2005年

12月31日、蕎麦を打ち、買い物ついでに家内の実家にも届ける。昼に手巻き寿司で年取り。いつもの〆張鶴しぼりたてである。去年のように飲み過ぎて、結局紅白も見たのか見ないのか。うーん、来年からしぼりたては止めようと思う。ビールだけだな。

12月30日、母と六斉市に行き、母が買い物をしている間にお城山に登る。今月もお城山で帳尻あわせである。山芋をつなぎに使った蕎麦を打つ方法がわからないので、教えてもらったが、結局手探りでしてみる。まあ、何とかできたが、明日の予行練習である。

12月29日、朝は除雪で汗を流した。冬に雪堀りで汗を流さなければ、冬を感じられない人間なのである。弟が子供を連れて野菜を取りに来た。昼はいつもの手巻き寿司。その後は外で従兄弟同志で遊んでいたが、14時になって残っていた手巻き寿司をまた食べ始めた。

12月25日、書店で『ソウルスライド』というムックを見つけた。こんな雑誌が売れるのかとパラパラ見ていたら、私のテレマークスキーの先生が出ていたので買ってしまった。なんと先生は始めて20年になるという。それにしても6冊置いてあったが、買うのは私だけだろう。

12月24日、朝から掃除。というか、捨てる物を選んでいるだけである。とにかく、年末年始の休暇には掃除などしたくないのである。午後から母が畑に出かけたが、すぐに大雪になる。心配になり迎えに行こうとしたら、母が大根をソリに乗せて帰ってきた。夜は手作りケーキでクリスマス。

12月23日、朝になったら停電は復旧していた。個人的にはもう少し不便さを思い知らせてもいいのかもしれないと思ったのだが(休みだったので)。断水したって、外に雪があるのだから。『岳人』1月号の岩城さんのコメントが良かった。そのうち、「長靴登山」なんていう特集があったりするかも。

12月22日、家に帰る最後の信号で停電になった。脇のコンビニも真っ暗だ。家に戻れば、幸いガスは使える(当たり前だ)。懐中電灯はいつも子供が遊んでいて、電池が無いので、使えるのは山用だけだ。山用のランタンを明かりに夕食をとり、早々寝た。娘はなぜか逆立ちの練習をはじめ、息子は「かいぱん」、「いぶくろ」と言う。乾パンと寝袋のことである。それなりに危機意識はあるようだ。

12月21日、家の中で紛失していた腕時計を1年ぶりに発見した。洋服掛けの下に置いてあったビデオなどのコードが入っていた袋の中だったのである。『山の本』冬号に『森と水の恵み』の書評が出ていた。幼稚園のクリスマス会。年長の聖誕劇で娘は天使の役だった。

12月18日、朝から荒れ模様である。午前中はどこにも出かけず、掃除をする。屋根から下がったつららを子供に取ってあげる。午後から悪天候の隙をついて買い物に行くが、こんな天気じゃ買い物しかないのか、すごい混みようだ。イライラがつのる2時間だった。

12月17日、実家から持ってきた段ボールを片づけていたら、懐かしいカタログが出てきた。一番最初に買ったパソコンPC−8801mkUSR(20年前である)、今でも時々使っているニコンFE、今は部屋のインテリアとなってしまったケルティータイオガ・・・。

12月11日、まほろば温泉で朝風呂に入って、後かたづけをして家に戻る。母と子供を連れて、家内の実家と坂町病院。午後は昼寝の後、書店とマクドナルド。松代では積雪が50cmになったらしく、「昨日で良かった」と叔父(母の弟)は電話で言っていたという。

12月10日、母と松代へ行く。中条から高速に乗ると新発田辺りがすごい雪だった。しかし、松代は積雪10cmくらいでたいしたことはなかった。母の実家、実家、そして祖母がいる施設に見舞いに行った。祖母はわかったのか、泣いていた。村上に戻って、まほろば温泉でいわふねクラブの忘年会。

12月4日、子供を連れて情報センターへ映画を見に行く。どこから集めたのか古いアニメの8本立てである。午後から天気が良くなったので、母とツゲ囲いをしていたら、息子の同級生が3人遊びに来たので、調整池に行って野球をする。子供対大人つまり4人対1人である。

12月3日、小学校に行って軽い運動の後で、「ぽっぽ焼き」作りをする。アルミ箔を蛇腹に折って、その中に小麦粉と黒砂糖を溶かしたものを注ぎ、蒸すだけだ。思いの外、簡単に「ぽっぽ焼きもどき」ができるものである。午後からは、子共が欲しがっていた雑誌を買ってくる。

11月30日、どうして温暖化対策に、木を植えればいいとしか考えない人が多いのだろうか。だいたい二酸化炭素の増加が先か、温暖化が先かだってわかっていないのに。木を植えるよりも、化石燃料から木質エネルギーへの転換と視点を変えてほしいのだが・・・。他県のように。

11月27日、雨が降らなければ、ツゲ囲いの予定だったが、止みそうもないので新発田に行った。息子がデカタマに夢中になっている間に、クリスマスプレゼントを買った。早く買っておかなければ高くなるのだが、ソフトと合わせて2万弱である。当然、娘と二人一緒のプレゼントだ。

11月26日、庭のイヌツゲの囲いをするために、イヌツゲを剪定したら、70リットルの袋で7つもの枝が出た。午前中で庭仕事を止め、午後は子供と母と雪を探しに出かけた。途中でフキノトウの芽を採り、天蓋高原で休み、天蓋大橋の辺りで雪で遊んだ。朝日連峰が真っ白だ。

11月25日、停滞していた体重が減りだした。ランニングを増やしたわけではなく、かといってアルコール摂取量を減らしたわけではない。1年前より4kg以上は減っているようだ。目標はあと3kg減だが、それにはもっとランニングを増やさなければならないだろう。それよりも維持が大変か?

11月23日、朝、路面が乾いていたので、1時間20分走る。ゆっくりだから13、4kmくらいか。午前は幼稚園の父親参観。『岳人』に『山と私の対話』と『森と水の恵み』の書評が載っていた。『森と水の恵み』は書評の字数は半分だったが、『山と私の対話』よりも売れているらしい。

11月20日、小学校の終日授業参観。登り棒が得意なようだが、父親の高所恐怖症は遺伝していないのか。テレマークスキーの先生が粟島に渡るため、村上にやって来た。駅前のラーメン屋にいるというので、そこで会い、お城山を案内し、岩船港まで送ってあげた。それで、また小学校へ。

11月18日、神林村の殿岡集落に日枝神社がある。小高い山の上にあるのだが、なぜかブナが1本ある。なぜ、ブナがあるのかはともかく、自家受粉で充実した種子を見つけるのは大変だ。冷たい雨の中、なんとか20個見つけた。友人にDNAを解析してもらうことになっている。

11月16日、連日17時近くまで野外の仕事が続いている。時折あられが降ったりするが、みぞれよりはましだ。写真を撮っても暗くて使い物にならないものが多い。スギの枝条や残材を集めて生重を測ったり、背丈ほどのチマキザサの藪を歩き回ったり、体力の限界に近い。

11月13日、巻の「こまどり」に行く。初めて味噌ラーメン以外のラーメンを食べた。やっぱり味噌かなあ。それから弥彦の菊祭りを見に行くが、岩室辺りから混み始めた。しかし、仕事で知っている山道を回って、30分以上は時間を短縮。天気が悪いので、弥彦には登らなかった。

11月12日、午前中は六斉市に行く。昼寝をしていたら、ミロさんが来た。息子さんが息子の古着を持ってきてくれたのだ。ありがたい。1時間ほど話をする。インドで48年ごとに枯れるタケがあるので、その調査をしてきたと言う。本当に48年なのだろうか。キョロロでセミの話をしたばかりなのに。

11月9日、12月号に掲載が決まった文章の最終原稿を送った。これでやっとまたひとつ片づいた。ゆっくりと飲んでいたいところだが、3日間飲み過ぎたので、自粛だ。明日も夜は飲まなければならないし。桝形ノ池のサンショウウオはどうしたのだろう。原因がわからない。

11月6日、桝形山まで往復する。桝形山は3回目になるが、池からの時間がだんだん短くなるように感じる。地形図上の池は干上がっていたと亀山さんが言う。レイ子さんは「今年最高」と言う。日帰りの高橋さんが3時間で登ってきた。虚空蔵山荘で打ち上げとなる。

11月5日、高桑さんと朝日村の道の駅で待ち合わせ、平床林道経由で白目沢の駐車場へ行く。猿田川を渡渉し、小松沢右岸尾根を登り、912m峰の先のブナ林でタープを張る。それから桝形山手前にある池まで往復。夜はブナ林で星空を見上げながら寝る

11月3日、幼稚園の作品展。バザーでクロネコヤマトの手ぬぐいをゲット。手ぬぐいマニアにはたまらないものである。それから、新発田へ買い物に行く。スポーツ店はすっかり冬モードになっていて、目的の品物はない。ランニングウエアを買って村上に戻る。

11月2日、斑尾山から天水山までの信越トレイルが、まだ牧峠までしかできていないのだという。できれば、そこで止めておいてもらいたいものだ。東の窓にトキソウがあまりないのは、人に採られてしまったからではないか。結局、関田山脈を知らない人たちが開設していることになるのだろうか。

10月30日、母と子供を連れて、朝日スーパーラインにブナの種子を拾いに行く。まず、キャップ場の東屋でラーメンを作って、おにぎりと一緒に食べる。それから、ブナの実拾いである。子供には、「水に入れて沈んだ数だけ、こずかいをやる」と言って一生懸命拾わせた。

10月29日、お城山へブナの種子を拾いに行く。ねらいを付けていた登山道脇の太いブナの下で探すが、充実した種子は少ないようだ。今月は一度も山に登っていないので、山頂まで行き、中世コースを回って下った。拾ってきた種子を水に沈めたが、充実率は30%程度だ。

10月26日、2日前にラジオで飯豊の初冠雪を伝えていた。今日漸く村上からも白い飯豊が見えた。数日前から18時頃ハクチョウが飛んでいる気配は感じていたのだが、早朝ハクチョウが南に向かって上空を飛んでいるのを確認した。冬はもうすぐだ。

10月23日、瀬波小学校の展覧会と瀬波地区のお茶の子祭だが、すごい雨。どうも瀬波小学校の体育館で何かあると、すごい雨が降る。1年ちょっとの間に3回目だ。お茶の子祭で息子が餅つきをじっと見ていた。両親が餅をついていたのを見ていた子供の頃を思い出す。

10月22日、雪割草を植え替える。庭のハナミズキの邪魔になっているトチノキの枝を下ろす。去年1個だけ咲いたハナミズキだが、来年は30個近く咲きそうだ。地面を見れば、シュンランが花芽を付けている。冷たい雨は、高い山に雪が降っていることを予感させる。

10月17日、妙高サンシャインランドに行く。事前に調べておいた一日パスポートで遊ぶつもりでいたが、回数券しかないという。入場者が少なくなるとこういう手を使うのか。なんとか昼過ぎまで回数券をもたせ、おみやげを買って村上に戻り、娘の誕生日のケーキを買う。

10月16日、野尻湖のナウマンゾウ博物館、戸隠のチビッコ忍者村、黒姫のコスモス公園に行く。息子「今日どこに泊まるの?」、私「妙高園」、娘「えっ、こうえんにとまるの?」妙高園は我が家族で貸しきりだった。今日は娘の6歳の誕生日である。

10月13日、久しぶりに普通救命法の講習を受けた。平成10年以来だから、当然心肺蘇生法も忘れているし、数年おきに改められるのだから、受講して良かった。「他人を助けることは、自分を助けることになる」と言われたが、冬山においてスコップが個人装備なのと同じ理屈である。

10月10日、瀬波地区の駅伝・ロードレース大会。41年目だという。息子は中くらいの20位だった。お昼を食べて買い物に行き、息子と娘を連れて神林のパルパークへ。3kmほど走って、家に帰って、またいつものコースを走る。合計10kmくらいかなあ。

10月8日、すごい雨。しかたないから新発田へ買い物に行く。すると、ジャスコにデカタマがたくさんある。なんと、全国の(各地の)デカタマがあるのだ。4月10日に南陽市まで行ったのは何だったのか。新発田まで行けば全国の名産品がゲットできたのである。

10月5日、今日拾ってきたブナの実は炒って塩味にした。それを暖かいご飯に混ぜた。ブナの実はやはり柔らかかったが、炊き込むよりはブナの実らしい。今度はブナの実をもう少し多くしてみたい。「ろうまん山房」の月報の巻頭言はショックだった。事実なのだろうか?

10月4日、昨日、昼ご飯を食べながら拾ったブナの実で、ブナご飯を作ってみた。ブナの実はわずかだったが、塩味にしても、やっぱりしぶ皮の色が出た。ブナの実は柔らかくなってしまい、栗ご飯のようにはいかない。今度は炒って、味付けして、炊いたご飯に混ぜてみよう。

10月2日、雨でどこへも子供を連れて遊びに行けないので、たこ焼き器を買ってきた。店はリニューアルしたようで、すごい混みようだ。午後になって家内が仕事から帰ってきたので、たこ焼きを作ってみる。まあそれなりにできるのだが、もう一工夫が必要なようだ。

10月1日、去年と同じように、今年も雨中の一般公開。それでも人数が増えたのは、新しい総務課長のおかげか。夜はいわふねクラブの飲み会。いつものように一ノ瀬さんと最後まで残り、24時近くまで山の話。あとは11月上旬の天候を祈るばかりである。

9月28日、笹川流域の道路をなんとか進み、20年生くらいのスギ林の藪を登って、峰を越えて桑川流域のブナ林を下った。ナラ枯れの影響で林床が明るくなり、キハダの実生が多く見られた。ナラは極端に少なくなるが、今年のブナの豊作はどのように影響するのか。

9月25日、雨の中、村上トライアスロンを応援する気もなく、新発田に買い物に出かける。『山の本・秋号』を買ったら、最後の「編集日誌」で、今年の蝶ケ岳での高山病による死亡事件を引き合いに出し、拙著を蓑浦さんが紹介してくれていた。ありがたい。

9月24日、娘の幼稚園の運動会。その後、関川村に行き、蕎麦を食べ、温泉に入る。そして、ピッケル展を見る。時々しか走らないのだが、順調に体重が2kg落ちてから変化がない。さらに体重を減らすには、もっと走り込むか、アルコールの量を減らすしかないのか。

9月22日、一ノ瀬さんんと久しぶりに遊びに出かける。各ポイントには既に関東の車がある。連休前は前日の朝から場所取りか。結局昨日と同じ沢に入り、戻って本流を少し上る。小雨の中でタープを張り、焚き火をして、2時間半も過ごす。味噌汁がうまい。

9月21日、先行者はいなかった。アブラハヤに弄ばれながら、歩く。10時にこれまでの記録を3cm更新した。母はまだ刺身を食べたことがないので、急いで家に戻る。刺身とみそ汁で母と昼食。午後は要害山に登り、夕食には塩焼きも加わる。1匹で3人分だ。

9月19日、息子の熱が40度前後から下がらないので、休日診療所に行く。娘がすっかり元気になってしまい、息子の所に行くので、娘を連れて30分ほどイナゴ採り。さらに、中州公園に行き、自転車で走らせる。息子の熱は一日中下がらない。

9月18日、母と息子と松代に行った。母の実家に行き、母の実家のお墓、実家のお墓、そして旧松之山町の施設にいる祖母を見舞った。それから父が遭難した大滝が見える旧大島村の菖蒲高原に行った。叔母さんの家に寄って、村上に戻れば、息子が熱を出した。

9月17日、斉藤信之さんが亡くなったことを知った。『渓流』誌上で楽しませてもらっていたし、『根がかりの釣り』の購入の際はお世話になった人だった。午前は息子のサタデーキッズスポーツ、娘の病院。午後は関川村への講演会のつもりだったが、キャンセル。

9月16日、投稿していた文章が戻ってきた。何とか12月号には載せてもらうことになったが、若干の書き直しが必要だ。しらばっくれていようと思ったのだが、そうは問屋は降ろさない。夜中に娘が突然40度の熱を出した。明日から連休だというのに。

9月11日、朝ご飯を食べた後、子ども達に留守番をさせて、選挙に行く。昼からは買い物をするが、突然クリ拾いを思いつき、子どもと一緒に拾う。パルパークの外で走る。息子に時計を持たせたが、8月28日の2kmよりもタイムが悪かった。やはり人がいた方がやる気が出るのか?

9月10日、午前は瀬波小学校で子供と黒板を作る。息子は星形がいいというが、それでは黒板部分が半分以下だ。パルパークの室内のランニングコースを初めて走る。一周200mだが、なぜだかスピードが出てしまう。そのせいで何周回ったかわからなくなってしまう。

9月8日、去年はタオルを買っただけだったが、今年は去年買えなかった「ケロリン」の桶を買った。温泉によくある黄色い洗面器だ。これで風呂に入浴剤でも入れれば、温泉気分だ。ついでにケロリンのボディタオルも買った。でも、携帯ストラップは買えなかった。

9月6日、ブナを伐採して運び出している時に、手伝ってもらっていた人がハチに刺されてしまった。刺されてから、ハチの存在に気づいたのだが、明らかにスズメバチの一種だった。なんとハチに刺されたのは初めてだと言う。病院に行って処置をしてもらう。

9月4日、今日も早朝から大雨。しかし、8時過ぎから天候が回復したので、またハゼ釣りに出かける。午後からは、「村上市『アマメハギ』保存会設立総会」に出席する。さすがは家内の恩師・長谷川勲先生の演出である。その後は、瀬波祭りへ。雨が降らなくて良かった。

9月3日、未明から雷と雨だった。7時過ぎまで寝ていたが、天候が回復してきたため、ハゼ釣りに出かける。しかし、三面川は増水していて、釣果はわずか。夕方、神林のパルパークで走る。6km走ったが、夕方なのに昼休みの記録よりも1分タイムが遅い。

8月31日、今日で夏休みが終わる。自由研究のまとめ、工作、絵日記、習字・・・。毎朝のアサガオの観察は1分で終わるのだが、最後になってとりまとめが大変だった。昨日伐ってきた竹で息子と一緒に貯金箱を作る。娘も作りたいと言うから、結局違うのを2個作ることになった。

8月30日、息子の貯金箱を作るために職場から竹を伐ってきた。息子に「何を作ると思う?」と訊いたら、「流しそうめん」と答えた。バカやろう、お前の夏休みの工作だ!石井スポーツに本を置けないのは、「仕入れや返品が面倒なのと、たいした売り上げにならないから」らしい。

8月29日、『森と水の恵み』の「ふるさとのブナの森」に登場していただいた人には献本したのだが、注文を取ったら『山と私の対話』と合わせて40冊近くなった。献本と注文は原稿料から相殺されるのだが、原稿料以上なので原稿料が自分の通帳に振り込まれることはなくなってしまった。

8月28日、神林村の穀菜マラソンに息子が小学生2kmの部で出場した。ウォーミングアップではトップを走っていたのに、本番のスタートでは後ろに並べられたのか、すっかりやる気がないようだ。タラタラと何とか完走する。午後からは夏休み最後の神林プール。でも水が冷たかった。

8月27日、第7回目の町内の夏祭り。朝9時から準備を始めると、いつも14時頃暇になる。午後から準備をしても間に合うような気がするのだが、それだとギリギリだろう。17時からスタート。天気は良かったが、いつもより売り上げが少ないようだ。21時に片づけをして、さっさと家に帰る。

8月21日、午前は再び神林プール。ウォータースライダーも寝そべれば、身体が大きくても簡単に流れてゆく。それを知らないお父さん達は流れないと苦労している。背中が日焼けして痛い、痛い。午後は昼寝をして(娘はしなかったけど)、15時から郵便局の夏祭り。それから母と買い物。

8月20日、午前は息子の自由研究の手伝い。アサガオの長さを毎日調べていたのを折れ線グラフにした。午後は神林プール。浅いプールはお湯のようだ。一端家に戻ってから、来週の穀菜マラソンの2kmコースを走る。高校の同級生や虫仲間が『森と水の恵み』を買ってくれた。ありがとう。

8月18日、息子が合宿から帰ってくるので、新潟駅まで迎えに行った。紀伊国屋に行ったら、『森と水の恵み』が置いてあった。しかし、石井スポーツにはなかった。何とかできないか。ムーンライダースの『ポストウォー・ベイビーズ・ペーパーバック』を買った。3年半ぶりの新作である。

8月16日、やっと、達人の山旅2『森と水の恵み』を通して読んだ。気になっていたのは、自分の文章がどこに配置されるかということだった。高桑〜武田〜若林と続くラインは編者高桑さんの意図が読み取れる。下手な文章で申し訳なかったが、あれで精一杯なのです。

8月14日、志水哲也編:達人の山旅1『山と私の対話』はクライマーや写真家など、志水さんと同じような人たちばかりで、高桑さんの方が親しみやすそうな気がしてしまうのは、自分も加わっているからか。いずれにしても、志水、高桑という個性がそのまま編まれた本であることは確かだ。

8月13日、母と日帰りで松代に行ってきた。長岡を過ぎたらすごい雨で、これまで体験した中で最も怖い雨だった。実家から米を運んだり、祖母を見舞った。祖母はもう誰もわからないようで、ただ差し出されたスプーンの流動食を食べているだけだった。村上に戻れば『森と水の恵み』が届いていた。

8月12日、朝日村に設置したカシノナガキクイムシのトラップで、オニホソコバネカミキリが採れた。格好いいネキだ。虫仲間に問い合わせたところ、どうも新潟県内での正式な採集記録はないらしい。しかし、肝心のカシノナガキクイムシはいまいちどころか、期待はずれの捕獲数らしい。

8月11日、1箇月くらい前に山仲間に初メールした。しかし返事がなかなか来ない。「ひろしです」と書き出したので、迷惑メールだと思われたのだろうか。しかし、受信ボックスを送信ボックスと勘違いしていたらしく、1箇月近く前から来ていたのだった。お詫びのメールと送ると「災難と誰かさんのメールは忘れた頃にやってくる」と返事が来た。ごめんね、Aさん。

8月8日、小学生が急に登校することになり、祥泰と二人でお城山に登る。登山道脇で枯れているナラの写真を撮ったりする。家に戻って、調整池で野球。午後は家内が娘と息子の監視役で、祥泰とプール。19時からは小学校の緊急の父母者会。疲れただけの夏休みが終わった。

8月7日、二子島公園に行き、奥三面歴史資料館に寄る。甥と二人の子供は、火熾しなどに夢中になっている。布部のヤナ場へ行くと、ちょうど1匹鮎が上がってきた。午後はまた母にスポーツクラブの監視をまかせ、祥泰に水泳を教える。夏休みなのにどんどん疲れがたまっていく。

8月6日、早朝、野潟に行き豆アジを80匹ほど釣る。コマセを撒くと豆アジが数え切れなくくらい集まり、息子は「わあー、パニック状態」と叫んでいるが、パニック状態なのは喜んで飛び跳ねている息子である。それから、家内が勤めている職場で夏祭りがあるというので行く。午後はまた2時間のサウナだったが、母にスポーツクラブの様子を見させて、祥泰と一緒にプールで泳いでいたというか、泳ぎを教えていた。

8月5日、梶川尾根を登って丸森尾根を下った。去年みたいに北股岳まで足を延ばしたかったが、出発が1時間遅れたし、扇ノ地紙より南はガスっていたので、14時5分には車に戻ってしまった。村上に戻れば、甥の祥泰が来ていた。初日はいよぼや会館に連れて行った。

8月4日、娘の部屋がゴミ置き場になっているので、おもちゃなど70kgのゴミをゴミ処理場に持って行ってきた。午後はまた2時間のサウナ。上越市の病院から旧松之山町の施設に移っていた祖母は風邪を引いたようで松代の病院に入院しているようだが、もうろくに食事をとらないらしい。

8月3日、午前は息子のチャボ当番に付いていく。卵を恐る恐る採った息子だったが、息子がぼーっとしている間に他の二人がジャンケンで卵を持ち帰ることになってしまった。午後は娘と息子のスポーツクラブの水泳に行き、室内プールだからサウナ状態の2時間。夜は職場の暑気払い。

8月2日、今日から夏休み。神林のパルパークに行き、グランドで4km走る。いつもの昼休みのランニングよりも少ないのだが、この暑さだからしかたがない。それから合宿から戻ってきた娘を迎えに行く。午後は小学校のプール当番。夕方また7kmほど走る。1リットルほど汗をかく。

7月31日、8時頃家に戻り、11時から山形交響楽団ふれあいコンサートに行く。最後はプログラムにはない「ラデツキー行進曲」だったが、30年近く前からウインナワルツとともに聴いているマーチである。生で聴くのもいいものである。午後は今年初めて神林のプールに行く。

7月30日、午前は息子と娘を連れてきれい館に行く。午後からはお城山に登り、15時過ぎに諸上寺山へ移動運用のため集まる。年々移動運用の意欲が低下していくのか最大でも5人で、結局泊まったのは3人だけだった。途中で寝たが、午前2時頃まで飲んでいた。

7月29日、息子と娘を連れて大峰山に登った。5月6日に登り損ねたこともあったが、子どもにはちょうどいい山だからだ。途中の東屋で10分休んだが、40分で展望台に着いた。おにぎりとラーメンを食べ、山頂に向かう。12時30分に登山口に下りて、村上に戻れば家庭訪問が待っている。

7月24日、町内の地引き網だが、ビールを飲んでしまうと1日何もできないので我慢する。10時に引き上げ、お昼を食べてから新保岳に向かう。40分で登り、1時間10分休んで、30分で下りた。つまり、歩いていた時間と山頂で休んでいた時間が同じだったのである。

7月17日、月山の弥陀ヶ原へ行こうとしたら、交互通行ですごい時間がかかるらしい。そこで、羽黒山へ向かう。階段の途中で疲れた息子は座り込んでいたが、途中で「氷」の暖簾を見つけると元気が出たようだ。湯殿山には残雪期に3回登っているので、これで出羽三山制覇だ。

7月16日、午前はホームセンターなどで買い物をして、中州公園で子供の自転車の練習。午後は新発田へ買い物。松代の高橋八十八さんから母に手紙が来た。ヤマカカシがタニシに頭をつっこんで、挟まれていた写真が入っていた。長岡の村山先生に送ることにしよう。

7月14日、下山林道から大蛇山に登った(正確には大蛇山の北の西向き斜面)。この道は10年くらい前に仕事で登ったことがあり、当時、「このまま稜線まで延びればいいな」と思っていたところ、数年後に登山道となって延長されたのだ。それにしても林道はすごい道だった。

7月9日、娘が月曜日夜から、息子が木曜日夜から熱を出した。病院に行ったら、夏風邪と診断された。というわけで、家内は子供を家で看ていることにしたので、長岡へ行った。広葉樹の植栽地にスギ樹皮を敷く手伝いだ。雨も降らず、いい汗をかいた。

7月5日、「天野滋さんが亡くなった」と新聞に出ていた。自分が買った最初のシングルレコードがNSPの「夕暮れ時はさびしそう」だった。それにしても52歳とは、あまりにも若すぎる。最近は再び活動しているようだったが・・・。「NSPV ひとやすみ」を聴きながら今書いている。

7月4日、数日おきに「ウイルスメールが送られた」と案内が来る。アドレスがOCNではなく、JARLだから明らかに自分のWSを見ている人が感染しているのだ。ということは、自分のアドレスでもウイルスが自分の知らない誰かに送信されているということでもある。困ったものだ。

7月2日、『渓流・夏号』がやっと書店に並んだので買った。なんと、創刊20周年らしい。曽野部さんは北海道から山形に戻ったようだ。初校が届いた。写真はまだ入っていない。8月10日発売である。「執筆者紹介」を頼まれたが、達人らしい活動をしていないのが悩みである。

6月30日、人間ドックを受けた。毎年この時期だが、朝になると胃が痛む。そのため、いつもびらん性胃炎と診断される。早朝自分で測った時は正常な血圧も、病院で測れば境界域になる。だが、それ以外は何もなかった。微妙に値がオーバーする項目も、正常範囲におさまっていた。

6月29日、「おぐに渓流地図」が届いた。2万5千分の1の縮尺で3枚もある。小国町は広いのだ。これだけまとめるのには、ものすごい労力と時間がかかっただろう。ただ、渓流地図というだけあって、山名については物足りなかった。数年後の改訂を期待しよう。

6月28日、6mm・30m、シュリンゲ数本、カラビナ3枚を持って、下田・烏帽子岳北斜面を目指した。しかし、増水で親沢を渡ることができず、とりあえず下見だけでもと渡渉地点に向かった。迎えてくれたのはおびただしい数のヤマビルだった。数十匹が身体に這い上がってきた。

6月26日、大境山に登った。この山の魅力は登山口がよくわからないことである。そのため、本日の登山者は自分ひとりだった。水場は雪に覆われていなかった。12時前に登山口に下りてきて、蔵王ストアで足りなかったネマガリダケを買い足す。夕食はネマガリダケのかき玉汁。

6月25日、三面の登山口の様子を見に行くと、登山・渓流釣りの車はわずか2台だけ。それから猿田野営場に行く。猿田川の川原で子供と笹船を流して遊ぶ。母はミズナ採っていた。家に戻って、中州公園に行き自転車の練習。それからまた家の前で自転車の練習。

 6月22日、「そちらでは山へ入ることがありますか」と職場に電話があった。「仕事では時々ありますけど」と答えると、「日白山に登ったことはありますか」と言った。「古い地形図には登山道があったような気がしますが、藪でしょうね」と答えると、相手はすぐに電話を切った。何だ、お前は。

 6月19日、子どもを連れて、温身平に行った。駐車場には車が満杯で、それだけでウンザリだ。石転び沢が見える場所でお昼を食べ、樽口峠に行った。飯豊連峰はややガスり気味だったが、雪が多いように感じた。朝夕二回中州公園に行き、子どもの自転車の練習で疲れた。

 6月18日、県立自然科学館に初めて行った。これまで行かなかったのは、博物館ではなく、遊園地だからである。だから、子ども達は喜んで遊んでいた。しかし、土曜日の午前中とはいえ、人が少ない。リピーターがいないのだろうか。同じ展示では確かに飽きてしまうだろう。

 6月12日、午前の瀬波・浜山の森林整備が雨が残っているため中止になる。車に自転車を乗せて、お幕場に行って子供に自転車の練習をさせる。午後はきれい館に行って水泳の練習。『山の本・夏号』が届いた。「ハガキだより」が載ったからだが、久しぶりにクイズも当たってスタッフバックも送られてきた。

 6月11日、母が弟の所に野菜を持って行きたいというので、見附市の弟の家に野菜を届ける。その弟は家族総出でアルビレックスの応援に新潟に来ているのだが。帰りに「潤」でラーメンを食べる。新発田市で買ったタイヤの点検をしてもらい、子どもの水泳道具を買って村上に戻る。

 6月8日、タープを買おうと思っていたが、アライのピンチシートを買ってしまった。買おうと思っていたタープよりも少し小さいが、ファスナーを閉めると底なしツェルトにもなるというモノだ。日帰り冬山で風を避けようとしても、ツェルトでは十分でなく、これならどちらでも対応できそうだ。

 6月5日、スープを飲んだ後、後藤さんの所に行き、朝ご飯を食べる。釜谷の公園で遊んで、観光船で内浦に戻る。食堂でラーメンを食べて、温泉に入って休む。帰りは早めに港に行ったので、船内で横になって休むことができた。そろそろキャンプ場も蚊が出てきたので、キャンプは終わりだ。

 6月4日、今度は家内と娘も連れて粟島に渡った。内浦港に着くと後藤さんが車を用意して待っていてくれた。その車で釜谷のキャンプ場に行き、テントを張って、北回りでドライブ。背中平から小柴山に登って、キャンプ場に戻る。ご飯を炊いてカレーを食べて、花火をした。

 5月29日、小学校の運動会。息子は、80m走では靴が脱げそうになりながらも1位になり(3人しかいないのだ)、中学年リレーでは本当に靴が脱げても次の人にバトンを渡し、借り人レースでは運良く「校長先生」を引き当てて1位になった。見ている親も疲れる運動会だった。

 5月28日、午前は母がウドを塩漬けするのを観察し、庭のイヌツゲの剪定をする。買い物をした後、お昼を食べて昼寝。息子が学校から帰ってきてからちょっと休んで息子と娘を連れて、朝日村のきれい館に行く。久しぶりのプールで疲れた。髪を染めたら、娘が「パパ、へん」と言う。

 5月27日、高桑さんから返事が来た。何とか使ってもらえる文章だったらしい。松代は田植えの真っ盛りのようだ。去年は、我が家の畑のウドの採取と塩漬けを親戚に頼んでいたが、とても今年は頼める状況にない。土日も行事があるので、母と松代に帰ってウドを採ってきた。

 5月26日、昨日職場の構内にカモシカが現れたらしい。もっとも数年前にはクマが前庭を歩いていたというのだから、何の不思議もない。アナグマなんて背後から手づかみにする職員もいるし、ムササビは木にぶつかって死んじゃうし・・・。我が職場は野生の王国か?

 5月25日、早朝に原稿を高桑さんに送った。これを脱稿というのだろうか。とにかくこの2箇月間は昼休みは原稿書きと推敲の繰り返しで、ランニングもできなかった。ただ、こんな文章で他の著名人の文章と釣り合うのか心配しているのだが、原稿の採否は高桑さんにまかせてある。

 5月22日、4時に起きて岩ヶ崎に行ったが、何も釣れない。どうも新聞情報は当てにならない。9時から町内の一斉清掃の後、バーベキューでビールを飲む。家に戻って、横になってサッカーを見ていたら寝てしまったが、ロスタイムには目を覚まして日本の失点をしっかり見た。

 5月21日、6時半から小学校のグランドの草取り。朝食の後、再び小学校に行って、サタデーキッズスポーツに参加する。息子はストラックアウトやグランドゴルフを楽しんだ。小学校から帰ってすぐに長井市の白ツツジ公園に行ったが、去年と1日違いなのに見頃には少し早かった。

 5月15日、後藤さんで朝食をいただく。内浦まで歩いて戻ろうと思っていたが、後藤さんから車を借りて、北回りで内浦に行く。まだ、10時半。雨が降ってきたので、外でラーメンを作るのを止め食堂で昼を食べて、温泉で時間をつぶした。息子と二人だけの粟島キャンプだった。

 5月14日、村上に暮らし始めてから8年で20回も行ったのに、10年ぶりに粟島に渡った。釜谷まで歩き、テントを張って、流木を集め、魚釣りの真似をして、後藤さんに朝食の予約をして、魚を戴いて、ビリー缶で飯を炊いて、鯛や鯵を焼いた。携帯が圏外なので余計な電話がなくて嬉しい。

 5月13日、やっと新しい携帯電話が来た。ところが、「データも入れ替えておきました」と店員。前のデータはカタカナのデータだし、どうせ全部入れ直さなきゃいけないんだから、そんな余計なことしなくても良かったのに、結局削除する手間が増えてしまった。あっという間に終わったけど。

 5月8日、瀬波地区の親子オリエンテーリングを終えて、家でお昼を食べ、大平山に登った。すると、山頂に一周ルートが開設されたと記されていた。17時までには下れるだろうと一周ルートを進んだ。一周時間は休憩も含めて3時間5分だった。これからの半日登山コースになりそうだ。

 5月7日、新発田へ買い物に行った帰りに、桜公園に行く。母が見たい言っていた黄色い桜を確かめるためだ。しかし、黄色ではなく黄緑で、岩ケ崎にある黄緑の桜と同じような種類であった。2日続けて図書館に行き、「只見の山小屋から」を漸く全部コピーした。借りる人が多いのだ。

 5月6日、母と二人で大峰山を目指したが、中条町まで来て「たまごっち」を忘れたことに気づいた。母を登山口に降ろし、急いで村上の家まで戻った。下の駐車場から歩き出したが、登山口から10分くらいの所で母と会った。15時半には娘が帰ってくるので、大峰山中退となってしまった。

 5月5日、15時過ぎになってから息子と娘を連れてお城山に登った。登山口から七曲がりが終わるまで舗装されて子供でも安全で歩きやすくなった。ブナを教えながら歩くが、サワシバと区別がつかないようだ。ちょうど息子の国語の授業でブナの森の物語をしているのである。

 5月4日、家族全員で松代に日帰りで行った。母の実家、実家、スキー場、叔母の家、祖母が入院している病院と15時間行動だったが、2回目の取材を終えたというところだろうか。これでなんとか著名人に肩を並べるというか、足下にでも置いてもらえる文章が書けるだろうか。

 5月3日、8年3箇月ぶりに携帯電話を更新した。そんなに長い間更新しなかったのは、不携帯電話だったからだ。家内が欲しいというので、この機会に更新しようと考えたのだが、希望する機種の色が新規契約ならあるのに、機種変更では無いというのはどういうことなのだろうか。

 5月1日、白川ダムから出ケ峰〜大館山を一周した。下りルートもピタリと決まり、会心の山行だった。左側のスギ人工林から離れると急に人臭さを感じなくなるが、大館山北側のまばらなスギ林を覗き込んだときは、かつて人が住んでいたという文章を見たことがあるせいか何か殺気を感じた。
 
 4月30日、母と子どもを連れてドライブ。朝日村の道の駅で遊んだ後、湯殿山スキー場でソリ遊びをさせて、湯殿山神社に向かう。母はこれで出羽三山全てお参りした。月山スキー場が見える道ばた(R112)でおにぎりをたべ、桜を見ながら朝日連峰一周のドライブだった。

 4月29日、ゴールデンウイークに入った。午前中はメーデーに参加。3連休の最終日では参加者が少ないだろうという判断で29日にしたらしい。昼寝をして、午後は子どもを連れて笹川流れへ。午後3時過ぎから向かえば、車も人も少ないわけだ。いつもの公園で遊ばせて家に戻る。

 4月25日、『知られざる山々』を注文していた人にメール便で送ろうとしたら、送料は80円でいいと言われた。200円くらいはするはずであるが、そのコンビニは日替わりのように店員が代わり、しかも近所でメール便を出すのは自分しかいないと思うほど、いつまでたっても要領が悪いのである。

 4月24日、とりあえず麒麟山に向かった。西側のピークに登り、一周するグループと別れ往路を戻ったが、下山家らしく藪に入ったため、一周グループよりも30分以上も遅れて駐車場に着いた。引入沢山に向かう人たちと駐車場で別れ、昼に村上に着いた。午後は家族サービスである。

 4月23日、羽田寿志さんの『知られざる山々』の出版祝賀会が旧津川町の新潟市山の家であり、30人を越える人が集まった。いつものことだが、いつ寝たかわからない。「まえがき」で「三拍子そろったつきあいたくないやつ」とは私のことかと思っていたが、羽田さんのまわりはみんなそんなやつだ。

 4月19日、入広瀬にブナの着花調査に行った。2m以上雪が残るブナ林で上ばかり向いていて首が疲れたが、ブナ林からは毛猛山塊が見えて気持ちが良かった。今年は久しぶりの豊作になるだろう。授業参観があるので、髪の毛を染めたら、娘が「パパ、あたまなおったの?」と言った。

 4月17日、夏タイヤのスリップサインが出ていたので、タイヤを買った。新潟日報で紹介されていた『新潟県の山の花』を買ったが、期待はずれであった。「新潟県の」とあるのだから、どの山域に分布するかは最低限書いてほしかったし、学名が無いのに学名の説明など不要だと思う。

 4月16日、母、息子、娘で神林村の要害山に登った。途中で時計を忘れたのだが、娘が「たまごっちの時計があるよ」と言う。たまごっちで時刻を確認しながらの登山である。山頂でラーメンを食べて寝ていると、「パパの鼻の中に変なのがあるよ」と娘が言う。白い鼻毛のことである。

 4月10日、たまごっちの東北の名産品をゲットするために、南陽市に行った。おもちゃ屋にいた時間はわずか5分。ラーメンを食べて、行きたい山域の登山口の残雪状況を確かめて村上に戻った。2年目で咲いた雪割草の中にどうもおかしな花がある。品種で言うと「緑雲」みたいな花だ。

 4月9日、三俎山から二王子岳を一周しようと思って出かけるが、天気がなかなか回復しなかった。11時にはガラク峰についたが、まだ二王子はガスの中。結局12時半までガラク峰にいて戻ることにした。下りはじめて13時半になったら、ようやく飯豊と二王子岳が見えてきた。
 
 4月8日、正式な依頼が手紙で来た。若干の差し替えはあったが、引いてしまうメンバーだ。こんな私が仲間に加わっていいのかと思う。持っていた本は、J.モノーの『偶然と必然』だけだった(読んだことはないのだが)。山にでも登らなければ、良い構想が思いつかないのだ。
 
 4月7日、「私の選択は間違っていなかったようです」というメールが来た。脅しの次はお世辞というかよいしょというか。まあ、こうなったら引き受けなければいけないだろう。ところが、祖母が施設から上越の病院に移ることになってしまった。シナリオどおりにはなかなかならないものである。

 4月3日、弟と叔父が手伝いに来てくれた。お昼は母の同級生が営んでいる食堂で食べ、それから母の実家に行った。祖母は病院から施設に移っていたが、インフルエンザが流行っているのか、肉親でも面会できないらしい。車中で子供の寝息と母のためいきを聞きながら村上に戻った。

 4月2日、母と子供を連れて松代に帰った。近所の雪下ろしを頼んでいる家の人が自分の家を移築するというので、一夏の間家を貸すことにしたからである。初日の片づけが終わり、母が悔やみに言っている間、子供を連れてブナ林まで散歩した。ブナの花芽は少しふくらみかけていた。

 4月1日、松代町が新設合併で十日町市になった。これからは、「出身は十日町の松代です」と言うことになるだろう。同じ千年集落出身の高橋八十八さんの投書が新潟日報に載っていた。現在依頼されている文章で書こうと思っていることをやっぱり八十八さんも考えていたんだなあ。

 3月27日、にいがた貝友会の総会で長岡に行った。毎年一回の飲み会で、楽しい集まりだった。雪割草の同好会と兼ねている人もいて、途中で退席した人もいた。帰りに新潟の石井スポーツにより、家内からの誕生日のプレゼントを自分で買った。今年は「レザーマンツール」である。

 3月26日、職場の同僚や無線仲間が開催している雪割草の展示会を見るために新発田に行った。隣の課長や18年前の総務課長も見に来ていた。花芽率は13%(17/122)まで上がった。職場の同僚は二段と三段を掛け合わせて千重ができたと言っていたが、こちらは全部標準花である。

 3月25日、『森の花を楽しむ101のヒント』が届いた。今回は自分と同じような仕事をしている人が多く書いているので、楽しみにしていたものだった。ただ、自分ほど最初の執筆依頼のメールにあった「個人的エピソード」を書いた人はいないような気がする。近いうちに販売になるらしい。

 3月21日、羽田さんとの待ち合わせ場所に行き、羽田さんに『山の本』を渡す。帰りには大六さんの家にも寄って、『山の本』を置いてくる。母と新潟に行き、朱鷺メッセの展望フロアから山を眺める。新潟駅へ息子を迎えに戻って、いなほで帰る。息子は寂しかったのか泣きそうな顔をしていた。

 3月20日、息子のスキー合宿のため、新潟駅まで送りに行く。その後、紀伊国屋や石井スポーツに行って、時間をつぶして村上に戻る。ところが、娘が熱を出し、明日も息子を迎えに行くことになり、羽田さんから誘われていた山は行けなくなってしまった。今日、どこか登れば良かった。

 3月19日、息子の明日からのスキー合宿に備えて最後の練習のため、わかぶな高原スキー場に行った。昼近くなるとすっかり春のザラメ雪になり、かなりの悪雪。カップルのテレマーカーが1組いたが、話しかける余裕はない。丸山公園の駐車場で山中間の青い車を発見する。

 3月18日、44歳の誕生日である。しかし、朝から目がかゆい。外は雨だが、スギ花粉が飛び始めているようだ。もっとも我が職場はスギ花粉が蔓延している。花粉を飛ばさないスギを作るために、スギの花粉を使っているのである。家に帰ったら、『山の本春号』が届いていた。

 3月15日、暖かい部屋に雪割草を置いておいたら、花が咲き始めた。一昨年はいろいろな花をこすり合わせて交配させたつもりだったが、雪割草は開花と同時に自家受粉を始めてしまうらしい。だから、花はどれも親に似たものばかりである。だけど雄しべを取るほどの根気はない。

 3月14日、高桑さんから脅しのメールが来た。「武田さんなら、いくらでも出てきそうですがねえ」しかし、他の人は全国的に著名な人ばかりだ。こんな人の中に自分が名を連ねていいものかどうか。しかし、あえて私のような無名人をリストアップするあたりが高桑マジックなのか。

 3月13日、見落としていた花芽があり、花芽率はもう少し上がりそうだ。母と子供を連れて、大池に行った。車の中で、ハクチョウは50羽より多いか少ないか息子に質問した。息子は多いと言う。もう30羽くらいになっているものだと思っていたが、約60羽のハクチョウがいた。

 3月12日、高桑さんから突然電話があった。メールでなく電話での依頼だから、断りようがない。さすが、策士・高桑である。「少し考えさせてください」と電話を切ったが、困った。さてどうしよう。去年芽生えた雪割草を植え替えたら、花芽率は10.7%(13/122)だった。

 3月10日、去年発芽した雪割草の双葉にジベレリンをかけて成長を促進させたのだが、1〜2割が花芽をつけていてもう少しで咲きそうだ。自分で受粉させて生まれた雪割草だから、どんな花が咲くか楽しみである。久しぶりに『森の遠くで』の感想が届いた。

 3月6日、午前中だけ暇ができた。葡萄鼻山にしようか、高坪山にしようか迷ったが、結局海府の月山(点名)に登ることにした。1時間半もあれば山頂に着くだろうと思っていたが、2時間40分もかかった。おかげで下りも同じ尾根を下りなければいけなくなってしまった。

 3月5日、息子のスキー練習のため、またニノックスのナイターに行った。これでスキー合宿まで練習はしないつもりだったが、寒くてゲレンデがガチガチで全くダメだ。息子は5回滑っただけで、20時に切り上げた。おかげで1時間早く帰ってこれたが、来週もう1回練習が必要だろう。

 3月2日、500mlのペットボトルを2つくっつけたような形の1000mlのペットボトルを見つけた。これまでの1000mlのペットボトルは高さが少し高くてどうも気に入らなかったのだが、これならザックのなかの収まりがいい。横から押しても丈夫そうなので、6つ買い占めた。

 2月27日、ケイタイカイツーたまごっちは、ゲームなどをして貯めたポイントでいろいろなアイテムを購入できるのだ。たまごっちを買った店に、大きなたまごっちがあり、それと通信して入手するのだが、おもちゃ会社は考えるものだ。こんなことに頭をひねるのなら楽しいと思うのだが。

 2月26日、24、25と2日続けての飲み会だったので、何もする気が起きない。昼寝の後で、ニノックスへ息子のスキーの練習に行く。合間に中級コースを一人で滑る。娘を背負って滑るのは3回。前回は2回だったから、次回は何回せがまれることやら。天気はまずまずだった。

 2月21日、『山の本春号』に投稿していた原稿の校正が送られてきた。今回は結構文章の言葉尻を直されていたようだ。ただで文章の勉強ができるのだから、今度は「日本の秘峰」に投稿してみようか。しかし、秘峰と呼べるほどの山へ行く技術がないのが悩みである。

 2月20日、丸山公園に行き、鷹ノ巣温泉への遊歩道を歩いて、モラ沢を渡ったところで尾根に取り付く。雪庇の影にブルーシートを張って、昼食。下りはテレビ塔から管理道沿いに下りたが、下るほどすごいくされ雪になった。こっちから登っていたら、ラッセルに苦労しただろう。

 2月19日、午前は子供と一緒に映画を見に行き、午後からは虚空蔵山荘で飲み会。運動公園から30分くらい歩いて15時前に着くと、もう数人が飲み始めていた。いつまで起きていたのかわからないが、寝袋に入らないで寝てしまう。寝袋に入っていない人がもう一人いたのだが、その人は持ってこなかったのだという。

 2月18日、去年の12月20日の日記で予言していた交差点でやっぱり事故が起きた。車どおしの衝突だ。しろうとでも事故が起きると予想できる交差点になぜはじめから信号機を設置しないのだろうか。おそらく死亡事故にはならなかったと思うが、軽自動車は大破だ。

 2月15日、ぶどうスキー場のくらしたロッジに入ったら、ブナの枝が飾ってあった。水に指しておけば芽吹くと思っているのだろうと思っていたら、ゲレンデの邪魔になる枝を落としたのだという。しかし、みんな花芽なのだ。今年は豊作ではないと思うが、かなり豊作に近くなるだろう。

 2月13日、結局、3日間どこにも出かけることができず、中条町の塩の湯温泉に出かけた。初めてだったので建物がわからず、一番村上側の風呂に入った。ところが、熱い熱い。息子とは水風呂ばかり入っている。大人だって、まともに風呂には入っていないのだから当たり前か。

 2月12日、朝、娘の診察の予約をした帰りに無線で近所の中等教育学校でバスケットの試合をしているという情報を聞いた。どうやら新潟以北の高校生の試合で、最後は優勝校と一般チームと試合をするというものらしい。午前と午後でそれぞれ1時間くらい息子と一緒に見た。

 2月11日、ハードオフで西脇唯さんのCDを52円で買った。もう10年前のアルバムだ。「ひぐらし」という曲で、「ひぐらしの鳴き声が聞こえてくる教室 つんとこみあげる瞳の向こう 変わらないブナの森」というフレーズを見つけた。この人はきっと私と同じのような環境で生まれ育ったのだろう。

 2月5日、マクドナルドへ行って、ハッピーセットを買う。子供がおまけの犬のぬいぐるみを欲しがっていたからだ。家に戻って、昼食をとり、窓から外を見たら、餌台にネコがあがっていた。しばらく観察していたら、どうもスズメをねらっているらしい。餌台から下りると餌台に集まるスズメをじっと見ているからだ。

 2月4日、『しただの山』を買った。この本は持っているのだが、どうも少し変わったようなので買ったのである。家に帰って中を見ると、白根山のガイドがある。この山は以前から藪山情報として踏み跡があることは知っていたのだが、最近はちゃんと登山道として管理されているようだ。

 1月30日、昨日と正反対の荒天である。雪は積もっていないのだが、風が強い。松代は向こうが見えないくらい降っているらしい。母が遠い親戚の葬儀に呼ばれたのだが、天気が落ち着いてから二人で行くことにした。大阪女子を見た。大南姉は焦りがあるんじゃないか。

 1月29日、あまりのいい天気に子供を連れて、貯水池に凧揚げに行った。帰ってきたら、高桑さんから(本当は岩城さんからだけど)、『古道巡礼』が届いていた。夕方からニノックスのナイターに行く。息子のスキーの練習である。母が娘を見ていたが、最後は娘を背負って滑った。

 1月27日、『山の本』51号に投稿していた紀行文が掲載されることに決まった。最近はあまり文章を書かないのだが(せいぜい年に2、3回、それは山に登っていないせい?)、最低1年に1回は投稿しようと思っている。最初から写真を送らず、文章だけを送って判断してもらうことがミソである。

 1月24日、「ろうまん山房通信」が届いた。先日会友にさせていただいたので、早速月報が送られてきたのだ。岩城さんの小千谷ボランティアが良かった。「山ヤの装備はすごい」の連発がいい。強風の中、体育館脇にテントを張って、2泊でボランティアとはさすがである。

 1月23日、胎内スキー場に行く。11時頃、携帯に電話がある。一ノ瀬さんが天気がいいので何をしているのか気にしていたようだ。午前から曇り空で、16時まであまり雪質も変わらずなかなかのコンディションだった。今シーズン最高の混みようだったのではないか。

 1月22日、六斎市に行き、ぽっぽ焼き(蒸気パン)を買う。この店は人気があるらしく、行列ができている。それから大池に行って、ハクチョウにパンをあげる。なんとハクチョウだけでなく、ハシビロガモやオナガガモまでが手のひらからパンを食べた。帰りにチャーシュー屋でラーメンを食べる。

 1月20日、病院の診察まで間があるので幼稚園の自由参観に行った。右隣のD君のお母さんから、「いつも娘ちゃんに遊んでもらってありがとうございます」と言われる。しかし、最近娘はM君べったりなのだ。今日も娘はM君を追い回し、D君は一人で遊んでいる。すると、左隣にM君のお母さんが来た。だけど、M君のおかあさんには「いつも娘が遊んでもらってありがとうございます」とは、D君のおかあさんが聞こえる場所で言えなかった。ろうまん山房の会友にさせていただいた。

 1月16日、祖母の様態がとりあえず落ち着いたので、母を迎えに松代に行った。長岡に入ると雨が雪になり、直径5cmくらいの大きさの雪が降ってきた。家内は真冬の松代の姿を知らないので、大声をあげている。祖母の様子を見て、母の実家でお昼を食べて、村上に戻った。

 1月15日、天気がまずまずなので、ぶどうスキー場へ行き、回数券で滑った。途中1回休み、リフトの点検をしていた遠山実さんに挨拶したが、約2時間で11回が終わり、昼過ぎには家に帰った。家内と子供が家に戻ってきてから、買い物に行く。たった2時間なのに、腰が痛い。

 1月10日、子供たちが冬休み最後なので、朝日村のきれい館に行く。ウォータースライダーは我が家族で貸し切り状態だ。神林村のプールは人が多いので、25mもここのプールじゃないと泳げない。結局6日間の正月休みに続く、2回目の5日半の正月休みを過ごしたような感じで、今年の10日間が過ぎた。

 1月9日、池田知沙子さんと鈴木竿山さんの死について、高桑さんは『おーい竿山』の中で、「宣告された死と予期せぬ死のあいだには途方も無い差がある。神はなぜかくも不平等なのか・・・」と書いている。「死は思いがけず訪れ、いささかも苦しまないのが最良とされる」のならば、祖母も倒れてすぐに亡くなれば、最良の死に方だったのだろう。祖母は精神的にはもちろんだが、肉体的にも苦しいのだろうか。

 1月8日、それほど大雪になりそうもないので、家内と子供を二人連れて松代に日帰りした。私に祖母の母の記憶があるように、自分の子供にも祖母の母の記憶を残しておきたいからだ。実際最も祖母と遊んでもらっているひ孫は私の子供である。また祖母のひ孫は7人だが、女は娘ひとりだ。娘が生れた時、祖母は「親ができないことをした」と喜んでいた(私は弟と二人兄弟である)。病院で息子が「おばあちゃん、早くよくなって、またあそんでね」と言うと、祖母は顔を背けて、目をつぶってうれしそうな顔をしていた。これで私はいつ祖母が亡くなってもいいという覚悟ができた。

 1月7日、朝も様態が変わらないようなので、この夏に実家を貸すことになっている近所の家に行った。その家には雪下ろしなど世話になっているが、家を移築したいというのでひと夏貸して欲しいという依頼があったのだった。母が村上に住むようになってから、実家を無くすと祖母の様態が急変するのではないかと今まで維持してきたのだが、貸してもいいという返事をしたのは1月3日の電話だった。3連休は大雪になりそうだし、祖母の様態が良くなっているので村上に帰った。

 1月6日、朝病院に行くと、祖母は「きゅうきゅうしゃ」、「びょういん」というような言葉で訴えた。朝ご飯で呼んでも来ないので、起こしに行ったら、様子がおかしかったので、病院に運ばれたわけだから、自分の現在の状況が把握できないのだろう。左半身が動けないのが辛いのか、何度も右手でベッドの手すりに掴まり、頭を上げようとする。「迎えが来ないのは、あんまり女が悪くなったので、父は分からないじゃないか」と叔父さん(祖母の長男)が言う。それもそのはず、祖父が亡くなって50年も過ぎているのである。18才離れた祖母の弟が来ると、鸚鵡返しだが、「ヘイザブロウ」と何度も言った。それから同じように鸚鵡返しだが、妹、子供、孫の名前を言い、「マツダイ」も「カネヅカ(屋号)」もしゃべった。自分の夫に似ている甥がお見舞いを渡すと暫く字を見ていた。字が読めるのか、と感慨深かったが、くるっとひっくり返して裏を確認したのには一同大笑いだった(裏には何も書いていないのだが)。祖母は数字に強く、若い頃は東京の吉原の遊郭で番頭の手伝いをしていたのである。さらに軍歌のような歌を歌った。叔父さん(祖母の長男)によれば歌など歌ったことはないというのだが、60年も前に夫を戦場に送り出す時に歌ったのを思い出しているのだろうか。夕方聴診器を付けて、「ひろしだよ」と言うと、わかったのか動けないことが悔しそうで息が荒くなったので、聴診器を外した。「おれはあるきたい」というようなうめき声を出す。
 91歳の祖母は、現在でもひとりで洗濯をし、布団を干し、新聞を読み、天気が良ければ1日8000歩も散歩をするのが自慢だった。同じ集落の90代の中では最も健康だったのに、突然具合が悪くなってしまったのだ。「かぜん(かざえもん)」という家の長女として生まれ、妹が4人、末っ子に18歳離れた弟がいた。嫁いだ「金塚」で長女(私の母)を産んだが、それから夫の実三郎が戦争に行ったため、次に長男を産んだのは8年後だった。続けて女を3人もうけたが、母が17歳の時、夫の実三郎は出稼ぎ先で倒れ、そのまま亡くなった。つまり母の他、10才にもならない子供が4人残されたのであった。祖母は何度も一家心中しようと考えた。長女の母は高校を中退し、祖母と共に夏は田畑を耕し、冬は東京へ出稼ぎに出た。そして23歳の時に父と結婚し、私が生まれた。祖母はその時、「生きていて良かった」と思ったそうである。祖母にとって私は命を救ってくれた宝だった。拙著『森の遠くで』122ページ参照。

 1月5日、朝、祖母が倒れたという連絡を受けた。とりあえず職場に行って明日休むことにしたが、「危ない」というので昼から休んで母と松代に向かう。母は1ヶ月前に自分の母(つまり祖母)の葬式のための金をおろしていた。まだ健康なのにそんなことをする母を不思議に思っていたが、「予感って当たるもんだね」と言いながら母は準備をしている。夕方病院に着くと、脳梗塞という診断だった。祖母は左半身麻痺で意識障害があり、呼びかけても薄目を開ける程度だ。3日間が山らしい。しかも、叔母さんの実父も肺炎でかなり危ないらしく、ほぼ同時に入院しているのである。つまり叔父さん夫婦は実の親と義理の親の両方を廊下を挟んで往復しながら看ている状態なのだ。叔父さん(祖母の長男)は、「父ちゃ(私の父)のことがあってから、どんなことでも驚かなくなった」と私に言う。母の実家に泊まる。

 1月4日、仕事始めで職場の新年会。新年会なんて早くしたほうがいいということで今日にした。7000円で2時間飲み放題、温泉・送迎付き。チラシを見ただけで予約したのだが、まあ良かった。幹事としては成功だった。瀬波温泉でも結構差があるので、注意する必要があるようだ。

 1月3日、家内は仕事だが、あまりにも天気がいいので、母と子供と胎内スキー場へ行く。今年初めてなのでリフトには乗せられないが、次回はニノックスのナイターを目指して練習する。今年の目標は体重減(肥満度10%、体脂肪20%弱なのだが)、血圧減、山行日数増だ。

 1月2日、村上駅から間島駅まで列車に乗って、能化山に登る。思ったよりも積雪が多く、1時間45分で山頂に着く。風もあり、雪も降るが、日がさすと粟島が良く見える。2時間くらいニューイヤーパーティを楽しんだら、2、3回メールを交わしたことのある村上出身の山田さんが登ってきた。

 1月1日、年越し蕎麦のつもりが、食べずに寝てしまったので年明け蕎麦となる。スキーにでも行こうと思ったが、昨日の酒が残っているし、去年のように子供をお城山へ連れて行くには天気が悪すぎる。ということで、結局今日も酒漬けの一日となる。あーあ。

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