笹川流れマラソン(はじめてのマラソン大会)
一月下旬から始まった左足の痺れは、ちょうどその頃ひいていた風邪のせいだと思っていた。時々、朝夕走ってみても痺れが激しくなるわけでもないし、そのうち風邪が治れば足の痺れも消えてしまうだろうと考えていた。
三月上旬の土曜日の朝は、久しぶりの晴れの予報だったのに道路が白くなっていた。早朝から走ろうと思っていたが、外の景色を見て室内の自転車トレーニングに変えた。このエアロバイクは2年前まで勤めていた職場がデスクワークばかりで次第に体力が無くなっていくのに不安を感じ購入したものである。
朝食をすませ、長男の真登を床屋に連れて行き、四月二日に真登と一緒に出場する予定の笹川流れマラソンの下見にでもと、山北町へ向かった。ところが、北に向かうほど雪が降ってきて道路も圧雪になり、結局、山北町手前の馬下集落で引き返すことになってしまった。それでも、村上では昼から天気が回復し、夕方は久しぶりに15kmを走ることができた。この調子なら、「来年は笹川流れマラソンのハーフにでも出場できそうだ」などと考えてみたくなるほど苦しくなかった。時間制限の二時間半は確実にクリアできそうだからである。
しかし、翌日曜日の朝夕のランニングは7km程度で切り上げた。風邪のせいか思いのほかスピードが出せず、身体が重いのである。そして、夜中じゅう左足に激痛が走った。それは二年前に突然発症した左腕と同じ痛みだった。
その時初めて「左足の原因は腰ではないか」と、気づいたのである。二年前の左腕の痛みは頸椎が原因だった。それならば、この左足の痺れや痛みは腰椎から来ているのではないのだろうか。これまで腰痛で何度か病院に通ったことがあったからである。
仕事を終えてから、以前腰痛でお世話になった病院に向かった。そして、先生に言われるとおりにベッドの上で仰向けになった。すると、左足首を直角に踏ん張ってみたものの、足首は「ぐしゃり」とまるで音が出たかのように簡単に先生の手で手前に曲げられてしまうほど力がなかったのである。加えて、左膝を叩かれても、膝蓋腱反射も全く出なかった。予想したとおり椎間板ヘルニアからくる左足の痛みだった。
これほどまで、左足に力が入っていなかったことに愕然としてしまった。一ヶ月以上もの間、力のない左足のまま時々のランニングをしてきたのである。半ば呆然として、一週間分の痛み止めと湿布薬をもらい帰宅した。笹川流れマラソンまでちょうど四週間前だった。これから暖かくなるので、走る回数を増やし、できれば目標の50分を切れる程度に身体を作っておこうと考えていた矢先だった。
「初めての大会なのだから、無理しなくてもいいんだ」と思いながらも、焦らずにいられなかった。そして、水曜日の昼休みに走ってみた。すると、今度は左太ももに筋肉痛のような痛みが走った。その痛みは腰から来ているわけでないとはわかっていたが、またしても不安になってきた。来週は一週間の出張なので、金曜日に薬をもらうために病院に行くと、「ちょっと張っているんですね」と力が戻ってきた左足首を触りながら先生は言った。
少しでもランニングをしようとシューズなどの用具を持って出張したが、月曜日からの降雪で道路は走れる状態ではなかった。それでも、木曜日には道路の雪も解け、朝と昼に30分程度走ることができた。しかし、左足に力が入らないため、全力では走ることができないのである。全力で走ろうとしても、左足をついた瞬間、「ガクッ」と崩れてしまうのだ。そのため、せいぜいジョギング程度のスピードしか出せない。こうなったら、タイムのことは考えず、左足をだましだまし走るしかない。大会までにそのためのコツを覚えておかなくてはならないのである。
二週間を切った春分の日の三月二一日、10kmコースの下見をした。10kmのコースは桑川橋手前からスタートし、弘法トンネル出口で折り返し、往路を戻って桑川ふるさとふれあいセンター(旧桑川小学校)までである。トンネルは全部で10あるが、大きく五つに分けられる。スタートして最初の塩置場隧道、ニタコ間隧道から滝ノ尻隧道、カタガリ松隧道からアカタビラ隧道、炭沢隧道から神宮沢第一隧道、そして最後の弘法トンネルである。それぞれのトンネル群を抜けた時の行き帰りの風景写真を撮り、家のパソコンで編集してイメージを固めた。
そして、一週間前になった。左足はかなり回復してきたようだった。しかし、まだ完治にはほど遠い。土日それぞれに15kmほど走り、真登と一緒に1.5kmのコースも試走してみた。
大会までの一週間の間にも、朝早い出張があったり、それに送別会が二回もあり、とても走ることができる状態ではなかった。しかも、水曜日から金曜日までの三日間の天気予報では雪マークが表示されていた。
考えてみれば、笹川流れマラソンは最悪の時期である。年度末の送別会が続いた後であり、しかもスギ花粉飛散の最盛期にもなる。さらに、悪天候ならば横殴りの雪になる。幸い予報では、土曜日には天気も回復し、日曜日は曇りのち雨らしい。ところが、木曜日になって風邪をひいてしまった。職場の同僚から、「体重を落とすと風邪をひきやすくなる」と言われていたのであった。しかし、人の話など話半分しか聞かない私は「体調管理が悪いんじゃないのか」と信じていなかったのだが、自分の方こそ今冬三回目の風邪であった。さらに、予報は曇りのち雨から雨に変わった。そして、体調、天候ともに不安なまま笹川流れマラソン当日を迎えた。
雨に備えて買っておいたツバの長い帽子をかぶって六時前に足慣らしをしていたら、早くも雨が当たってきた。雨の日に走ったことがないのに、しかも普段からかぶり慣れていない帽子で走らなければいけなくなってしまったのである。山に登る時でもほとんど手ぬぐいを額に巻いているだけで、雨でなければレインハットはかぶらない。ましてや、キャップなどは年に一度あるかないかの野球の試合でしかかぶらないのである。ようするに、私はキャップが嫌いなのである。しかし、雨が眼鏡に当たるのは防がなければならないので、手ぬぐいを額に巻いて、その上にキャップをかぶることにした。汗かきなので、額の汗が眼鏡に落ちるのも防がなければいけないのである。
六時半に朝ご飯を食べて、七時に出発する。できるだけ早く家を出て、なるべくスタート地点に近い場所に車を止めたいからである。すでに数多く車は止まっていたが、幸いスタートラインから100mほどの位置に車を止めることができた。どういう作戦かというと、長靴で会場の旧桑川小学校に向かい、ゼッケンなどを受け取り、走り終わった後の着替えを選手控え室に置いて、開会式が済んだら、車に行ってシューズを履くのである。車の鍵はスタート地点で私と真登を見送る家内に渡せばいい。
車の中でまわりの様子を見ていたが、八時になりふれあいセンターに向かうことにした。雨は小雨程度で傘は差したり差さなかったりと会場に向かう人たちの列が続いている。ゼッケンを受け取り、選手控え室で休む。開会式まであと一時間ある。子供達は漸くおにぎりの朝食だが、私はスタート二時間前にバナナを補給した。
ゼッケンと共に渡された参加者名簿で自分の名前を確認すると、私の所属クラブが「ハムスター」となっている。しかし、よく見ると名簿は所属クラブ順に並べているらしく、私の名前の上には「チームハムスター」があり、「テレフォレスター」が「チームハムスター」に吸収されているように見えたのだった。恐らく、「チームハムスター」の人たちも、メンバーが一人増えているように感じただろう。
「テレフォレスター」とは、テレマークスキーをする森林関係者という意味らしく、テレマークスキーを薦めてくれた仕事仲間のテレマークスキーチームである。かつては新潟県の他にも長野、山形、宮城などで開催されるテレマークスキーのレースに参加し、レースシーズンが終われば山にスキーツアーへと行動を共にしていた。しかし、私自身が結婚したり、主要メンバーが北海道に異動となり、最近はせいぜいメールを交わす程度の付き合いになっていた。だが、久しぶりに「テレフォレスター」を名乗ってレースに出場することにしたのである。
九時になり開会式が始まったが、グランドに並んでるのは参加選手の十分の一もないくらいだろうか。雨は上がっていたが、ハーフマラソンは十時スタートなのでウォーミングアップする時間も必要だし、それに開会式に出たって何にもならない。モチベーションを上げるために私もグランドにいたが、それよりも早くスタート地点の様子を見たくて、途中で車に戻ることにした。
ウエアは寒ければ長袖、長ズボンにするつもりだったが、他の選手を見ていると半袖半ズボンが多い。スピードが遅いほど寒くなるので不安はあったが、半袖半ズボンに決めてゼッケンを付けた。
家内が子供を連れて車に来たので、真登とウォーミングアップをする。左足はいまだに筋肉痛のような違和感があり、速く走ることはできない。
十時前になりトイレに向かうと、十人以上が並んでいる。もう一つの特設トイレに向かってもやはり同じように列をつくっている。しかたないので、知り合いの本間おばあちゃんの家に行ってトイレを借りる。このおばあちゃんは数年前に突然電話をかけてきて、「あなたの本を買いたい」と言ってくれた人である。
十時になり、ハーフマラソンの選手がスタートした。10kmのスタート時刻までゆっくり身体を動かす。そして、家内に上着を渡し、十時二○分スタートの選手の後ろに並んだ。出場を決意した時は50分を切りたいと考えていたが、左足の不安を抱えた状態では60分を切るくらいのペースを目標に考えていた。遅い選手が前に並んでは速い選手に迷惑がかかるので、後ろに並んだのである。
折り返し地点までは、ジョギングよりも少し速いペース。折り返し地点からはもう少し速いペースと考えてスタートした。後ろにいたので、まわりの選手は慌てる様子もなく、ゆっくり走り出した。前の選手を少しずつ追い越しながら、ある男性をペースメーカーにしようと後ろについた。しかし、その男性はだんだんと前に行ってしまった。それならば女性にしようと考えたが、女性だとすぐに追いついてしまう。結局、前の選手、前の選手を追い抜くことでペースを維持した。
1kmの看板がある地点で腕時計を見ると5分30秒だった。できるだけ、目の前に選手がいない海岸側を走ることにした。トンネルを抜ける度に写真や車で確認した風景が見えてくる。板貝集落に入ると給水ポイントが往路にも設置されていた。給水ポイント手前でペースを落とすと足の力が抜けて崩れ落ちそうになりながら、なんとか両手で紙コップを取った。そして、ドリンクを飲もうとしたが、ほとんどが胸にかかってしまった。そういえば、「紙コップはつぶして飲むんだった」と本に書いてあることを思い出した。
弘法トンネル手前の4km地点では22分だった。つまり、1km5分30秒のペースが続いているのである。海岸側を走っていたので、折り返し地点から引き返してくる速い選手たちには気づかなかった。しかし、弘法トンネルでは内側を走っていたので、復路を走る大勢の選手たちが目にはいった。その中にあきらかに70歳くらいのおじいちゃんがいたのである。「あの人には追いつかねばならない」と弘法トンネルを抜けて折り返した。
復路の板貝集落でも給水した。往路はスポーツドリンクだったが、復路は「山北のおいしい水」と書いてある。たぶん吉祥清水か鰈山清水だろう。今度は紙コップをつぶして、うまく飲むことができた。
復路には、道路の左側にハーフマラソンの距離と「ラスト何キロ」の表示がペイントしてあった。しかし、時計でペースを確認することはしなかった。とにかく、前の選手を一人ずつ抜いていくだけだった。慣れない帽子であったが、帽子のツバでまわりの風景が遮られ、周囲の選手しか目に入らないのである。ふと、「足が進まないなあ」と感じるとトンネル手前の上り坂だったりする。反対に、「左足に負担がかかっている」と感じるときはトンネルを出た下り坂で、その時は左足の負担を少なくするために右足に重心をかけて走るようにした。
速い選手が追い越していった。20分前にスタートしたハーフマラソンのトップの選手だった。さらに、笹川集落に入ると5kmで折り返す選手が増えて、また混雑してきた。そして、最後のトンネルを抜けて桑川集落が見えてきた。
桑川集落のラスト1kmの表示の地点で最初にペースメーカーにしようとした男性に追いついた。これほど大勢の選手の中で、この男性を再び見つけたのは奇跡のようだった。「よし」と気合いを入れ、追い越した。しかし、ラストスパートとはほど遠いスパートだった。
国道からふれあいセンターに左折する時に腕時計を見たら、49分台だった。これならば確実に55分は切れる。そして最後の坂になった。時々のランニングでも下渡集落への坂道の練習もしていたのだが、さすがに最後は辛かった。それでも一人、二人と追い越しながら、道路で応援しているはずの家族を探した。見つけたら、「もう少し下で応援していろ」と怒鳴って、周囲の笑いを誘うつもりだったが、結局ゴールまで家族はいなかった。ゴール寸前でも一人追い越そうとしたが、その女性も私に追い越されるのが悔しいのか意地になって抜かれまいとして、わずかの差で先にゴールした。
その女性はゴール地点に用意してあった銀マットにすぐに寝ころんでしまったが、私はそのまま記録証をもらいに行った。結果は、10km男子35歳以上50歳未満221人中119位。53分22秒。左太ももに痛みを抱えたままの初レースにしては上出来だった。
スポーツドリンクを受け取り、選手控え室に行ったが、そこにも家族はいなかった。一人寂しくおにぎりを頬ばり、スポーツドリンクを飲んだ。そして、身体が冷えてきたので、更衣室で着替えることにした。
ゴールしてから30分が過ぎていた。家族を探しにゴール地点に行くと、次々と坂を登ってくる選手を応援している家族がいた。私がゴールした直後から応援していたようだった。「1時間くらいかかるだろう」と言ってあったので、それはしかたないことだった。真登は「お父さん、お父さん」と叫んでいたらしい。
笹川流れマラソンに出場しようと考えたのは、真登に父親の頑張っている姿を見せてやるためだった。真登には去年夏に開催された神林村の穀菜マラソンから出場させている。今年の元旦マラソンにも家内と一緒にペアマラソンに出場した。特別足が速いから出させているわけではない。むしろ、ビリに近い。今回だって、36人中25位である。しかし、あきらめず走り続けることから得られるものが子供でもあるはずだ。その真登に自分が走っている姿を見せてやりたかったのだが、この体調でまさか自分でも55分を切れるとは考えられなかったのである。
まあいい。次は夏の穀菜マラソンの10kmだ。今度は出場選手も少なく、他の選手を次々と追い越すことでペースはつくれない。自分でペースをつくらなければならない、自分との戦いになる。ただし、目標がある。タイムではない。その目標を目指して、夏までトレーニングを続けようと思う。もちろん、山にも登るつもりだ。やっぱり山が一番の趣味だからね。