも9枚もあった。35キロ付近では肩が上がり、やすらぎ提では必死の表情だ。ただ、ゴールでは遠慮気味なガッツポーズをしたつもりだったが、カメラと反対方向を向いてしまったのは失敗だった。
10月11日、小学校のマラソン大会。息子は元旦から10回のマラソン大会を経験させたせいか、初めて10位以内の9位。娘は去年のように先頭を走っていた子供の靴が脱げるアクシデントがなかったので、練習通り2位。どうもその子供のおばあちゃんは「去年は靴が脱げて1位をゆずったけど、今年は頑張れ」と孫にハッパをかけていたらしい。でも、娘は距離が伸びた方が強いらしいから、2キロになる来年はリベンジだ。
10月8日、昨夜の慰労会の酔いも醒めぬまま、町内の公民館建設祝賀会に出る。来年の村上・笹川流れ国際トライアスロン大会はリレーで出ようなんて話で盛り上がる。でも、仕事仲間でもリレーで出ようって話があるんだよなあ。ああ、足が痛い。左ふくらはぎが最悪だ。
10月7日、新潟マラソン大会当日。30キロを一度走ったことがあるとはいえ、こんな辛いものとは思わなかった。ラスト5キロは足が壊れそうだった。10キロやハーフの記録から3時間40分を目標にしていたが、結局3時間56分13秒でゴール。何とか初フルでサブフォーを達成できたのがすくいだ。
10月6日、職場の同僚は私が明日新潟マラソン大会でフルを走ることに驚いている。しかし、正月から10キロ5回、15キロ1回、ハーフ2回、30キロ1回と大会に参加し、月間走行距離は1月から100キロ以上、4月からは200キロ以上、6月からは250キロ以上なのである。フルを走る準備はしているのである。
10月5日、東京マラソンの抽選結果が来た。落選である。5倍近い倍率なのだから当然と言えば当然だが、残念である。参加料の未入金者が大勢の場合、11月に再抽選するようだが、さらに倍率が高くなるのだから、もう無理だろう。2回連続で落選の人も大勢いるのだから、そんなもんだと諦めるしかない。
9月30日、母と子供と一緒に村上・笹川流れ国際トライアスロン大会の応援に行く。朝の海は寒いが、大勢の選手は海に飛び込んでいく。1.5キロだ。続いて40キロのバイク。最後は10キロのラン。再来年の新潟国体のためにランのコースを変更したらしい。知事もランで出場していたが、たぶん来年は出ないだろう。
9月26日、新潟マラソン大会のコースは今年が最後なのかもしれないと言う。来年からはビッグスワンが会場となる構想があるらしいからである。そうか、陸上競技場付近はともかく、大学の近くや仕事をしていた旧巻町の四ツ郷屋の海岸林を最後に一回だけ走るのもいいだろう。
9月25日、新潟マラソン大会のナンバーカード引換証が届いた。1581である。最近考えることはどれくらいのペースで走り出せばいいかということばかりだ。キロ5分ペースで走ってみたいと思うが、それでは35キロ過ぎに失速するだろう。かといってサブ4ねらいだけでは物足りないのだが。
9月24日、母と実家日帰り。病室に入ると祖母は目を開けた。点滴だけで植物人間状態なのに気づいたのかビックリした。息は荒い。あれからもう二箇月が過ぎた。もう死期は近いのは誰の目にもわかる。ただそれが何時なのかはわからない。祖母の生命力の強さに驚かされるばかりだ。
9月23日、アルコールセンサーは0.00なのだが、午前中は家でダラダラ。昼寝をして、16時から子供を海に連れて行って走る。瀬波海岸もいつもより観光客が多いみたいだ。子供を監視しながらのジョギングも落ち着かない。女性ランナーと2人すれ違うが、今まですれ違ったことがない人だ。
9月22日、息子と娘が通っていた幼稚園の運動会があるというので見に行く。娘が卒園して2年ぶりだったが、小さな前庭での運動会に時間の経過を感じる。夜は無線の飲み会。仲間の盲腸入院話や忘年会の打ち合わせなど。いつものように一ノ瀬さんとカウンターで二次会。
9月17日、山形の三川のジャスコへ行く。映画の前売り券と娘が買いたいと言っている物を買うためである。温海の道の駅ではヘリコプターに乗りたかったが、高いので諦める。村上に戻ってきて『岳人10月号』を見つける。亀山さんの文書に加えて、岩城さんの特集のようだから買うことにした。
9月16日、白鷹若鮎マラソン大会。朝から暑い。しかも自分のハーフの1時間前から子供達の応援と写真撮影で疲れる。往路は所々家の日陰で助かるが、復路は日陰がない。ふくらはぎの痙攣をだましだましフィニッシュ。1時間42分30秒。暑かったので笹川流れより約1分縮めただけだった。
9月15日、6時半からハゼ釣り。2時間で18匹釣り上げる。息子はハゼ祭りだと騒いでいる。それから白鷹へマラソン大会の下見。長井ラーメンを食べて、土偶のある丘へ行ったり、マラソンコースを確かめたり。子供達は明日の土産をおねだりしながらの帰りになる。明日は雨が降るのだろうか。
9月9日、加納由理は資生堂で走って優勝した駅伝の時と比べて身体が締まったような感じがする。北海道マラソンを見終わってから、三面川河口へハゼ釣り。いつもの左岸と反対の右岸へ。ハゼ4匹、小さなスズキが2匹。夕食は鳥の唐揚げと一緒に食べることになった。
9月8日、午前に12キロを走り、スイカで水分を補給。午後から祖父母学級。母は息子に、自分は娘に。娘は風車と風輪作り。早々作って紙飛行機も作る。買い物を済ませて、ふたたび海へ。ほぼ同じコースで10キロ。今日は夕方でも早いので真っ暗になる前に家に着いた。
9月6日、関川マラソン大会の後で「関川まるごとウォークロスハンティング」に参加して家族全員で応募したところ、母が温泉利用券5000円×2枚、長男が手作り味噌が当たった。マラソン大会の後で2時間、車で走り回ったかいがあった。来年度もあるそうなので、また応募したい。
9月2日、S&Bちびっ子健康マラソン大会に初めて参加するために新発田に行った。息子3キロ33位、娘1.5キロ10位。いずれもキロ5分台。無料で出場でき、100円の文具5個、S&B食品4個もらえるのだから親としても嬉しい大会だ。終わってからはいつものジャスコで遅いお昼。
8月29日、あさのあつこさんの『ランナー』が古本屋にあったので買って列車の中で読んだ。ラストはゴールのシーンでなくていいから、大会で走っている場面にしてほしかったなあ。こんな終わり方なら別にどんなスポーツでもかまわないような気がするのは自分だけだろうか。
8月26日、かみはやし穀菜マラソン大会。去年よりも暑くないものの、それでも辛い夏の大会。しかし、身体は快調で、去年よりも4分以上縮めて10キロ44分01秒。これまでの10キロベストである。従兄弟の鈴木さんにも完勝。1年がかりでリベンジだ。練習はウソをつかない(今のところ)。娘は4位で賞状をもらった。息子と一緒に走っていたので、息子も娘に負けないように頑張って、娘も頑張れたのだ。
8月25日、新発田のスポーツ店が明日で閉店なので、何か安い物があるのか見に行く。しかし、50%以上割引している物で必要な物はないし、10%程度の物は他店で買える物である。そんなわけで、マクドナルドのはハッピーセットで新しいゲームをもらった子供が喜んだだけだった。
8月19日、母を迎えに松代日帰り。テレマークスキー仲間から「お系ちゃんが岳人9月号に出ているよ」とメールが来ていたので買った。なんとカラー4ページじゃないですか。「俺もトロフィーもらったなあ」、「お系は悪雪フェチだったなー」なんて思い出しながら読んだ。
8月18日、朝の10キロのジョギングを済ませて朝食。その後で新保岳登山。これで新保岳に登っていない月は12月だけになった。午後は明訓の試合を見た後で息子と娘を連れてきれい館。ジョギング、登山、水泳(子供の監視役だが)でとっても疲れた一日だった。
8月17日、家内が仕事なので子守り。掃除に料理、そして自由研究。外は雨だしパルパークにでも行って走りたいがそういうわけにもいかない。村上ジャスコチャンスセンターでまた1億円が当たった。今度こそと思ったが、かすりもしない。地道に稼ぐしかないってことか。
8月16日、午前は職場に書類を取りに行き、家に戻ってお昼ご飯を作る。午後はプールの後で、再来週の出張の切符を買う。家内が同級生と飲み会なので送り迎え。その間に息子に自由研究の準備。夜中の2時に5分間だけだが起きなければいけないのが辛い。
8月15日、母を実家に残し、家内と子供で村上に戻る。小千谷のヒグマでラーメンを食べようとしたが並んでいたので、手前の金治郎で味噌ラーメンを食べる。家に着いて荷物を降ろし、子供に宿題を少しさせて、家内の実家に行く。新潟明訓を見ながら夕ご飯を食べる。
8月14日、墓参りをすませ、キューピットバレイに行ってわくわく動物園を見る。東北サファリパークの動物に那須サファリパークのサル劇場をプラスしたようなものだ。暑くてトラもキリンも日陰から出てこない。そのまま上越に行って遊んで買い物をして家に戻る。夕ご飯を食べていたら母の実家の伯父が仏様参りに来た。
8月13日、美人林まで往復10キロのジョグ。午前は祖母の見舞い。祖母は相変わらず寝たままだ。午後から子供を連れてプール。今度は30人くらい。どうして土曜日は誰もいなかったのか不思議だ。夕ご飯を食べてから十日町まで電車と高速バスを乗り継いで来た家内を迎えに行く。
8月11日、母と子供を車に乗せて松代に行く。十日町のジャスコに寄って買い物をして、家に着いて昼ご飯を食べる。昼寝をした後で子供と一緒にプールに行く。午後2時過ぎに行ったのだが、誰もいない。2時間余り25mプールを3人で独占する。夜は約束通り焼き肉。
8月4日、台風の影響もそれほどなく小雨模様だ。車のエンジンオイルを替えて、パルパークに行く。球場では野球をやっているし、アスファルトはどんどん乾いてくるので、外で走った方が気持ちいいみたいだ。たっぷり汗をかいて午後は昼寝と買い物。
8月3日、明日まで粟島で合宿の予定だった息子が台風の影響で夕方岩船港に戻ってきたので家族全員で迎えに行く。新潟から6人、村上から3人、先生2人の合計11人の合宿である。たった2日間だったが息子の顔は真っ黒だ。風評被害で粟島への観光客も少ないようだ。
7月28日、早朝、棚田とブナ林とアートの中を走る。朝食を食べて墓参りをして、祖母が入院している病院に行く。点滴だけで呼吸をしているだけだ。たぶんこれが最期だろう。近くの母の実家に行って、堀之内の土佐屋でラーメンを食べて村上に戻り、きれい館で水泳と温泉。
7月27日、キョロちゃんのミュージカルがあるというので、家内と子供を新潟まで送り、自分は野暮用をすませる。17時を過ぎ、高速で十日町へ。夕食などの買い物を済ませて、松代に着いたのは20時近く。真っ暗なので祖母が入院している病院に行くのは明日にする。
7月25日、オゾン濃度とナラ枯れの分布が関係あると言っている人がいるそうだ。最近20年間の温暖化と二酸化炭素濃度との関係をさらに歪曲したようなものだ。相関があるからといって、必ずしも因果関係があるわけではないのだが、何か新しいことを言いたいだけなんだろうと思う。
7月22日、祖母の様態が変わらなく「マラソン大会に行け」と母が言うので、予定通り酒田砂丘マラソン大会に行く。しかし、暑いし、胃が痛し、キロ表示は不明だし、出羽大橋が工事中で変則コースだし、自分がどれくらいのペースで走っているのか全くわからなかった。それでも何とか45分台で走ることができた。
7月19日、9時から葬儀だったが、見附の弟もなんとか間に合った。葬儀の後で火葬。その後で繰り上げの初七日。病気の叔父のために家をリフォームしたのに一度も家に連れてこられなかった従兄弟がかわいそうだった。弟と新幹線でビールを飲みながら新潟に帰る。
7月18日、昨日柏崎から20時過ぎに帰ってきたら祖母が危ないと言うので、母と一緒に松代に帰る。母を祖母の元に残し、ほくほく線で東京に行く。叔父の通夜で久しぶりに親戚の伯父や従兄弟と会う。通夜は畳の会場だったので、亡くなった叔父と一緒に親戚が一夜を過ごす。
7月16日、朝のジョギングの後、来週の下見に家族で酒田市へ。ところが、実家の近くでまた大地震が。さらに東京の叔父が他界したという知らせが。週末には職場の大仕事があるというのに。葬儀には行かねばならないし、準備もあるし・・・。どうなる、明日から。
7月15日、午前は子供を連れてきれい館。息子はクロールの練習で疲れたのか、1時間半ももたずに出ると言う。午後から昼寝の後でパルパークへ。先日買ったシューズで走るが、滑り止めがついていない靴下のせいか少し滑る感じがする。とりあえず、試し履きは来週の酒田か?
7月14日、3連休。子供はスポーツクラブでマリンピア日本海へ行ったので、LSD。久しぶりに岩船港の防波堤に行ったが、いつもよりも釣り人が少ない。20キロをゆっくり走ったが、すごく疲れた感じがする。午後は昼寝の後で母と買い物。夕方になって子供を駅に迎えに行く。
7月13日、『岳人8月号』が届いた。「開発しようとしている」と最初に送った原稿を、「開発した。このコンロはキャンプだけでなく、災害用にも使えそうだ」と訂正を送っておいたのだが、字数が多かったのかそのままだった。「開発しようとしている」と「開発した」では大きな違いなのだが。
7月8日、子供達は朝からテレビに釘付け。親は寝ている。遅い朝食を食べ、また調整池へ。昼はいつもの手巻き寿司。15時になり、弟が帰り、家内も子供を連れて実家に行ったので、瀬波海岸にランニング。バーベキューをしている人が多くなってきたが、ゴミは持って帰ってくれないか。
7月7日、土曜日と村上大祭が重なったので、弟が子供を連れて来る。久しぶりに従兄弟4人が集まり大騒ぎ。調整池では野球とサッカー。家に入れば、ゲームとかくれんぼ。屋台を見に行った後で、天気もいいから夕方になって庭で焼き肉をして、おしゃぎりを見に行く。
7月6日、午前、右耳に何かいる。すぐ手で払いのけたが、何かの虫だろうか。午後から同じ場所に30分。車に戻って荷物を車に詰め込み、雨具を脱ごうとすると、ヤマビルが。エッー!!何でこんなところにいるの?しかもこんなにいっぱい。もういつも山に入るときはヒルノック必携だ。
7月2日、『渓流夏号』を買う。高桑さんの「高桑信一、三途の川で死にかける」だけでも、十分1800円の価値はあるムックだ。10年以上買い続けている雑誌はたぶん『渓流』と『山の本』だけだと思うが、『山の本』は時々買い忘れるものの、『渓流』は発売時期になるのが待ち遠しいのである。
7月1日、きれい館に行く。月末に水泳大会があるので息子のクロールの練習である。いままでは途中で犬かきになっていたが、何とか不格好ながらも25mクロールで泳ぐことができるようになった。お昼を食べてから、ホームセンターで煙突を買う。合計2万くらいになった。
6月30日、子供達が新発田に行きたいというので、宿題を終わらせてから新発田に向かう。いつもの所で遊ばせていたら、職場の同僚も子供を連れて遊びに来ている。違うのは親も遊んでいるかいないかだ。子供の服や靴を買って、家内の実家に寄って村上に戻る。
6月28日、もう10年近く前になるが、後輩の何かのお祝いのお返しにいただいた炭焼きセット。炭焼きはしないから使わないで押入に入ったままだったのだが、漸く鉄板だけは使い道が見つかった。早く使ってみたいが、それにはまず煙突を買ってこなければいけないのである。
6月25日、関川マラソン大会の記録証が送られてきた。去年は自分だけの記録しかわからなかったが、山関係で知り合いの役場職員に「せめて自分が出場した距離の全員の記録は知りたい」とお願いしていたところ、希望どおりに15キロ全員の記録が同封されていた。ありがたいことである。
6月24日、新潟日報14面に目を見張った。高校時代の恩師と仕事で付き合いのある社長が出ている。社長からこの活動の話は聞いていた。私をこの道に進めるきっかけをつくってくれた恩師と現在共に力を合わせて仕事をしている社長が巡り会ったのは偶然ではないだろう。
6月23日、午前はきれい館。子供の水泳の練習。お昼は25年ぶりにビッグマックを食べた。万代にマクドナルドができたのは、その頃じゃなかったか。昼寝をして、朝と同じ15キロを走る。夜は無線の飲み会。今日はいつものように脱線しないで、無線の話が多かった。
6月17日、大石ダム湖畔アップダウン関川マラソン大会。去年に続いて2度目の大会で同じ距離。どれくらいレベルアップしたか楽しみだった。タイムは1時間12分48秒。目標の1時間10分切りはできなかった。それでも身体がだるいし暑い中でよくやったと思う。
6月16日、息子が中条の少年自然の家に昨日から行っているので、今日はボランティアに行った。野外炊飯だからご飯を炊くのかと思ったら焼きそばだった。子供達と一緒にかまどを作り、焼きそばを食べた。薪はもう少し乾燥させてなきゃ使い物にならないよ。含水率20%くらいかな?
6月14日、今日も思うようにいかなかった。原料はたっぷり揃えたのだが、今度は含水率の低下が足りなかったのか。どうやって使うか迷う燃料を多量に作ってしまう。それでもなんとか使い道を探ってやるさ。失敗は成功の元。失敗から成功のヒントがわかるはず。成功してたら成功した原因もわからないからね。
6月12日、全く予想していなかったと言えなくもないが、走って日本百名山を完登しようという人がいるらしい。トレイルランニングが流行のようだから、そういう流れもしかたないと思っていたが、「ランニング→山」の悪い例かもしれない。30年前の『山渓』の列車を使った百名山の最短コースの記事が懐かしい。
6月11日、人間ドックだから朝走るのは止めようと思ったのだが、ご飯を食べられなく暇で結局走ってしまう。汗をかいた分だけ体重が減って学生時代の62キロになった。今夜のビールで元に戻るのだが。目標はあと2キロ減。高校時代の体重だが、秋までにはなんとか落としたいものだ。
6月10日、午前は買い物、午後はきれい館。二人の母は温泉。子供と一緒に遊んだり、泳ぎを教えているだけなのだが、体重が減っていくのがわかるような疲れ方。家に帰ったら、久しぶりに62キロ台になっていた。夜は明日に備えて軽く蕎麦。あー、早く明日の夜にならないかなあ。
6月9日、LSDをしようと思ったが、少しペースが速かったのか足の裏にマメができそうな違和感があり2時間半で止める。午前は息子を連れて病院に行ったり、母と連れてトントンに行ったり。久しぶりに昼寝をしたらLSDの疲れか、2時間も寝てしまった。それから子供とキャッチボール。
6月8日、ムーンライダースのニューアルバムを買った(と言っても半年以上も前に発売されていたのだが)。本は池田清彦さんの『ゼフィルスの卵』の他、仕事関係の本などを4冊。「『この世では余り本当のことを言ってはいけません』というオフクロの遺言を守るのを忘れていた」という帯がいい。
6月7日、17日に開催される関川マラソンのナンバーカード引換証が来た。そんなに早く申し込んだわけでもないと思うのだが、息子は1番だった。1000人足らずの中の1番なんだからすごい(ナンバーカードだけだが)。月間のジョギング距離をアップした。文章はまだアップしていないのだが。
6月6日、なかなか思うようにはいかないものだ。原料に途中で火がついたり、いざ作ろうと思ったらタンクの中がくすぶっていたり、作ろうと思っていたものを作るのには原料が足りなかったり・・・。一応の成果は日本初の燃料を作ったこと。トラブルがありすぎて100キロには届かなかったのは残念だった。
6月3日、町内の草取りを終え、三面に向かう。メモリアルパークは人がいたので、その先のトイレがある空き地へ。ちょうどキャンプをしていた2組が帰り支度をしていたので、シートを敷いて焼き肉とラーメン。目的のピドニアが3頭採れる。タニウツギももっと盛りならいっぱい採れるのかなあ。
6月2日、久しぶりに昼前に走ってみる。瀬波海岸はすっかり夏模様だ。バーベキューの匂いが空腹を刺激する。午後からはピドニアを採集に関川村へ向かう。しかし、タニウツギの花はもう終わりで、トゲヒゲトラやニンフホソハナなどしかいない。いぶりの爺さんの雪解けもだいぶ進んできた。
6月1日、4月22日に行われた温海さくらマラソン大会の記録集が届いた。30キロの正式記録は2時間35分57秒だった。ゴールの写真も同封されていて嬉しい。息子と娘の1.5キロの記録を見たら、なんと娘の方が速かった(スタートは別々だったので、どちらが速いかわからなかった)。白つつじマラソン大会の2キロは息子の方が速かったのだが。
5月30日、いつも15時半に行くと人が少なくなる17時半頃まで待たされるので、17時過ぎに行った。しかし、薬局を出たのは19時半ころであった。腰に筋肉注射を打たれたが、とっても痛かった。しばらくして医者は「痛いですか?」と訊いたので、「注射ですか」と答えると、どうも注射の効果はあったかという意味だった。
5月29日、昨日夕方の突然の腰痛。2年ぶりくらいだろうか。でも今日は仕事を休むわけにはいかない。中央で「ああだ、こうだ」言って、後日また来ればいい。現場に着いたら、なんとか身体は動かせ、予定の仕事を終えた。長い時間座っていて動き出す時が辛い。夜の飲み会はキャンセル。
5月27日、新発田へ買い物に行く。お昼を食べている時に娘の前歯が抜けた。家に戻ってカメラを持って岩船港に行く。昨日近所の人から海王丸の整理券をもらったからだ。十年くらい前の銀河丸は船内を見せてくれたが、デッキを一周しただけで物足りなかった。
5月26日、小学校の運動会。興味走で息子ははじめから何が書いてある札か見当をつけていたらしく、要領よく1位。娘は予行練習をじんましんで休んだことを言い訳にして4位。徒競走はどちらも2位。リレーでもどちらも速かった。娘は同じ組が1人休んだらしく2回走ったようだった。
5月23日、全国白川ダムマラソン大会の記録証が送られてきた。正式タイムは45分24秒で、男子10キロの34位だった。参加者名簿の10キロは男女合わせて155人で、男子はざっと見て120人強だから、かなり前の方になってきた。しかし、順位ではなくできるだけ40分に近づけたいものである。
5月21日、昼休みにピドニア採集しようと外に出た。コデマリやナナカマドの花をすくってみるが、チャイロヒメハナカミキリが1頭採れただけで、トゲヒゲトラカミキリ、ツヤケシハナカミキリが多い。スギノアカネトラカミキリも1頭採れる。風が少し強いので、花まで飛んで来れないのだろうか。
5月20日、全国白つつじマラソン大会。雨はポツポツ当たるが、帽子はかぶらなくていい。1キロを3分57秒で入る。ちょっと速すぎだよ。しかし、その後は1キロ4分30秒前後のペースで、44分10秒でゴール。レースに出始めてこんなに早く45分を切れるとは思っていなかったが、後半越されることが多いのでまだまだ練習量が足りないのだ。
5月19日、村上市の泉町にクマが出たらしく、注意するようにと放送があった。下渡大橋を渡って来たのだろうか。午前は子供の宿題を見たり、部屋を片づけたり。子供にラーメンを作ってやって、ちょっと昼寝。それから買い物や明日の準備。3大会連続雨は避けたいところだが、さて明日の天気は?
5月16日、今日は原料の破砕から木質ペレットができるまでの過程を見ることができた。さらにペレットストーブに加えてビニールハウスでの暖房試験や試作中の屋外用ペレットコンロまで見せて頂いた。朝早くから夜遅くまで、しかも昼食も14時くらいだったが、充実した一日を過ごすことができた。
5月13日、天気は予報通り9時から12時まで雨。全国白川ダム湖畔マラソン大会。適度のアップダウンがある10キロを手持ち時計で45分23秒。これまでより前の方に並んだので、それほど越しもせず越されもせず走りきる。しかし雨だからゴールしても子供の出迎えはない。車の中で待機である。
5月12日、明日と来週の下見に行く。長井市の白ツツジは咲き始めたばかりで、ほとんどが蕾の状態だ。子供が走る2キロコースは遊歩道のようで車が進入できない。白川ダムへ行くと10キロコースがやはり遊歩道のようで車が進入できないようになっている。いずれも当日は杭を外すのだろうが。
5月9日、今日も急傾斜地の上り下り。しかもヤマビル生息地帯まで約1キロの位置。念のためにヒルノックを持って行く。数年前まで試供品のようなパッケージが、売り物らしくなった。しかし、ヤマビルの絵はいかがなものか。ヤマビルが嫌いな人は忌避材でもこんな物は持ちたくないだろう。
5月8日、正月まで順調に減っていた体重が、正月から増えている。「それなりに走っているのになぜだろう」と思っていたが、どうも正月から昼間はディスクワークばかりしているせいらしい。そんなわけで今日は久しぶりに昼間汗をかいた。40度近い斜面の上り下りである。
5月6日、子供を連れて松代へ母を迎えに行く。娘が「ふたりはプリキュア」を見たいと言うので、5時出発である。当然黒崎パーキングのモスバーガーの朝食もない。帰りに長岡のパーマークに久しぶりに寄って子供のTシャツを買う。パーマークは最近トレイルランニング用具も揃えている。
5月5日、義父の一周忌。15時過ぎに岩船1200年祭を少しだけ見て、家に戻る。それから息子が欲しがっていたゲーム「シンペイ」を買いに行く。三目並べだから、あっと言う間に勝負が決まるのだが、上の世界と下の世界があり、なかなか難しい。
5月4日、子供と一緒に家からすずきが池を経由して、いこいの森まで歩いた。休憩も含めて往復7時間かかった。シマヘビを見たり、アリジゴクを口で吹いたり、いつものラーメンを作ったりした。娘は先日学校で登った下渡山よりも疲れたと言っている。
5月3日、午前中に光兎山に登った。11時半に登山口に下りたが、最後にすれ違った二人の登山者が袋一杯のコシアブラを採っていた。林道には山菜採りの多いこと。しかもビールを飲みながらの人もいる。30年前はコシアブラなんて食べる人はほとんどいなかったのに。
5月2日、『新潟日帰りファミリー登山』(新潟日報事業社)を買った。1年くらい前からこの本が出ることは知っていたので、どんな山が載るのか気になっていた。とてもファミリーとは思えない山が載っていたりしていたが、せめて要害山くらいは載せて欲しかったなあ。
4月30日、20年ぶりに鷲ケ巣山に登った。村上に来て最初に登った山が鷲ケ巣山だから、村上に暮らしはじめて20年が過ぎたことになる。つまり、自分が松代で過ごした期間と同じくなったわけであり、これからは村上が最も長く暮らした土地になるのである。しかし、私のふるさとは松代であることに変わりはなく、松代のブナが最も輝いて見えるのである。
4月29日、松之山へ行って祖母を見舞い、コンビニのおにぎりを食べ、残りの羽目板を外す。午前中に確認した貝の化石を採集して村上に向かう。高速料金を半額にするために小千谷から乗り、新発田で下りる。しかも午後5時過ぎに下りなければならない。明日も休日だからできることだ。
4月28日、母と子供を連れて松代に行く。ところが、途中で家の鍵を忘れたことに気がついた。車の中に入れっぱなしにしておいたのだが、車を替えたのでどこかに置き忘れたままなのだ。幸い、半年家を貸していた近所にあった。生憎の雨で、羽目板も半分くらいしか外すことができない。
4月27日、窪木さんから手紙が来た。なんでも、セスジヒメハナカミキリに変異があって、村上付近の個体を見たいという。久しぶりに捕虫網と毒ビンを持って虫採りに行こうか。とりあえず、子供を連れてすずきが池からいこいの森を往復しようと考えているが、子供をどうやって騙すかが問題だ。
4月22日、雨の温海さくらマラソン大会。何度も種目変更しようと思ったが、結局30キロを走ることにする。15キロまでは1キロ約5分のペースだったが、15キロから20キロの峠越えでキロ6分近いペースまで落ちる。さらに20キロを過ぎたら足が棒のようになり思うように動かなくなる。最後の2キロはさらにペースダウン。タイムはだいたい2時間36分30秒。課題は30キロ以上を走れる足を作らなければいけないということだ。
4月21日、市役所へ期日前投票に行こうと車に乗ったら、FM PORTのhiroeさんが神林村の道の駅に来ていると知り、投票を終えて道の駅に向かった。20人くらいの列に並び、hiroeさんからステッカーをもらい握手をしていただいた。午後は明日の準備や買い物。雨か・・・・・。
4月20日、年度末から延期していた送別会。リニューアルした千渡里。暖簾をくぐると、「しゃぶしゃぶの方ですか」と言われる。村上牛のしゃぶしゃぶを頼んでいるのは我々しかいないのである。店を出るときには開店祝いの花を3000円分くらいもらう。5分の1くらい元を取る。
4月18日、笹川流れマラソン大会の記録集が送られてきた。走り終えた速報記録では初めて順位が半分以下になったと喜んでいたが、正式記録ではやはり半分以上であった。しかし、ハーフの男子全員では、やっぱり半分以下なのであった。35〜50歳はレベルが高いのである。
4月15日、午前は車のタイヤを替えてから、買い物。午後には家から子供を連れて、すずきが池に向かう。畑を通って浜新保集落の公園で遊び、瀬波温泉入口からすずきが池に上がる。池を半周して化石を探すが見つからない。一周する時間はないので、来た道を戻ってコンビニでアイスを買って国道から家に戻る。
4月14日、来週の温海さくらマラソンの下見をする。最初に息子と娘が出場する1.5キロを2回周る。温泉街の桜並木を走るコースだ。次に自分が走るコースだが、越路峠の急なアップダウンには驚いてしまった。車で下見とは言っても、あまりに長すぎる。スキー場でフキノトウを採り、温海川集落で温海かぶを買って温泉街に戻った。
4月8日、諸上寺山から諸上寺に下って、反対側の歩道を登って諸上寺山に戻る。昨日と同じく道玄池に下りて、いこいの森を経由し、すずきが池を昨日と反対回りで瀬波に出る。昼は子供を連れて要害山。登山者は他に5人。ショウジョウバカマだけ教えたが、いつまで覚えていることやら。
4月7日、諸上寺から諸上寺山に登ろうと思ったが、藪になっていた。道が違ったかもしれないが、登山ではないので藪に突っ込まず、車道から諸上寺山に上がる。道玄池に下りて、すずきが池を半周して瀬波に戻る。マルバマンサクも咲いていて、朝から山歩き(走り)で1日得した気分だ。
4月6日、『岩船学2号』を買った。と言っても、『1号』は買っただけで読みもせず、岩船に勤めている家内が職場の話題のネタに読んだだけだった。オールスポーツコミュニティーの写真は歩道橋から撮った写真が2枚あったが、少しも迫力がない写真であった。下に下りて撮ってほしい。
4月4日、『森の遠くで』以降の部分を執筆順に並べてみたら、2003年だけ何も書いていなかった。年度だと続けて書いているのだが。そこでBSNラジオに生出演したことで埋めようと思っている。確か家内が録音したテープがあったのだが、娘が部屋を片づけてしまったので、どこにあるのか。
4月3日、大学の機関誌?『松涛』が届いた。先日執筆者にいち早く届いた『松涛』は実は去年のものだったので、送り直してもらったのである。去年から始まった卒業生の近況報告にあたるペンリレーも堅苦しくなくて(自分だけだが)読みやすい。大学の酒ができたらしいので飲んでみたい。
4月1日、レースに出場し始めて、初めてのハーフマラソンだった。無理をせず、1キロ5分ペースで、1時間43分34。15キロを過ぎて何度も左ふくらはぎが痙攣しそうになった。まだまだ走り込みが足りないのだろうか。まず長距離を走ることができる足を作らなければならないということか。
3月31日、今月も一度も山に登っていなかったのでお城山に登る。時間的には下渡山でも能化山でも良かったが、最近は一時間走っても疲れないのに、一時間山に登ると筋肉痛になるからだ。午後は明日の下見。行きの距離表示は看板だが、帰りはほとんどアスファルト上で示されている。
3月30日、先日、村上の職場の人と笹川流れマラソン大会の話をしていたら、「村上トライアスロンにチームで出ませんか」と言われた。プールで50mしか泳げなく、自転車も子供用しかないので私は当然ランだが、確かに村上トライアスロンでもチームで出場できるようなのである。
3月29日、ジョグノートの使い方がだんだんわかってきた。しかし、オオイヌノフグリだの、プランターのブナが芽吹いてきただの書いても誰も関心がないって・・・。まあ、走りながらでも周りの景色に関心がある(周りの景色が見える)ランナーということで勘弁してもらおうと思う。
3月27日、『次に来る大地震は○○だ!』(第三文明社)によれば、第三種空白域が14カ所あって、能登沖空白域が2012年±5年(M7.0)と予測されている。今回の地震と少し位置が違うようだが、それでも予測が当たっていると考えるべきだろう。そのムックによれば、山形沖空白域が2007年±5年(M7.0)と予測されているのである。ジョグノートにヘルプ機能を発見したので、順調に登録が進んでいる。
3月26日、午前は娘を病院に連れて行き、インフルエンザの治癒証明書をもらってくる。それが無ければ明日の離任式に出られないからだ。天気がいいので、午後からは笹川流れにドライブ。息子と一緒に来週のコースを1回走り、フキノトウを袋一杯採って村上に戻る。
3月25日、光にしたらジョグノートに入ろうと思っていたので登録した。これからは、ランニングに関する日記はそちらの方に記録することになるだろう。しかし、使い方がわからない。朝青龍もあんな変化をしなければ、優勝決定戦で白鵬に変わられることはなかっただろう。
3月24日、長岡でにいがた貝友会の総会があった。山、無線、虫、貝・・・趣味の飲み会はどれも楽しい。帰りに石井スポーツでガスバーナーを注文し、初めてジュンク堂書店に行く。図書館みたいで、何がどこにあるのかわからない。買いたい本が何冊もあったが、2冊だけ買っていなほに乗る。
3月21日、午前中はパルパークで2時間走る。午後からコタツで昼寝をしている間に子供達がパソコンでゲームをしていた。再び子供を連れてパルパークに行った後で、WSのトップページの模様替えをする。ポップアップウインドウでなくなって、見にくくなったため分割画面を止めたわけだ。
3月18日、昨夜のいわふねクラブの酒が抜けず、家内の運転で新発田へ行く。安いランニング用のウエアと指先にマメができやすいので、厚い靴下を買う。子供達からの誕生日プレゼントは漢字検定のDSソフトである。しかし、何度やっても高校在学レベルである。
3月17日、笹川流れマラソン大会のナンバーカード引換券と一緒に水原の木村さんからの手紙が郵便受けに入っていた。五頭山麓一周ウルトラマラソンの案内である。ウルトラマラソンなど、まだとても走れる身体(足)ではない。あせらず少しずつ距離を伸ばしていこうと思っている。
3月16日、一ヶ月前は来月は早朝に八木鼻に登ろうと思っていたが、雪が降って登れなくなってしまった。早朝にランニングをしようと思っても、寒くて外に出る気がおきない。結局昼休みだけの30分のランニング。マルバマンサクを探そうと思ったが、オオバクロモジやムシカリなどがあるばかり。
3月11日、午前はパルパークで1時間半走って、午後からパソコンの設定をした。速いと言えば速いが、一番喜ぶのは息子だろう。これまで遅くて見られなかったWSが見られるからだ。自分自身にはあまりメリットはないのだが。外は再び荒れ模様だ。冬の到来が少し遅すぎたようだ。
3月10日、光回線にした。あまりWSは見ないし、メールしか用事はないからダイヤル回線で十分なのだが、電話は光の方が安いし結局乗り換えることにした。2時間くらいかかると思っていた工事も、1時間たらずだった。午後からパルパークで1時間半走る。外では花粉が怖いからだ。
3月8日、朝起きたら雪が20cm以上積もっていた。庭の雪割草が咲いたばかりだというのに、雪の下になってしまったのである。元気だろうか。雪が少なくなっていたスキー場は大喜びだろう。タイヤを替えた人もいるだろうが、我が家では4月中旬まで替えない予定でいる。
3月4日、10時にチェックアウトして、おみやげを買って、塩沢でラーメンを食べて、中之島見附でやっと高速に乗る。行きがETCを使って2400円で済んだので、帰りにそれ以上の高速代を使いたくないからだ。娘の絵日記は「また行きたいです」で終わっていたが、また行けるわけがない。
3月3日、車を買ったらプリンスホテルの宿泊券をくれたので、苗場スキー場に行った。10時過ぎに着いたのだが、バタバタしていて滑りはじめたのは12時前。ゴンドラを2回乗って、息子と二人で筍山に登って16時近く。やっと1人でリフトに3回乗って、プールに入って、ゆっくりビールを飲めたのが21時。
2月28日、テレマークゲーター(革靴のカバー)を買った。これまでひとつしかなかったので、ゲレンデと山を滑るたびに交換していたのだ。まだ売っていることも驚きだが、こんなんで14000円もするのも驚きだ。さっそく山用の革靴に付けたが、久しぶりに「靴が飛んでくる」恐怖を味わった。
2月25日、亀山さんらが建てた「梨ノ木山荘」を見て、余力のある人間が胎内スキー場風倉ゲレンデからシシ立に登る。山頂からは飯豊、朝日がよく見える。下越地方の若者二人が風倉山に登ると言って、シシ立を後にしたが、すぐに戻ってくる。虚空蔵山荘に戻って、14時過ぎに家に着く。
2月24日、自動車の1000キロ点検を済ませ、息子を耳鼻科に連れて行き、自分の歯医者に行って、昼飯を食べて藪山ネットの懇親会の準備をする。15時過ぎに買い出しをしながら、虚空蔵山荘に向かう。総勢17人である。いつものように寝てしまい、記憶の途切れた夜になってしまった。
2月21日、『早わかり化学』なんていう本を読んだ。なかなかおもしろくて、わかりやすい。こんな教え方をしてくれれば、共通一次の化学Tは30点台なんてことはなかったのに。もう30年近く前のことだけど。もう一冊目をつけている初心者向けの本があるので読んでみようと思う。
2月18日、9時過ぎの東京マラソンのスタートをテレビで見て、車にハンディー機を積んでテレビ放送を聴きながら新発田へ向かう。来月の準備である。といっても、手袋を買うだけなのだが。しかし、すぐにテレビ放送は受信できなくなる。温海さくらマラソンでも申し込むとするか。
2月17日、久しぶりに晴れた休日なので、海の方へ走ってみた。すると、瀬波海岸に3mくらいのサメ?が打ち上げられている。急いで家に戻って着替えて車で子供を連れて見に行くが、既にブルーシートがかけられて見られなくなっていた。子供達はシート越しに触っていた。
2月16日、村上の仕事仲間が二人笹川流れマラソンのハーフを走るという話を聞いていた。今日そのうちの一人が職場に来たが、彼は既にハーフもフルも走った経験があるらしい。もう一人もやはり仕事仲間でサブスリーの記録を持つ人の指導を受け練習をしたことがあるというのだ。
2月14日、朝の小学校校門でのあいさつ運動に行ったら、「武田さんって、いつもいいもの着てますよね」と父兄に言われた。着ていたのは、15年前のモンベルのジャケットである。最初はスキーで着ていたのを、スキーで着なくなったので普段着ているだけである。しかも15年間も。確かに、30年くらい前からアウトドアに全く関係ない人間が、マウンテンパーカーやダウンジャケットを街で着るようになっていたが、なんと言っても拍車をかけたのは10年くらい前に安室奈美恵がノースフェースの服を着て外国から帰って来てからだろう。ワイドショーで騒いでいたテレビを見ていた家内は言った。「あれって、いつもお父さんが着ている服だよね」普段着る服がないから、山で着る服を着ているだけなのに・・・。
2月13日、土曜日に依頼されていた原稿を二つ送った。少し自分を入れた方が絶対に読者が読んでくれると期待して二つ目も書いたのだが、依頼した人もやっぱりそちらをを選んでくれた。しかし、文字数と行数の設定が間違っていたようで、もう少し書き足してくれという返事だった。
2月12日、家族でわかぶな高原スキー場に行く。だんだんと天気が良くなる予報を信じてファミリーパックにする。大人2人子供2人の一日券と昼ご飯がセットで12000円だ。ところが、昼休みには晴れ間も出たものの13時前から雪になり、一番下に下りたら雨になった。結局14時でスキーを止める。
2月11日、今日もパルパークで3時間走ろうと思ったが、身体が重く2時間半で終了した。先週よりも身体への負担がかなり大きい。午後からも子供と一緒に4キロ走ったが、子供に付いていくのがやっとだった。帰りに息子は本を買いたいと言ったが、欲しい本は見つからなかった。
2月10日、昨日が息子の誕生日だったので、新発田に行ってプレゼントを買う。自分はユニクロでスポーツ用のベストを390円で買う。家に帰って値札を見たら、1990円→1000円→790円→500円→390円となっていた。胸にパタゴニアのマークでも付けようかな。
2月7日、作家の堀田あけみさんの長男の名前が真斗(まなと)だという。女の子だったら「まな」という名前だったが、男だったので「まなと」になったらしい。それじゃ、うちと同じじゃないか。歳も同じくらいだし。同じことを考える人っているんだなあ。でも「まな」にしようと考えた理由は違うと思うけど。
2月4日、原稿の締切が一週間後に迫り、3時間のランニングをしながら何を題材にしようか考える。家に戻って別大マラソンを見る。先にスパートした方が勝ちのような展開だった。また、パルパークに行って息子と娘を30分走る。さすがに子供と一緒のペースで走るのがやっとである。
2月3日、1週間前から庭の餌台に置いていたリンゴが、ここ2、3日ですっかり無くなった。漸くヒヨドリが気づいたのである。朝からトチノキの枝に止まり甲高い声でリンゴを置けと叫んでいる。スズメ用の餌も昨日買ってきたが、雪がほとんど解けてしまい、しばらく必要がなくなってしまった。
2月1日、朝から雪だったが、残業を終えて家に戻るとテーブルにはふきのとうの天ぷらがあった。1月の陽気ですっかり庭のふきのとうが食べ頃になっていたのである。2cmくらい頭をもたげていた雪割草の花は雪の下になってしまった。無事に咲いてくれるのだろうか。
1月31日、笹川流れマラソンのハーフを申し込んだ。初めての20キロを超える距離だ。そしてマラソン大会に出場し始めて、丸1年経ったことになる。心配は椎間板ヘルニアによる左足の痺れがまた始まったことだ。去年の笹川流れマラソンでだましだまし10キロ走った記憶が甦ってくる。
1月28日、パルパークへ行って2時間20分走る。家に戻って大阪国際女子マラソンを見る。渋井はこれが限界なのだろうか。スピードだけでは42.195kmは走れないのだ。福士がマラソンを走らないのもわかるような気がする。とにかくスタミナをつけて、再度チャレンジしてほしい。
1月27日、午前は娘の風邪の薬をもらいに行ったり、六斉市でぽっぽ焼きを買う。午後から息子の同級生が遊びに来ている間、買い物に行く。昨日買ったランニングの本を1冊読み(これは半分漫画だが)、もう1冊を半分ほど読む。こちらは名ランナーが著者である。
1月26日、またランニングの本を3冊も買ってしまった。他に科学と教育の本1冊ずつである。夕方から友人と二人の飲み会。何時以来かわからないが、たぶん1年ぶりくらいのはずである。あっという間に3時間が過ぎ、特急列車で寝過ごすこともなく、無事に村上駅に下りる。
1月23日、元旦マラソンの記録集が送られてきた。6キロ過ぎで追い越され、ペースメーカーにして最後まで付いていき、ラストで追い越したランナーがわかった。45分台で走れたのは彼女のおかげである。2秒前にゴールしたランナーの写真を確認したら、苦しそうな顔の自分がピンぼけで背後に写っていた。
1月21日、わかぶな高原スキー場に行く。子供はスキー子供の日なので、無料だ。親は半日券。しかも、先着100台になるように朝早い出発である。最初は放射冷却でガリガリ。10時を過ぎたら、すっかり春の雪である。いぶり差がまぶしい。テレマーク初心者が2人いた。
1月20日、納車祝にいただいた〆張鶴を飲み過ぎて、8時頃起きた。朝ご飯を食べてもまだパジャマでいたら、一ノ瀬さんが遊びに来た。午後からは最近のジョッギングコースである海沿いを岩船まで往復。それから、車にキャリアを付けたり、スキーにワックスを塗ったりして過ごす。
1月16日、新潟日報の週間天気予報が1面に戻った。正月からだったか、週間予報が総合面とかに移っていたのである。週間予報はおそらく今日の予報と同じくらい読者が毎日確認するものである。それが離ればなれになって、どこに週間予報があるのかわからない状態だったのだから、全く読者のことを考えていないと思っていたが、やっぱり苦情が殺到したのだろう。
1月15日、土曜日のことだが朝早く床屋に行った。白髪頭を染めているので、1箇月以上もすると地肌から2cm近くは白髪になっている。だから横側から短くしていくと横が白く、頭頂部が黒い髪型となる。「これじゃ、亀田興毅だ」と思わず鏡を見ながら自分でも可笑しくなった。
1月14日、1週間に1回は走り込もうと思っていたが、先週の3連休は走ることができなかった。そこで今日はパルパークで2時間半走る。外では時折吹雪く中で野球の練習をしている生徒もいる。家に戻って都道府県対抗女子駅伝を見て、どうぶつの森の金のアイテムをもらいにジャスコに行く。
1月13日、車のキャリアと先日買いそびれたランニング用の帽子を買いに再び新発田へ行く。家に戻ってから歯医者に行き、天気もまあまあなので走ろうと思って着替えて買ったばかりの帽子をかぶって外に出たら吹雪になっていた。しかたなく、山の写真をパソコンに取り込んだりして過ごした。
1月11日、元旦マラソンの写真がWSで見られるようになったのでで覗いてみた。残念ながら私は写っていなかったが、娘の写真はあった。髪を振り乱し必死の形相なので、かわいくない。息子の写真もないと思っていたら、番号不明のコーナーにあった。暑くて毛糸の帽子を手に持って走っていたので、それでゼッケンがわからなかったようだ。息子は一生懸命ではないので、それなりの顔で写っている。早速注文しよう。
1月9日、仕事帰りにスーパーに寄ったら、納豆が売り切れているらしい。どうやら、「納豆を食べると痩せる」というテレビ番組があったことが原因のようだ。「そうか、自分が痩せたのも納豆を毎朝食べていたからなのか」と納得(納豆食う?)するわけがない。痩せるには走るしかないのである。
1月8日、今日で冬休みが終わりなので、子供を連れて新発田に行く。ジャスコで我が家を建てた某住宅メーカーがクジ引きをしていたので、子供が引くと1000円の商品券が当たる。いつもの所で遊び、いつもの所で食事をし、スポーツ店を回る。最後のスポーツ店が終わって、隣のゲーセンに入ってハイチュウーをすくうゲームをして噛みながら店を出たら、歯に被せていた物が取れてしまった。高い100円ゲームになってしまった。
1月7日、息子の書き初めの清書を見てやる。10枚程度書いて、最後に名前を書く。一番うまくできたものを最後にしたら、一番下手な名前を書いてしまった。そこで、また2枚書き直し、名前を書いたが、結局どれもドングリの背比べのようになってしまった。母は「そういうものだ」と言って笑う。
1月6日、息子がたまカップで3位になったと大喜び。たった8人しか参加していないのだが。夜は無線の新年会。11人が集まる。22時過ぎで一次会が終わり、20mほど離れたスナックで二次会。25時過ぎまで歌う。だって、みんな30年前の歌だもの。カラオケは1年に一回だけだな。
1月4日、仕事始め。昼休みに一ノ瀬さんから電話があって、ヒラタケを持ってきた。そういえば、今冬はヒラタケが多いという話をよく聞く。「ナラ枯れ被害が多く、ヒラタケも多いのか」と隣の課の職員に訊いたら、「雪が少ないので、それだけ山に人が入っているからだ」という回答だった。
1月3日、箱根駅伝を見ていても面白くない(女子なら見るけど)。11時半頃に家を出て、畑を通って浜山を越えて、海へ行く。最近のジョギングコースである。岩船の公園まで往復約1時間。家に戻って駅伝のゴールを見て、息子と書き初めの練習。なんだか、あっという間の正月休みであった。
1月2日、長谷川さんと金塚駅近くのコンビニで待ち合わせ、大峰山に登る。小屋には三人いたが、やがて二人だけに。遠慮無く、QSOパーティができる。雨なので登山者が少ないのだろう。14時に桜公園で一ノ瀬さんと待ち合わせ。家まで送ってもらう。お礼は雪中梅とウドの油炒めだ。
1月1日、なんで元旦まで酒を我慢しなければならないのか。松代人には辛い。それでも、なんとか10キロ45分22秒。子供達は賞品が当たって大喜び。ドリンク24本と鮭の詰め合わせで参加費の元は取れただろう。ジャスコは人がいっぱい。家に帰って酒を飲む。これが村上人か。