2006年

12月31日、午前は蕎麦打ち。そして昼からいつも手巻き寿司を食べながら飲み始めるのだが、手巻き寿司は昨日腹一杯食べてしまったし、酒も明日の元旦マラソンがあるので缶ビール1本だけにする。午後は家から歩いてお城山に登る。今月も1回も登っていなかったから、またお城山で帳尻あわせである。お城山から下りてきて市役所前で家内と待ち合わせ、再び元旦マラソンのコースを子供と一緒に下見をする。夜はビール1杯に〆張鶴のしぼりたてを1杯と控えめにして、あちこちチャンネルを切り替えながら24時近くまでテレビを見る。

12月30日、弟家族が来た。外は風雨なので、子供達は家の中でかくれんぼなど大騒ぎ。昼はいつもの手巻き寿司。腹一杯食べたが、これってカーボローディング?。弟家族が帰ってから、元旦マラソンの2キロと3キロのコースを車で走って子供に覚えさせる。

12月29日、これまでフィルムスキャナーで読み込んだ画像に山行記録を見ながら、撮影日と山名をファイル名に変えていく。やっと、8分の1くらい終えた。山行記録では、山行回数は約700回。日帰りだけじゃないから、確実に2年以上山に行っていたことになる。

12月28日、仕事納め。元旦マラソンが近づくにつれ、やっぱり松代のように大晦日の昼から酒を飲み、紅白をうつらうつらしながら観て、元旦はボーっとした頭で年賀状を楽しむのがいいと思うようになる。しかし、喪中なので年賀状は来ないし、やっぱり走るしかないのだろうか。

12月27日、車が替わって一番悲しんでいるのは娘のようだ。息子も娘も生まれた時から緑のカリブに乗っていたのだから。でも、カリブは古くなったし、もう生産していないんだよ。それで、違う車を買わなきゃいけなくなったんだ。なんて子供に説明しても、子供はDSに夢中。

12月26日、フォレスターが来た。同僚に「フォレスターがフォレスターに乗ってどうするんだ」と言われたが、「フォレスターなんだからフォレスターに乗ってもいいじゃないか」と思う。なんたって我がテレマークスキーチーム名はフォレスターが発売される前から「テレ・フォレスター」なのだから。

12月25日、ボンズ川上さんの『テレマークスキー・ファーストブック』を買った。細板や革靴を紹介しているところも、川上さんらしい。TAJの主立った活動に参加しなくなって10年以上経つが、みんな北海道で活躍しているんだなあ。DVDは時間ができてから観てみたい。

12月24日、カリブ最後のお出かけは山形県のジャスコ三川店。大きさは新発田店よりも少し小さいが映画館がある。15時を過ぎてからパルパークで子供と一緒に元旦マラソンの練習。だが、元旦マラソンを走る前に、もう4月1日の笹川流れマラソンの申し込み書が送られてきた。

12月23日、新潟へ映画を観に行った。「劇場版どうぶつの森」である。「おいでよ、どうぶつの森」の金のアイテムがもらえるというので、前売り券を買ってあったのだ。まわりはそんな子供連れの親ばかりである。子供の元旦マラソン用のウエアなどを買って村上に戻る。

12月22日、学期末に音楽の試験があったらしい。楽器名を答える問題で、息子はフルートを「1000万円の金のリコーダー」、クラリネットを「黒い古いリコーダー」と書いたらしい。そのくせどこで覚えたのか、クロマツ、アカマツ、ヒマラヤスギなんていう樹木の名前は知っている。

12月21日、家内が職場のクリスマス会の準備があるから遅くなるというので、同僚から誘われた飲み会は断った。ところが、家に戻ったら別の人からも飲み会の誘いの電話があった。都合の悪い日に誘われるものである。こちらも行きたかったが、別の機会にしてもらった。

12月20日、同僚から「最近は走っていることと子供との買い物しか書いていないね」と言われた。それもそのはず、今年の年間山行日数はここ20年間で最低だった。一方、年間走行距離は1000キロ前後だろう(高橋尚子のたった半月分である)。今月もまだ登っていない・・・。

12月19日、元旦マラソンのナンバーカード引換券が来た。そのせいではないと思うが、職場から家までの間に走っている人を5人見た。いつもなら1人いるかいないかくらいだ。しかし、私と言えば椎間板ヘルニアによる足の痺れが再発し、思うように走れない日々が続いている。

12月18日、高桑さんから2冊本が届いた。1冊は高桑さんも執筆している『日本の登山家が愛したルート50』、もう1冊は宗像兵一さんの『朝日連峰水源の沢』だ。前者は読み物だし、後者はとても行ける所ではないが写真を見ているだけでも楽しい本である。

12月17日、まほろば温泉の朝風呂に入って家に戻り、母を連れて六斉市に行く。午後からは実業団の女子駅伝を観る。これだけじっくり観たのは初めてだったが(途中で寝たけど)、最後の勝負は面白かった。それにしても、歳が半分のランナーと競り合うまで競技できるとははすばらしい。

12月16日、午前は子供を連れて買い物。午後からは泊まりで、いわふねクラブの忘年会がいつものまほろば温泉であった。これまでの活動をまとめてプロジェクターで映像を流した。24時近くまで話していたが、翌朝まで酒が残るのを恐れてほとんどビールで終始。

12月10日、七五三。娘にドレスと着物を着せて写真を撮ってもらった。しかし、義父が亡くなった年なので神社には行かなかった。午後からは新しい車を検討しにいく。10年で18万キロ走った車を下取りしてもらったり、他に各種サービス。セールスマンとの駆け引きだ。

12月9日、昨日新潟に行ったら娘が欲しいゲーム機が明日入荷するという。午前中はそれを探しに村上を回ったが、あるはずがなく、予約できないとか、予約しても来年だという。結局午後から新潟に行き、4色のうちまだあった物を買う。1時間後には全て売れ切れていた。

12月3日、新発田へ買い物に行く。ユニクロは10時前には駐車場が満杯になっていて、店を出るときには脇の道路にも4台くらい止まっていた。それからジャスコに行って、お昼を食べて、帰りはアルペンに寄ってジョギングシューズを買う。家内がいないと自由に買い物ができる。

12月2日、タイヤを替えてなかったので、朝の雨が当たらないうちに取り替える。家内と子供が情報センターの理科の実験教室に行ったので、一人でパルパークに行く。10時から走り始めるが、12時を過ぎる頃から右足の甲の辺りが痛くなる。12時半まで走って家に戻る。

11月29日、今日もランニングに関する本を2冊買ってしまった。もう20冊以上はあるかもしれない。読み物以外は書いてあることはほとんど同じなのだから、何冊も買うよりも1冊に書いてあることを忠実にやればいいのだが、本を買うのも趣味のひとつだからしょうがないと思っている。

11月27日、雑文書きの依頼が多い。今日は大学の学部の機関誌である。日本ハムのパリーグ優勝が学生時代以来だから、そのことでも書こうと思ったが、顔写真も載るのだから、卒業後の体重変化にした。学生時代の体重まであと1キロなのだが、その1キロが難しい。

11月26日、午前中は天気がもつだろうと、小国町の樽口峠に行く。北股岳や烏帽子岳はガスに隠れていたが、しばらくすると飯豊連峰が全貌を現した。車で来れる飯豊の展望地ということもあって、車が絶え間ない。お昼を食べて家に戻り、パルパークに行って子供と少し走る。

11月25日、先日、松代から持ってきた弟と一緒に使っていたベッドを修理して、息子と娘の部屋に置いた。新しいベッドを買っても良かったのだが、捨てるのがもったいないし、せめて中学生くらいまでなら大丈夫と判断したからだ。息子も娘も嬉しそうで、さっそく横になっていた。

11月23日、家内の休みと休日といい天気が久しぶりに重なったので、10時を過ぎてから家族全員で米沢に行く。昼食は米沢牛のステーキといきたいところだが、米沢ラーメンで我慢。上杉神社を観たり、鳩と遊んだり、おみやげを買って、家内の実家におみやげを届けて帰る。

11月19日、瀬波小学校で瀬波っ子祭りがあった。何かというと、3年生以上が各クラスでゲーム会場を作るというものである。3年生以上は前半後半に分かれて、会場係と他会場で遊ぶというわけだ。さらに、終日授業参観であったが、二人とも嘔吐下痢症明けなので、午前で早引きさせた。

11月18日、風邪を引いてしまったので、走るわけにはいかない。しかたなく古いネガや写真をスキャナーで読み込んだりしていたら、大学の受験票や合格通知書などがきれいに綴じられているファイルを発見した。しかし、肝心の卒業証書がどこにあるのかわからないのである。

11月14日、祖母の妹が亡くなったと連絡が入る(母の叔母になる)。先月の弟に続いての訃報だ。これで祖母の妹、弟の5人のうち、3人が亡くなってしまった。しかし、施設で過ごしている祖母はそのことがわかるような状態ではない。ただ食事を自分の手で口に運べることしかできないのが悲しい。

11月13日、午後から山北町に行く。県境までわずか20mのスギ林だ。休憩時間に県境の稜線まで上がると、うっすら踏み跡があり、しかも「温海嶽の遠望」の文字と矢印が記されている朽ちた標識が倒れていた。「温海嶽」とあることから、山形県側の仕業だと思うが、遊歩道でもあったのだろうか。

11月12日、午前は買い物。午後からパルパークに行く。先月は200キロを超えるくらい走ったが、今月はまだわずか18キロ。バドミントンの試合があり人が多かったので、ペースよりも時間を重視。1時間40分を超えると足が棒のように感じ、2時間を超えると足の甲が痛くなったので、2時間10分でランニングは終了。

11月11日、村上市の文華祭で、6月3日と同じ「どごいがんだね ばあちゃん」に家内が出演するので観に行った。あとは、踊りばかりでさすがに子供には無理なようだ。お昼を食べて、一旦家に戻り、終了間際の子供のバレエを観に再びふれあいセンターに行き、神林の母を家まで送る。

11月7日、久しぶりの登山で足が筋肉痛である。いくら月間200キロ走ったからと言っても、やはり登山とランニングでは使う筋肉が違うようだ。岩岳からの下りで既に足に違和感を感じていたのだが、同行していた人は何にもないのだから、やはり登山の足は登山でしか鍛えられないのかも知れない。

11月6日、最低毎月1回は山に登ろうと思っている。月末になって「今月は山に登っていないなあ」と思ったら、お城山でごまかしたりしている。2月がそうだった。しかし、7月は手帳を見ても山に登った記録がない。やはり家内に遠慮して、知らず知らずのうちに山を控えていたらしい。

11月5日、加治川ダムで待ち合わせ、俎倉山登山口に集合すると今日のメンバーは10人だった。車3台で馬ノ髪山登山口に向かい、馬ノ髪山に登る。そこから俎倉山に向かうが、4年前から手入れをされていないみたいだ。俎倉山の天狗の庭で昼食。1時間ほどで8人と分かれ、岩岳に向かう。9月3日に歩いた後にも手入れをされているようで、まるで登山道のようだった。

11月4日、最後の冬囲いをして、祖母のいる施設に行く。祖母はもうわからないようで、嗚咽をもらすわけではない。菖蒲の滝見場へ行き、線香をあげる。浦川原の食堂でお昼を食べて、旧頸城村の親戚へ。息子と娘の又従兄弟になる赤ちゃんと一緒に写真を撮る。

11月3日、息子と娘を連れて松代に向かう。みずき野の店はちょうど10時に着いたのに、やっていない。弥彦山に車で上って山頂まで歩く。山頂まで来たのは10年以上前のことだ。SOWA美術館によって、長岡市のパーマークに向かう途中で遊具がたくさんある公園を発見。パーマークでガスを買って、実家に着いたのは17時になっていた。

11月2日、去年の12月中旬から朝夕と体重を記録している。その結果、10箇月で5キロ減った。グラフを見ていて気づくのは、マラソン大会前の1箇月間に体重が落ちていることである。笹川、関川、穀菜のいずれも大会前の1箇月間に体重が1〜1.5キロ落ち、マラソン大会が終われば体重は安定している。秋は意識的に走っているので、あと1キロ減って、合計5キロというわけである。

10月31日、10月の走行距離は223.5キロだった。これまで記録していたわけではないが、100キロ前後だったと思う距離を意識的に伸ばしたためだ。基本的なジョギングコースが7キロなので、毎日そのコースを走れば200キロを超えることになる。しかし、大事なのは毎日走ることではなく、まとめて走ることである。

10月29日、母と松代に帰る。実家の窓を開け放ち、布団を乾して、祖母のいる施設へ行く。祖母は自分で食事をしていた。疲れたのか手を休めたので、母が祖母の口に食事を運ぶ。70年間の年月を経て立場が逆転しているのである。施設を出て、母と二人で公園のベンチに座って弁当を食べているとツクシがでていた。秋のツクシなんて見たのは初めてだ。母を実家において、村上に戻る。

10月28日、スポークラブの遠足に行く息子を村上駅まで送り、昨日取ってきた試料が車の中で邪魔なので職場まで持って行く。なんだか疲れてしまって、昼寝ならぬ昼前寝。午後からパルパークに行って、軽くジョギングする。月間走行距離が200キロを超えた。

10月26日、日本ハムが日本一になった。にわか日本ハムファンではない。巨人の高橋一と張本がトレードした頃からのファンなのだ。25年前は巨人に負けた。新潟出身の渡辺が10年以上も二軍暮らしをして、やっと掴んだセカンドのレギュラーの位置を奪ったのは今は選手会長の金子だ。中日の選手の上田もコーチの高代も日本ハムの選手だった。ヒルマン監督、新庄の加入、北海道への移転・・・、優勝した理由はいろいろあるだろう。しかし、私はここ1、2年に加入した投手を見極めたスカウトだと思う。ダルビッシュ、八木、武田勝。わずか2年間で獲得した新戦力が活躍してくれた。それに、金村を日本シリーズまで隠したこと。シーズン終了間際に怪我をした工藤をプレーオフに投げられないような偽装してプレーオフ第一戦に投げさせた大沢親分が重なる(誰か私と同じ分析をしている人はいるだろうか)。車のオレンジ色のファイターズ人形もお系に頼んで新しいのにしようかと思う。

10月22日、小学校と瀬波地区の展覧会。夕方少し走るが、それよりも大事な事は日本シリーズである。何たって30年来の日本ハムファンなのである。昨日は大人と子供の試合のようだったが、今日は日本ハムらしい勝ち方だった。北海道に戻ってからも頑張って欲しい。

10月21日、子供が展覧会の準備で学校に行ったので、パルパークに行って走る。1キロ6分半のペースで10キロ走って、スポーツドリンクを一口飲んで、今度は1キロ5分ちょっとのペースでまた10キロ。今月の月間走行距離が140キロを超えた。走れば確実に痩せていくのがわかる。

10月19日、初めて岩船大祭を見に行く。山車は村上や瀬波よりも大きいし、華やかな気がする。思っていたよりも店も人も多い。従兄弟になる鈴木さんも礼服を着て提灯を持っていた。娘は輪投げを二回、息子はボール投げとダーツを一回ずつ。私はタコ焼きを買って帰る。

10月15日、長井マラソン大会。子供だけの部は無いので、結局親と子供が一緒に走ることになった。フル、ハーフ、10キロ、ファミリーが同時スタートなので、一緒に走ることしかできないのである。遅いし、短いし、欲求不満だけが残った。でも、来年以降の下見と思えば、と考える。

10月14日、三条市に行く。ちょうど10時に着いたので、バター作りや乳搾り体験に間に合った。ヤギにえさをやったり、ウサギやヒヨコを抱いたり、娘も息子も楽しそうだ。牧草で作った巨大迷路は大人でもパニックになりそうだ。2時間の予定が、3時間になってしまった。

10月13日、この季節に雪に触ることができた。2000m級の山に登ってきたわけではない。もちろん沢登りをしていたわけではない。能生の権現岳の万年雪が残るという場所に行ってきたのである。昨日、娘は「一位になる」と言って、二杯ご飯を食べて学校に行ったらしい。

10月12日、小学校のマラソン大会。いつも練習では二位の娘だが、昼休みに家内から一位になったとメールが来た。どうも先を走っていた女の子の靴が脱げたらしい。それで立ち止まった娘に、「先に行ってもいいよ」と靴が脱げた女の子が言ったようだ。まだ折り返し地点だから、追い越せる自信があったらかなのかもしれないが、小学校一年生らしいマラソン大会であった。

10月9日、瀬波地区のロードレース大会。まず各町内対抗の駅伝。瀬波地区の各町内を回る約12キロを14人で走る。我が町内は4位であった。それから、高中低学年に分かれてロードレース。娘は8位、息子は9位。さて、本番は12日の学校のマラソン大会である。

10月8日、土砂降りなので、午前は家族で買い物。14時半を過ぎて、パルパークへ走りに行く。風邪を引いていたので、走るのは一週間ぶりである。2キロ走った後で少し休み、10キロを走る。一周200mなので、目が回りそうだ。水分を補給して、また5キロって家に戻る。

10月7日、職場の一般公開だが、3年連続の雨である。私の本を読んで手紙をくれて、その後二王子岳で偶然お会いした阿賀野市の木村さんも来てくれた。ありがたいことだ。今年は200人を超える人が来てくれた。並べた野生きのことほぼ同数であった(?)。

10月5日、昨日から扁桃腺が腫れて痛いので、風邪薬を飲んでいる。今日は二箇月ぶりの病院だったが、少し状態が良くなったので、いつもの薬だけで風邪の薬を要求するのを忘れてしまった。なんで風邪など引いたのだろう。一昨日の材木運びで汗をかいたからだろうか。早めの着替えが必要な季節になってきたということか。

10月4日、約10年ぶりにマイタケを発見した。「武田さんは仕事中に山に登っている」という人がいる。山に入るのが自分の仕事だから、その言葉は否定しない。しかし、「仕事中にきのこを採っている」と言われれば心外である。マイタケは仕事をしていた0.1haの中に出ていたのである。

10月1日、家内が仕事なので、母と子供を連れて新発田へ行く。子供達は100円で15枚のメダルゲームが気に入ったらしい。私は長袖のランニング用シャツを買った。母はJRに勤めた甥からもらったお金で杖をかった。家に戻って、遅い昼寝をして、久しぶりに林道を走る。

9月30日、午前は家内と子供の4人でお城山に登る。知っている人が何人も登っていた。午後は子供をたまごっちカップに連れて行き、その後小学校でカレーライス作りと星空観察。月のクレーターがはっきり見えた。娘に竹馬を教えるついでに、自分も久しぶりに乗ってみる。

9月29日、金曜日はいつも家内と子供はスポーツクラブに行っているし、母も畑なので、家に帰ってすぐに風呂に入ることができない。そこで、家に戻ってからも走っていたのだが、だんだんと陽が短くなってきて、今日はやっと20分走ったくらいだった。仕事帰りの車が多い町中を走るのは嫌だし・・・。

9月28日、日本ハムが優勝した(1位通過だけど)。なんたって、約30年のファンである。前回の優勝は学生の時だ。確か日本シリーズで巨人に負けたはずだ。監督はたぶん大沢親分。工藤がいたはずだ。柏原もいたかもしれない。島田、高橋直、杉山・・・。あれからもう25年も過ぎたのである。

9月24日、登山後の飲み会に続き、無線の飲み会があり、家に帰ったのは24時近く。当然、午前中は何もできず。午後になって、子供を連れていつもの100円ゲーム。それから、雪割草の土を買って家に戻る。しかし、植え替えをする時間がなく、来週以降になる予定。

9月23日、11年ぶりに朝日村の石黒山に登った。これまで2回単独で登っていたのだが、あまりにも道が悪いので驚いた。これでは初心者は不安だろうし、ガイドブックに石黒山が載っているのもどうかと思うほどだった。だけど、山頂付近だけはなぜか刈り払われていたようだった。

9月19日、来るとは予想していたが、やはり今日電話があった。最近注目されている樹種の北限に関する問い合わせである。目指岳付近というのは知っていたが、北限は福島県なのか新潟県なのかという質問であった。どちらでもいいと思うのだが、多いのは福島県側のようである。

9月18日、敬老の日なので、家内の仕事が終わってから二人の母を連れて、関川村の「ゆーむ」に行く。関川マラソンの参加賞として無料入浴券が2枚あったし、SDカードもあるので、一人100円引きになるからだ。SDカードの申請には700円くらいかかったはずだから、これで元がとれただろうか。

9月17日、何かを買う予定でもあるわけではないが、新発田へ行く。敬老の日のプレゼントを買い、子供を少しだけゲームで遊ばせる。長袖のトレーニングウエアを買いたかったが、2、3着買うには高すぎる。そのうち、ユニクロのチラシに載っていたら買いに来ようかと思う。

9月16日、家内と一緒に子供を連れて小学校へ工作をしにいく。家内と娘は茶染め、私と息子は紙玉鉄砲作りである。ところが、紙鉄砲作りの先生は遠山さんであった。『新潟花の山旅』にない日帰りのガイドブックを新潟日報事業社が来春出版する予定らしく、遠山さんは原稿を書いているようだ。

9月15日、さすがに村上よりも東に位置しているのか、朝明るくなるのが早い。ホテルから盛岡公園、盛岡駅と一周して、ホテルに戻ってカメラを取ってくる。街路樹のトチノキの実を落としている作業を撮影するためだ。それから開運橋まで行って、岩手山を撮る。帰りは6時間のバス移動。

9月14日、10年ぶりの盛岡だが、さすがにバス7時間は疲れた。おまけに若いからと、タイヤにある位置の座席に座ったので、ずっと足を不自然に折り曲げたままだった。10年前は啄木新婚の家などを見て、わんこそばを食べたりしたのだが、どこのホテルに泊まったのか覚えていない。

9月13日、朝、穀菜マラソン前に走っていた速いペースで7kmを走ってみる。昼休みは漸く涼しくなってきたので、1.5kmを6分50秒のペースで4周走る。6分45秒で走れば、1km4分30秒になるので、それに近いペースだ。岳人10月号が届いていた。明日のバスの伴にしよう。

9月10日、10時にジャスコに行って、弁当を買って樽口峠に向かおうとしたが、どうも飯豊は雲の中のようだ。そこで車の進路を奥胎内へ変える。「サルがいるぞ」と息子と娘に言ったが、往路は現れず。キャンプ場でお昼を食べて、胎内川で遊んだら、復路ではやっぱりサルの登場。

9月9日、いつもカメラを持っていたいと思う。昨日見た樹木の幹を登るミミズ。1mくらいの高さにいたヤマキサゴに挨拶をして、さらに登ったようだが、それから落ちてしまったのか。今日は3匹連結したトンボを見た。オスとメスの順番はどうなっているのか。自分の記憶にしかないのが残念だ。

9月3日、俎倉山から岩岳を歩く。天然スギが美しい。久しぶりの羽田さんらとの山なので体重増を心配していたが、やっぱり夕方体重を測ったら1キロ増えていた。平日なら夕方測ると1キロ減っているところなのに・・・。やっぱり山に登らないでいたほうが痩せるのだろうか。

9月2日、今日から9月だ。5時半頃から走ってみるが、一週間前の疲れが残っているのか、椎間板ヘルニアのせいだろうか、何となく左太ももに違和感がある。特別早く起きたわけでもないのに異常に眠くて昼寝を2時間。それから子供を連れて2時間ほど買い物をして家に戻る。

8月31日、穀菜マラソンの記録が届いた。48分28秒だった。目標は50分を切ることで、できれば48分台だったが、なんとか達成することができた。一般・高校生男子62人中34位なので、ほぼ真ん中だ。これからの目標は遠山兄妹の娘と結婚した従兄弟を元旦マラソンで上回ることだ。

8月27日、神林村の穀菜マラソン大会。30度を超える中、10キロがスタート。1キロ地点で時計を見ると、なんと4分30秒台。これは速すぎる。徐々にペースは遅れるものの、3カ所の給水所で復活し、50分を切ってゴール。炎天下の中のレースで初めて1キロ平均5分を切ることができた。

8月26日、町内の夏祭りの準備のため、9時から調整池に集まる。毎年のことだが、すごく暑い。初めて参加する人は、あきれて午後の準備にも夜の夏祭りにも来なかった。焼きそばを作ったり、チケット売りをしたが、明日のことがあるので、生ビール2杯で止めて、早々家に戻る。

8月25日、旧上川村の魚止山直下まで歩いて登るが、お昼を食べるしか昼休みに時間が無いので、昼休み時間に魚止山に登ることができない。結局家を5時に出て、21時に帰る仕事だった。明後日の穀菜マラソンに疲れを残さないように歩いたつもりだが、いかがなものだろうか。

8月23日、20年ぶりくらいにアートスポーツに行ってみた。ケルティのタイオガを買ったのも、初めてのテントもこの店だったのである。もう25年以上前のことだ。店はすっかりただのスポーツ店になっていた。ランニングシューズやウエアを眺めた後で、靴下だけ買った。

8月20日、松代の桐山集落、あざみ平集落のアートを観て、実家に戻ってお昼。松之山の祖母を見舞って、実家で荷物を積み、全員で車に乗る。さらに帰り道沿いの川西のアートを見ながら車を走らせる。棚田の風景を見て、息子は「箪笥の引き出しを全部出したようだ」と言う。

8月19日、祖母のニ十三回忌、父の十三回忌の法事を終えて、千年集落のお墓の下にできた食堂でご飯を食べる。それから、松代の室野集落、峠集落、儀明集落、名平集落のアートを観る。母は懐かしい人との会話が終わらない。娘は芸術家の要望でモデルになって撮影されていた。

8月18日、家内と子供を連れて松代へ行く。実家に着いた後、母も車に乗せて十日町に行き、アートを観た後でクロス10の小島屋で蕎麦を食べる。それから中里〜津南のアートを観る。中里の巨大ブランコでは母も童心に戻って楽しんだ。津南から松之山経由で実家に戻る。

8月17日、息子と娘を新潟に連れて行って映画を観る。しかし、映画まで時間があったのでボウリングをする。息子が「ボウリングをしたい」と言っても、「ボーリングっていうのは穴を掘ることだよ」とごまかしていたのだが、今日はしょうがない。20年ぶりのボーリングだったが、ターキーが出た。娘は「タッキー&翼」なんて言ってボケている。

8月16日、昼ご飯を先に作っておいて、昨日に引き続いて午前はプール。さすがに昼食後は昼寝をした。いつもは昼寝をしない娘も疲れ気味かすぐに寝たが、反対にすぐ寝る息子はいつまでも寝ない。14時過ぎに家内が仕事から帰ってきても、娘と私は寝ていた。

8月15日、午前は卓球、午後はプール。それで、夕方にジョッギングしたが、さすがに身体は疲れている。瞬間最低体重が61キ台になる。しかし、夜は無線の飲み会。体重は元に戻る。迷惑メールブロックサービスを契約したところ、ほぼ完璧である。いちいち全部確認するのだろうか。

8月14日、神林に行って寺参り。所変われば風習も変わる。それから新発田に買い物。マクドナルドでお昼を食べて、UFOキャッチャーを一発でゲット。娘は喜んで一緒に寝てくれると言う。しかし、10分間だけ。家内のシューズを買うが、さて私のように痩せられるだろうか。

8月13日、朝は実家の近くのアートを見ながらジョッギング。走ったり歩いたり。祖母の見舞いに行く。何とかわかるようだが、やっぱりただ泣くだけである。親戚に寄ってから、母の同級生の食堂でお昼を食べて、実家で休む。母を残し、子供を連れてアートを見ながら村上に戻る。

8月12日、母と子供を連れて松代に帰る。日本文理の横山は選抜に比べるとかなり小さくなってしまった。これでは甲子園での一勝も無理だろう。スカウトもガッカリしたに違いない。その後、近くの大地の芸術祭を見る。3年前に比べてアートも増えて、また一段と面白くなった。

8月6日、午前は瀬波地区の親子キックベースボール大会。二試合目で負けて、急いで家内の職場の夏祭りに向かったものの、もう終わっていた。昼寝をして涼しくなってから息子を連れて瀬波の裏山を散策。網の目のように遊歩道や車道があり、どこをどう歩いて良いのかわからない。

8月5日、月山に登ろうと母と息子と出かける。しかし、八合目に着いたものの、ガスで視界は20mくらいだ。5年前にもこの3人で登っているので、こんな天気で登ることもない。2時間車で待ってみたが、状況が変わらなかったので、弥陀ヶ原を少し回って、笹川流れの様子を見ながら村上に戻った。

8月4日、飯豊連峰の次は朝日連峰である。しかし、この林道は年々悪くなっていく。当然、我々なら予測できるのだが、主催者側は理解できならしく、なかなか場所を変えようとしない。今年はアブが少なくて良かったが、それも大雪のせいで発生が遅れているだけなのだろうか。

8月3日、大日杉から飯豊本山に登った。大日杉まで30分の道路歩きは予定外だった、12時前に飯豊本山に着き、18時には大日杉に下りた。しかし、そこから車までのアブの襲撃がすごかった。30分間タオルを振り回し、車に着いてからも着替えることができず、登山靴のまま運転し、アブがいなくなった所でなんとか着替えた。

7月30日、昨日の天気が良かったので、午後になればプールの水もかなり温かくなるだろうと、子供を連れて神林のプールに行く。しかし、やっぱり水は冷たく、30分もすればもうプールから出たくなる。ところが、子供と鬼ごっこは始めたら、なかなか止めてくれない。結局2時間プールにいた。

7月29日、買い物をした後で、職場に行って調整中の試料を取り替える。午後からパルパークで家内と待ち合わせる。息子と一緒に2キロを走る。家に戻ってから、息子が化石セットを発掘したいというので見ていた。化石を茶色の石膏で固めたものだが、いろいろ考える人がいるもんだ。

7月28日、キョロちゃんのミュージカルが当たったので、家内と子供を新潟に送りに行くが、見られるは3人まで。吉相でラーメンを食べて、県民会館に届ける。ブックオフ、ゼビオスポーツ、ユニクロなどで時間をつぶし、県民会館に迎えに行く。村上までの帰り道はすごい雨になる。

7月27日、木の皮を削っていて、指を怪我してしまった。指に包帯を巻いて家に帰ると、娘は「お父さんの仕事って大工さん?」と訊く。まあ、似てなくもないが、娘に説明したところでわかるはずもないだろう。休みには職場に行くかもしれないので、一緒に連れて行ってみようか。

7月25日、昨日から新潟日報に大学の後輩の連載が始まった。昨日はヒラヤマコブハナ、今日はシロトラだ。しかし、あまりにも字数が少なすぎる。これじゃ、図鑑と同じである。もう少し字数を多くして、その虫への思い入れでも書かなければ、誰も読まないだろう。

7月23日、家内の車のバッテリーがあがったので、職場まで送った後でJAFを呼ぶ。バッテリーを交換して、家内の職場まで届けて、家まで走って帰る。ゆっくり走っても40分はかからなかった。午後は母と子供を連れて、いつもの買い物。子供はいつもの100円ゲーム。

7月20日、新潟に出張したら副社長に、「飯豊の写真はないか?」と訊かれた。望んでいるような写真は無いわけではないが、なにしろ10年以上前の写真である。副社長も趣味のことだから、出張というわけにはいかないが、休みくらいとって登る理由にはなるだろう。

7月18日、昼休みに『岳人』8月号を買った。岩城さんからメーリングリストで、「沢登り特集だから、買ってよ」って言われていたからである。こんな特集を見ていると無性に山に行きたくなるが、今月は走って登った見附の観音山だけかなあ。せめて月末に飯豊でも行ってみたいなあ。

7月17日、先週の水木金の研修の夜に明日の発表の準備をしようと考えていたのだが、研修中の夜になんて結局何もできるわけないし、3連休も何もしないまま今日まで来てしまった。やっと昼寝をした後で、明日の準備を始める。なんとかパワーポイントを少なくして、発表原稿を作ってみる。

7月16日、天気がいいんだか、悪いんだか。午前中はなんとか雨があたらないので、外で40分ほど走ってみる。昼寝をしていたら雨が降ってきたのでパルパークに行き、一人で1時間走る。右足首が少し痛い。無理せずにゆっくり走る。今日も火曜日の準備ができなかった。

7月15日、3連休だが、雨だし何もする予定がない。午後から息子と娘をパルパークに連れて行き、一緒に走る。先日応募していた当たりの寿司を取りに行くと、意外にいい寿司だった。せいぜい稲荷寿司と巻き寿司の組み合わせだと思っていたら、生寿司もあって1500円程度だろうか。

7月14日、どういうわけか、このブナは実をつけている。新潟県は去年豊作だったわけだから、今年は全くと言っていいほど実をつけないと思うのだが、太平洋側あるいは南のブナだろうか、かなり実をつけている。家に帰ると関川マラソンの記録が届いていた。133人中80位、1時間20分29秒だった。

7月13日、仕事が終わり、雨が降っていなかったので走った。今日は若い消防士と一緒である。追い越していく消防士もいれば、歩いている消防士もいる。「もう少し頑張れよ」と言いたい気分だ。結局1時間半走り、風呂に入った。夕方走ったのは久しぶりだったので、朝までゆっくり寝た。

7月12日、長い間欲しかった『サバイバル』10巻をやっと見つけた。週間漫画雑誌に連載されていたのはおそらく高校生くらいだろうが、立ち読みくらいで、全てを読んでいたわけではなかった。少し迷ったが、購入し、早読みだったが、翌朝までに読み終えた。漸くエンドがわかり安心した。

7月9日、近くの学校のグランドに集まり、町内の小学生を対象とした警察による自転車の指導。昼前になったら雨が降ってきたので、あわてて洗濯物を入れる。札幌国際ハーフマラソン優勝の野口みずきは一段と引き締まったような気がする。五輪連覇も夢ではなさそうだ。

7月8日、たまには違う場所で走るのもいいと思い、弟の家の周辺を走る。観音山山頂はあじさいが見頃だ。近くの中学校では野球部の練習らしく、それらを見ながら走る。帰りは燕のストックバスターズに寄ってみるが、特別欲しい物があるわけでもないので、何も買わなかった。

7月7日、5月27日に続く従姉妹の結婚披露パーティ。2箇月もしないうちに娘ふたりを嫁がせる父の気持ちはいかがなものか。七夕の夜の披露宴だったので、村上に戻ることはできず、同じく招かれていた弟夫婦の家に泊まることにしたが、こっちも4人で二次会だ。

7月2日、午後は息子と娘と一緒にパルパークに行き、娘は2.2km、息子は3.2kmを走り、シャワーを浴びて、帰りの途中でちょっとだけいつものゲームをする。書店をのぞいたら、『渓流夏号』があったので買う。ポイントがちょうど10点になったので、プレゼント応募箱に入れる。

7月1日、スポーツクラブでマリンピア日本海へ行く息子を村上駅まで送り、母と娘の3人で新発田へ買い物に出かける。帰りに五十公野公園であやめまつりを見る。クイズラリーが8問あったが、はっきりわかるのは2問しかなくて、回答用紙も提出できなかった。18時過ぎに息子が無事に戻ってくる。

6月28日、毎朝7時台のいなほで会う50代の男性は必ずロードレースに参加しているので話しかけてみた。「若い頃から走っているんですか」、「いや12、3年前から。飲んでばかりいて太ってからね」その男性は10kmを40分切る速さなのである。自分も練習を積めば、速くなるのかなあ。

6月27日、糸魚川市の白池と蛙(がえろ)池を見る。写真によれば雨飾が見えるようだが、ガスっていてどの方向かわからない。家に戻ると、みすず書房に頼んでいた服部文祥さんの『サバイバル登山家』がサイン入りで届いていた。明日の新幹線の中で読むことにしよう。

6月25日、三面川左岸を水明橋まで行って、右岸を下って、林道海府南線に入って最初のピークまで往復して家に戻る2時間を超えるLSD。1時間10分を超えるとさすがに苦しくなる。午前は町内の臨時総会や畑からタマネギを運ぶ。午後は家内の実家に行き、買い物をして家に戻る。

6月24日、息子と一緒に床屋に行ってから、ローソンへ行き、当たり券を引き替える。缶コーヒー、ハイチュウ、おーいお茶である。午後になって息子と娘をお城山へ誘うと、いつもは少し嫌がるのだが、今日はそんなそぶりも見せずに登りたいと言うので、ジュースとおやつを買って登る。

6月22日、金北山直下のブナ林で仕事をし、金北山でお昼を食べる。山頂付近のヤマオダマキがきれいだ。ぼんやりと小佐渡の上に角田山と弥彦山が浮かび、最高のロケーションである。ヒダリマキマイマイ幼貝をくわえたサドマイマイカブリや、サドコブヤハズカミキリも発見し、写真を撮る。

6月20日、「疲れはないですか」と訊かれ、「登山に比べればたいしたこと無いですよ」とうそぶいてきたが、さすがに2日後まで太ももの筋肉痛に襲われるとは思わなかった。しかし、まだ1999年7月31日の飯豊連峰環状日帰り登山にはかなわないと思っている。今年またやってみようか。

6月19日、知人から「肺活量ってそんなに増えるんですか?」というメールが来たので、これまでのドックの結果を見たら、なんと一昨年に比較して昨年は300ml減っていた。今年300ml増えるのは当たり前である。きっと、去年はあの看護師のかけ声にビックリしたのだろうと思う。

6月18日、笹川流れマラソンの後は、神林村の穀菜マラソンのはずだったが、大石ダム湖畔アップダウン関川マラソンがこの時期にあることを知り、出場する。9時30分、3キロスタートの息子を見送ってから、5分後に15キロがスタートする。安角小学校脇の鮖谷橋から大石川右岸を遡り、大石ダムに向かう。トンネルを越えたところで折り返し、大石集落から大石川左岸に渡り、金俣集落を経て、小川治山資材路の十字路から北上。アップでは他の選手を追い越していくのだが、反対にダウンでは自分の体重がもろに足にかかり軽量の選手に追い越される始末。鮖谷橋まで来ると3キロを走り終えた息子が橋を渡って左岸に応援に来てくれていて、スポーツドリンクの供給を受ける。11キロ地点でちょうど1時間。残り3キロを切った最後の給水所では、二つコップを取って、一つは飲んで、一つは身体にかけた。安角小学校のグランドで時々ジョギングですれ違う人をラストスパートで追い越してゴール。1時間20分前後だった。まだまだ練習が足りないと痛感したロードレースだった。が、笹川流れマラソンの10キロから15キロと距離が伸び、しかも標高差150mのアップダウンがあるコースで、1キロの平均タイムが笹川流れマラソンとほぼ同じだったのは、やはり練習の成果なのか。まあ、お楽しみ抽選会で岩船産コシヒカリ2キロをゲットしたし、良かった良かったのロードレースであった。

6月17日、何かあると決まって、子供が熱を出す。今朝になって娘が40度近い熱なのだ。したがって、午前中のサタデーキッズスポーツは息子だけが参加し、15時を回ってから娘を病院に連れて行った。ぐったりした娘の姿を見て、息子は「死んじゃったの」なんて言っている。

6月15日、人間ドック。肺活量が去年よりも2、300多いらしい。どうしたのか、担当の看護師も目を丸くしている。少しだけランニングをしてきたために、心肺機能が上がったのだろうか。それから、2年間「放置していいですよ」と言われていたのに、「念のため検査しなさい」と言われた。

6月11日、娘が一人で家内の実家に泊まったので、母と息子を連れて大石ダムへ行く。来週予定のコースは急斜面が2カ所もあり、苦労しそうだ。しかも、初めての長丁場である。とにかく、2つ目のピークまで焦らず行って、あとは徐々に進んでいくだけだ。無事に終わればいいけど・・・。

6月10日、山中間の奥さんから、「武田さん、痩せましたね」と言われた後、「肌のツヤも良くなりましたね」と追加される。痩せたのは確かだが、肌のツヤを見つけるとは、さすがベテラン看護師である。もっとも1年かけて5kg、やっと標準体重だから、近くにいる人は気づかないんだけどね。

6月8日、松木さんから『渓』19号が届いた。18号から実に10年以上経過していたわけだ。これが浦和浪漫山岳会の最後の年報となる。確かに後半は崩壊の兆しがかいま見られる感じがする。ただ松木さんの浦和浪漫へのひたむきな愛情が無ければ、発行には至らなかったであろう。

6月6日、朝新聞を見たときは気づかなかったが、土曜日の認知症のシンポジウムの記事があって、家内が写真と共に出ていたことを人から聞いた。新聞を新たにコンビニで買い、コピーして義父に見せた。あれから、たった1日のことなのに、どうしてこんなことになってしまうのだろう。

6月4日、母と二人で松代にウドを採りに行く。私はネマガリダケを採ろうとしたが、もう遅く2、3本しか採れない。ウドも既に大きくなっていたが、それでも母はやわらかそうな小さいウドを選んで刈り取っていた。松之山の施設に入っている祖母を見舞い、知人の家に立ち寄ると山菜が増えた。

6月3日、家内の車のタイヤを買いに新発田へ行く。午後からはふれあいセンターで認知症のシンポジウムがあり、途中の演劇に家内が出演するので家族全員で見に行く。「どごいがんだね、ばあちゃん」は我が家の流行語になりそうである。NHKのニュースにも出ていた。

6月2日、昼休みにいつもの6km弱を走った。仕事を終えて家に戻っても誰もいなかったので、2箇月ぶりにレース用のシューズを履いて7kmほど走った。最初は底が薄くてなんだか走るのがぎこちなかったが、走るにしたがい感覚が甦ってくる。1km5分を切るペースで走ってみた。

6月1日、去年、タープを買うつもりがピンチシートを買ってきてしまったので、今年はしっかり買ってきた。ただ、使うのはいつになることやら。他に、『父と子の多摩川探検隊』や『新・源流紀行』など。『新・源流紀行』では、昨年の「根がかりクラブ」のできごとがあった。復活を祈るだけである。

5月30日、運動会の残りのプログラムを行う。中学年リレーからだ。新しく買ったカメラに慣れるために、練習で写真を撮る。曇り空だが、それなりに暑く日焼けをしてしまう。午後からは内科と整形外科へ行く。夕方に時間ができたので、少しだけ走る。風邪のせいか身体が重い。

5月28日、小学校の運動会。天気は判断に迷う予報であったが、とりあえず降っていないので決行するしかなかったのだろう。雨に備えてのプログラム変更も1時間ほどで降ってきてしまった。結局10時半に中断、11時過ぎに中止の決定。残りを予備日の火曜日に行うことになった。

5月27日、従姉妹の結婚式、披露宴が長岡であるので、母と二人で出かける。久しぶりに弟にも会う。最近はやり?の仲人無しで、手作りの披露宴であった。二人で長い時間をかけて考えたのであろう。お互いの両親にも内容を知らせていない、はやり?のサプライズ連続であった。

5月25日、原油高でティシュが値上がりするという。かつてのオイルショックの到来か?。当時、日本各地にペレット工場が造られた。しかし、原油の価格が下がると同時にその工場も徐々に少なくなっていった。しかし、ほそぼそペレットを作り続けていた岩手県が現在では先進県なのである。

5月22日、今日もいくつブナの実生を踏みつぶしたことだろう。数年に一度の豊作の翌年、ブナ林の林床を埋め尽くすブナの当年生実生。足を置く場所がないのだ。しかし、この実生もやがてほとんどが無くなってしまう。もったいない話だ。なんとか有効に利用できないものだろうか。

5月21日、朝食前に小学校のグランドの草取り、9時から町内の草取り。そして、広場でバーベキュー。酔いがさめたところで、自転車の子供を連れて中州公園に向かって走りに行くと、同じような自転車の子供づれの男性が走ってくる。なんと同僚で、考えることは同じである。

5月14日、寒いせいか腰が痛いので、コルセットをする。雪割草のタネがポロポロ落ち始めたので、土を買ってきて蒔いた。2年前に松代の自分の山から採ってきた草花に予想外のタネや根が混ざっていたのか、ニリンソウやチゴユリなどが庭に生えてきて花を楽しませてくれる。

5月13日、朝20kmを2時間半かけて、ゆっくり走ってみた。さすがに15kmを過ぎたあたりから足が重くなった。息子の総合学習の下見にと三面川河口に行くが、風が強くてとても釣りどころではないし、浮きにも何の反応もない。メダカの水槽に小石を敷いたり、ガボンガを入れたりした。

5月10日、糸魚川市のブナ林に行く。高速道ではアオダイショウが横断しようとしていたが、さすがにアオダイショウも思案している様子だった。ブナの実生は双葉を広げたばかりで、これからもどんどん発生し、林床を一面覆いつくすだろう。ところどころ残雪があり、カタクリも咲いていた。

5月7日、4時半に起きてコーヒーを飲んでいると、5時に娘が起きてきたので、ホットサンドを作って食べる。家内と息子も起きてきて6時過ぎに朝食を終える。雨の中でテントを片づけ、男鹿水族館へ行く。3時間近くを費やし、外に出ると雨は上がっていた。あとは6時間かけて村上に戻った。

5月6日、家内と子供と男鹿半島に行った。霧の寒風山では、娘が「えっ、プーさん?」ととぼける。入道崎で昼食を食べ、八望台を経由して、なまはげオートキャンプ場へ。温浴ランドでから出ると雨が当たってきた。しかし、キャンプ場はがら空きで、炊事場にテントと車を横付けし、炊事場の中で焼き肉丼を作って食べる。オートキャンプとは言いながら、ほとんど山道具で、米は1年前に賞味期限切れのアルファ米である。

5月5日、家内は仕事だが、子供を義弟にあずけて小国の入小倉峰に登った。思わぬ所にミズバショウがあったり、こちらを見ているカモシカの写真を撮ったりした。帰りは寄り道をしたが、それでも11時前に車に着いてしまった。途中で買い物をして、家で明日からの準備をする。

5月4日、小国町の熊まつりに行ったが、かなり遅れてしまったため1km手前から歩かされるはめになった。今度行くときは1時間早く行って、先に風呂に入ってしまう作戦がいいと思った。熊の毛皮は当然当たらなかったが、家に戻ってから息子と娘は熊まつりの抽選会の遊びをしている。

5月3日、息子と娘を連れて要害山に登った。子供を連れて何度も登っている山だが、自分ひとりだけで子供を連れて行くのは初めてである。山頂で平林小学校関係者がビンゴ大会をしていて仲間に加えていただいたら、部外者の息子が一番にビンゴになり商品を最初に選んだ。

4月30日、雪崩の危険があるため、通行止めになっている道路を歩いて、我が家の水田に行ってみると雪はまだ1mあった。スキー場を回って集落へ下ると冬の間空き家になっていた家が雪の重さでつぶれていた。従兄弟の出産祝いや祖母の見舞いをして、母を松代に残して帰る。

4月29日、母と子供を連れて松代に帰る。松代はまだ半分以上雪の中だ。ブナの芽吹きもようやく始まったばかりのようだ。家の裏にも雪があった。15時過ぎにキョロロに行って、新しくキョロロに来られた学芸員と打ち合わせをする。雲海に行って風呂に入って実家に泊まる。

4月23日、山形県小国町の足駄山に登った。林道を歩いて小枕山トンネルを抜けて、在所平のブナ林を見る。あとは足駄山への稜線を歩く。飯豊連峰は遠く、朝日連峰は間近に見える。当然誰もいない。静かな山頂で1時間30分ほど過ごし、帰りは小枕山を登って、林道を下る。

4月22日、娘と同じ息子のディスクマットを買ったり、笹川流れマラソンの写真を入れるフレームを買ったりする。午後からは神林村と関川村に花見に行く。天気もいいし、桜も満開で人が多い。昨日買ったデジカメを早速使ってみる。スタートが早くて、なかなかいい。

4月21日、ニコンD70Sを買ってしまった。ニコンにしたのは、オートフォーカスのズームレンズを持っていたから。だから標準レンズの50mmは元のニコンFEにおさまった。だけど、35mmが50mmになってしまって、使い勝手がちょっと変。やっぱりレンズも買わなきゃいけないのか。

4月16日、関川村の道の駅に行ったら、植えてあったブナの下に殻斗が落ちていた。もしかしたら、と目をこらして見るとブナの芽生えがいくつか出ていた。我が家のプランターでも芽生えがたくさん出てきた。しかも、去年の秋に風で散らかったブナのタネが庭のあちこちで発芽している。

4月15日、県立植物園の辺りに出かけようとするが、ちょうど11時に五泉の恵比寿に着いたので、そこでチャーシューメンを食べる。それからフラワーランドで花を見るが、外は寒そうなので車で回っただけ。石油の里で子供を遊ばせて、慈光寺の杉並木を歩いて、村上に戻る。

4月13日、出張から帰ってきたら、笹川流れマラソンの写真や記録集などが届いていた。自分が出場した部門は名簿には219人だったが、当日は種目変更などで221人となっていた。しかし、記録集では177人となっている。1時間10分くらいで記録がないので、10kmも時間制限があったのかなあ。

4月10日、標準体重よりも2kgオーバーが数ヶ月続いていたが、風呂上がり夕食前に体重を測ったら瞬間最低体重を記録した。ついに、65kg台を記録したのである。ほぼ20年前の勤めた頃の体重だ。とりあえず目標はあと500gの減量である。ドックまでには実現できるかな?

4月9日、曇りから晴れの予報なので新津の公園にでも行こうと準備をするが、外は寒いし雨が降っている。しかたなく、母の希望通りフキノトウ採りに北へ向かう。30分で袋いっぱい採った後で村上に戻った。娘の机の下に敷くマットはちょうどいい大きさがなく、結局絨毯を切ってもらった。

4月8日、4時半に出発した高桑さんらを見送り、8時過ぎまで虚空蔵山荘でまったりする。家に帰るとすぐに娘の机が届いた。サイドが少しだけ違うが息子と同じ机である。部屋も片づけられ、娘は大喜びだ。体重は標準体重よりも2kgオーバーのままなのだが、体脂肪率が下がってきた。

4月7日、高桑さんが取材に来たので、いつもの虚空蔵山荘で軽い?飲み会。熊汁は脂がが多く、なかなか冷めない。菊谷さんの蕎麦も加わる。私はいつものウド、コンニャク、それに銀杏。明日は雨の予報なので、だんだんと宴会モードになってくる。結局、24時近くまで起きていた。

4月5日、旅行に行くと、入口辺りで写真を撮られ、出口でその写真を売っていることがある。実はスポーツでもそういうことがあって、先日の笹川流れマラソンの写真があるWSにあって、自分の写真を発見した(もちろん掲載を希望しないこともできるし、パスワードも必要である)。買ってしまおうかな。

4月2日、とうとうこの日が来てしまった。笹川流れマラソン。子供にばっかり出場させていないで親も走らなければならないと出場を決めた二ヶ月前。山を登るのだからそれなりに持久力はあるだが、練習してみると登るのと走るのとでは全然違った。しかも今年は雪で全く走ることができなかった。さらに一ヶ月前からの椎間板ヘルニアからくる左足の痺れと痛み。朝、身体を目覚めさせるために少し走ってみたのだが、まだ左足には筋肉痛のような違和感が残っている。出場を決意した時は50分を切りたいと考えていたが、なんとか60分を切れればいいと走りだした。1kmで5分30秒、4kmで22分。このペースなら60分は切れる。そして折り返し。少しずつペースは上がる。前のランナーを追い越すのが励みだ。しかし、左足はいつ登山のように痙攣を起こすかわからないと不安を抱えながら、だましだまし走る。最後は旧桑川小学校への上り坂。坂道の練習もしたのだが、さすがに最後は辛い。応援の家族が坂道にいない。「もう少し下で応援していろ」と怒鳴って、周囲の笑いを誘うつもりだったが、結局ゴールまでいなかった。結果は10km男子35歳以上50歳未満221人中119位。53分22秒。家族は60分くらいだと思って、私がゴールしてから30分も応援していたらしい・・・。

4月1日、最後の下見を兼ねて、ゆり花温泉の無料券(子供は無料だが大人は入湯税が必要)で、交流の館「八幡」のお風呂に入る。行きは1kmごとの看板があるが、帰りは無いように見える(実際は道路にペイントされていた)。旧桑川小学校に行くと、テントやゴール地点が設営されていた。

3月29日、娘と二人でスキー合宿から戻ってくる息子を新潟まで迎えに行った。「あんまり本を買うとお金がなくなるから、やめなさい」と娘に言われるが、鞄を買うときには「これいいね」としか言わなかった。強風でいなほに乗れず、行き帰り各駅停車になってしまった。

3月27日、スギ花粉飛散最盛期の今日、くしゃみと涙目をこらえながら、外仕事をしていた。手の甲はマツ葉に刺され、紅白状態だ。お尻のポケットに入れていた財布を出したら、松葉が10本も出てきた。長靴の中も松葉だらけだ。ズボンはイチゴの棘でズタズタになってしまった。

3月26日、新潟県勢が初めて選抜で勝った。しかし、新聞のように冬の間、雪に閉じこめられていたわけではない。今冬だって、新潟市はほとんど雪が積もらなかった。松代に帰る度に雪が全くない新潟市を見てきたのだ。選抜で勝てなかった理由を雪のせいにしてはいけない。

3月25日、午後から息子と笹川流れに行き、走ってみる。息子の速さだと最後の坂を考慮しても10分弱くらいなので、適当に折り返し、旧桑川小学校の坂を登る。2回走ってみたが、同じような夫婦と息子の家族連れも練習に来ていた。3年前に蒔いた雪割草が満開である。

3月21日、床屋に行った後で、笹川流れに行く。家に戻って撮ってきた写真をつなげてみるが、順番通りに並べるのに苦労する。何となくイメージがつかめるようになったが、回復傾向にあるものの、身体はまだ万全にはほど遠い。あと10日でなんとかなるのだろうか。

3月19日、職場の同僚や無線仲間がやっている新発田の雪割草展を見に行く。もらってばかりじゃ悪いので、一鉢買う。子供は展示即売のカウンターでせんべいを食べさせておとなしくさせておく。帰りに地本のミズバショウを見るが、風が冷たくて、見られる状況ではなかった。

3月18日、家内、子供と一緒にわかぶな高原スキー場に行った。子供を連れて行くのは、今シーズンはこれが最後だと思うので、一日券を買った。しかし、子供は半日が限界らしく、14時前で終了となった。それにしてもスキー客が少ないのには驚いた。夜は誕生日なので手巻き寿司。

3月17日、家に帰ったら、『山の本春号』と『渓流春号』が届いていた。『山の本』はすぐに母に取られてしまった。『渓流』は、苦し紛れで書いたので、もてなしなど受けていないのに、「素朴なもてなしを満喫」などと他と同じ温泉の紹介になっていた。少しはまほろば温泉の紹介になっただろうか。

3月16日、久しぶりに昼休みに走った。まだ左足に痛みはある。それでも30分強ランニングをしてみた。左足に力が入らないので、全速力で走ることができない。せいぜいジョギング程度のスピードである。真っ白な粟ケ岳が眩しい。それよりも印象的なのが、白い雪の合間に見える赤色土だ。

3月12日、朝から雪。しかも重い。びしゃびしゃである。咲き始めた雪割草も雪の下になってしまった。娘の熱は下がったり上がったり。電話を新しくしたところ、初めてかかってきた電話がへんなアンケートだったので、すぐに切った。すごい、弘山。我慢して走り続けることの大切さを教えてくれた。

3月11日、昨日の無線の飲み会の疲れが取れたところで、子供を連れてお城山に登る。登山道にはところどころ雪があり、長靴でないとちょっと苦しい。人形様巡りだろうか、明らかに観光客と思われる人も登っている。娘が山頂で「寒い」と言っていたが、また40度近い熱を出した。

3月6日、風邪で足が痛いものかと思っていたら、ついに激痛が夜中に続いた。2年前の左腕を思い起こす痛みだ。午後から病院に行くとやっぱり予想したとおりだった。1箇月を切って、「さあ、これから」という時にこの状態である。貼り薬や痛み止めの薬をもらって家に帰る。

3月5日、三年前にタネを蒔いた雪割草がつぼみをもたげてきた。去年花芽を付けなかったものが、今年はほとんど付けているのである。日当たりのいい場所に置いておいたら、小さな花を咲かせた。笹川流れに行き、帰りに野潟で貝を拾う。昨日と違ってすっかり春の陽気である。

3月4日、今朝も道路は真っ白だ。それでも息子を床屋に連れて行っている間に日も差し解けてきたので、345号線を笹川流れに向かった。ところが、次第に雪が降ってきて、ついに道路は圧雪になってしまった。結局、山北町にも入れず、馬下で引き返し、村上に戻って買い物をした。

3月3日、道路を挟んだ向かいの空き地で地鎮祭が行われるようだ。今日は大安らしい。しかし、今日は久しぶりに道路が雪で白くなっていた。これで我が家の四方八方に家が建つことになり、家に当たる風もだいたい決まるだろう。雪は降ったりやんだりの天気だった。

3月2日、幼稚園の生活発表会。昨日11人も休んでいた年長組は、今日は全員登園したという。当然会場は風邪やインフルエンザのウイルスが蔓延している。午後は免許の更新。教官の言葉につられてSDカードを申請したが、村上に住んでいる人間にはほとんど恩恵はないようだ。

2月28日、「今日も遅くなると思う」と言って会社に向かったが、時間中になんとか終わったし、娘も熱を出したので早めに家に戻ることにした。が、今月は山に登っていなかったので、お城山に登ってから家に帰った。お城山から見た村上市の夜景や国道の明かりの列がきれいだった。

2月26日、朝もゆっくり1時間くらい走り、7時に家に戻る。午後からは子供と一緒に蕎麦を打つ。庭のフキノトウが天ぷらになった。嵐渓荘からのメールでは雪解けが一ヶ月早いそうだ。一ヶ月はともかく、少なくとも去年よりは早いのは確かだろう。春山の計画も早めなければならないようだ。

2月25日、先週に続いてわかぶな高原スキー場に行く。母とスキーの練習をしていた娘も11時過ぎになってリフトに乗せた。午前券しか買っていなかったが、娘が「もう一度乗りたい」というので一回券を追加で買った。歩道の雪が解けたので、家に帰ってから久しぶりのランニングをする。

2月19日、風邪で学級閉鎖しているクラスが多く、土日は「なるべく外に出ないようにしてください」という手紙が来ていたが、風邪などひいていないのにこんないい天気の日に外へ出ないのはバカである。子供を連れてわかぶな高原スキー場に行く。スキー子供の日と重なり、かなりの混雑だった。

2月18日、家族全員で十日町病院に入院している祖母の見舞いに行く。祖母は時々わかったようだが、嗚咽を漏らすだけだ。由屋で蕎麦を食べ、実家の様子を見に行く。まわりの家よりも屋根に雪が多いのは、雪下ろしを任せているからだ。子供達はあまりの雪の多さに驚いている。

2月14日、『岳人3月号』のお礼と土日のドタバタを高桑さんにメールしたら返事が来た。「雪が多いから大変でしょう。みんなそういう時期にきているのですね。でも、お祖母さまの回復力を信じて、せめて春を迎えられるよう祈っております。」『森と水の恵み』の「ふるさとのブナの森」に書いたように、せめてブナが芽吹く松代の春を祖母に見せたいものである。

2月13日、残業を終えて、母の実家にいる母に電話した。どういうわけか、祖母は様態が回復傾向にあるようなのだ。もう幾日もないと思っていたのに、風邪をひいて埼玉から来られない次女を待っているのか、それとも息子と娘を待っているのか・・・。『岳人3月号』が届いた。「桝形山に眠る池」のカラーグラフにわかるだけでも10枚自分が写っている。タケシ君、これを肴にビールを飲んでね。

2月12日、「朝ごはんだよ、餅食べるかい?」と叔父が言うとわずかに頭を横に振っただけで、もう昨日のように、ベッドの手すりを掴むようなことはなくなった。その後はわずかに片足を動かす程度で、次第に身体が衰弱していっているようだ。お昼を食べ、母を残して村上に戻る。

2月11日、母と6時過ぎに村上を出発する。十日町病院に着くと弟はもう来ていた。祖母は心筋梗塞のようである。左右のベッドの手すりを掴んだり、酸素吸入のマスクを外そうとしたり、時々目を開けているくらいだ。叔父が病院に泊まるというので、母と松代へ行き母の実家に泊まる。

2月10日、残業していると携帯がなった。「祖母が逝きそう」だと母からの電話である。1年前、脳梗塞で倒れてから何度か見舞いに行き、年末に行った時もわかったようで嗚咽を漏らしていた。母も私も「別れた時が最期だ」と思ってきたから、急いで病院へ行くこともないのである。

2月6日、『山の本・春号』の「静山紀行」に投稿していた文章が載ることになった。「1年に1回は投稿しよう」と決めているが、実際は「1回しか投稿できる山行がない」という山行回数が悩みの種である。今年は文章をかける程度の山に登ることが何回できるだろうか。

2月5日、昨日よりも少しは天気が良くなると思っていたが、吹雪の合間に日が差す程度。しかたないから、15時過ぎに子供を連れてパルパークへ。ミニバスケットをやっていて、息子は山形から応援に来たと間違えられるほど夢中に応援していた。子供と一緒に2キロを2回走る。

2月3日、一週間で読んだ本。小出義雄『君ならできる』、羽根田治『道迷い遭難』、清水義範『わが子に教える作文教室』、高田宏『木のことば 森のことば』、正高信男『ケータイを持ったサル』、この脈絡の無さ・・・。三条から職場まで4時間半かかって帰る。事故車4台。2台は橋の上の正面衝突。

1月29日、天気がいいが家内が仕事なので、調整池で娘のスキーの練習。その合間にクロカンで2周したら汗をかいてしまったので、急いで家に戻った。大阪女子マラソンを見てる途中で、畑にキャベツを採りに行く。その間に小幡がヌデレバに抜かれてしまった。かなり以前から応援している選手だが残念。

1月28日、天気が良ければ子供を連れてスキーに行く予定だったが、あまり天気も良くなく、かつ風邪をひいてしまったので午前午後の買い物だけ。息子に二桁のかけ算を教えてやるが、二桁どおしのかけ算はなかなか難しいようだ。確かにかけ算と足し算の組み合わせなのだから。

1月26日、昨日午後から仕事を手伝ってもらっていた女性に、「風邪ひいたんですか?」と言われて、はじめて風邪をひいていることに気づいた。それからどんどん具合が悪くなり、帰りに薬を買ってきた。QSOパーティーのステッカーが届いた。これで十二支完成である。ブナもやしを食べた。

1月25日、昼休みの卓球仲間が腰痛でできないので、カンジキを履いて職場構内を歩いた。スギ林からヒノキ林へ、それから前庭に行って、マルバマンサクの花芽のついた枝を折り、キヒラタケを採集。ほんの30分歩いただけなのに、背中にはうっすら汗。いい運動になった。

1月24日、小学校の終日授業参観日。終日だから、何時に行ってもいいのだが、「防犯あいさつ運動」もあり、7時半から学校に行く。しかし、5時間立ち続けていたら、さすがに疲れて午後は家内にまかせる。高桑さんに原稿を送ったら、「助かります」って返事をいただいた。

1月22日、娘の入学式の服を買うために新潟へ行く。車で新潟へ買い物なんて何年ぶりだろう。たぶん娘は初めてのはずだ。帰りに新発田で娘にスキーを買ってやる。娘は「今日、スキーに行く」と言うが、家に着いたらもう暗いので、家の前で暫く遊んで納得させた。

1月21日、昨日の飲み会の疲れが取れたところで、ニノックスへナイターに行った。息子は父親似で、左曲がりに比較して右曲がりが苦手なようだ。娘は3回おんぶして滑ったが、やっぱりスキーを買ってやろうかと思う。息子は1年から始めたのだが、もう1年待っているには一生懸命すぎるのである。

1月19日、月曜日は昼休みに走ることができるほど天気が良かったのに、今日は前が見えないほどの吹雪で通勤に苦労した。高桑さんから、また変な依頼が来た。渓流釣りなんて朝日村にしか入らないのだから、温泉など入るわけないんだけど。雑誌は来ないのに、別刷が先にきた。

1月16日、久しぶりに天気が良かったので、昼休みに走ることにした。一周コースは雪があって無理なので、バイパスができて車の交通量が少なくなった近くの集落内を走った。片道1kmくらいのコースを4往復。1kmよりも少し距離が足りないようなので、仕事を終わってから車で測ってみると約950mだった。

1月15日、息子と娘が日帰りで湯沢に雪遊びに行くので、家内と新潟駅まで送り迎えをした。新潟は全く雪が無いので驚いた。市民病院に見舞いに行くと、新築のCNO宅は目の前であった。ヨドバシカメラへ行っても、欲しい品物は手に入らない。しかたないから、カタログだけもらう。

1月9日、家内の実家の除雪に行くと近所の人が車を掘り出しているところであった。お礼を言い、車を移動させ、下屋の雪下ろしをする。午後からは明日からの3学期に向けて、準備をする。夕方になって、漸く宿題の習字を終える。雪ばっかり降っていて、ろくに遊べなかった冬休みであった。

1月8日、昨夜の無線の新年会で完全な宿酔いである。それでも、午前中は直してもらったばかりのスノッパーで除雪をする。午後からは息子と娘の通帳に預金をする。通帳には10万円ほど積んであり、久しぶりに記帳したが、最近は10万円くらいでは利息が付かないのに驚いた。

1月7日、昨日職場の除雪で使って家のスノッパー(スノーダンプのこと)の溶接部分が壊れてしまった。松代から持ってきたステンレス製のもので村上じゃ買えないものだ。無線仲間の協力を得て、漸くステンレスの溶接をしてくれる場所を探しだし、何とか直すことができた。

1月3日、車のワイパーが壊れたので、家内の車を借りてホームセンターに買いに行く。午後からは元旦マラソンでもらった割引券を使って、子供と一緒に朝日村のきれい館で泳ぐ。家に戻ってからは、子供のおやつにタコ焼きを作る。あっという間の年末年始の休みであった。

1月2日、UWH、TEX兄弟と鷹取山に登る。宮ノ下の河内神社から1時間半だった。みぞれの中のニューイヤーパーティー。かじかむ手で何とか15局と交信し、家で残りの5局と交信する。これでやっと12年が終わった。来年からは無線を口実に1月2日は山に登れる。

1月1日、家内と息子が元旦マラソンに出るというので、応援に行く。体育館に行くと、村上市民総アスリート状態と思えるほどだ。午後からは子供にソリ遊びをさせている間に、 クロスカントリースキーで走る。いい運動になった。母と畑から大根などの野菜を運んでくる。

ときどき日記に戻る