2000年

 1231日、夜は手巻き寿司だった。海苔をちぎっていると、落ちた海苔をすかさず娘が見つけ、口にくわえていた。それから手巻き寿司を食べている間、海苔をねだった。母と家内は「海苔ウンチが大変だ」と言っているが、おれは明日いないもんね。 

 1230日、今世紀最後の晴天となった。村上市内からは鷲ケ巣山、光兎山、朝日連峰がよく見えた。風邪は何とか回復してきたので間に合いそうだが、元旦は天気が悪そうだ。まあ21世紀の元旦なんだから、天気は選べないか。

 12月28日、森邦広さんから2つの論文と谷川岳2000回登頂記念のボールペンが届いた。500回は二人だけで、1000回は大勢の仲間と一緒に登ったが、今年中に2000回登ることを知っていたものの、2000回登山は参加できなかった。

 12月26日、昨日今日と加茂の工場に行ったが、仕事中に耐寒訓練しているようなものだった。屋根はあるものの、吹きさらしで、しかも身体をほとんど動かさない。手はかじかんで、ろくな字を書けない。足の指は冷たい。いつもこの工場で働いている人は強い。

 12月24日、『岳人』1983年4月号「ブッシュウォーキング」のなかで、細貝栄さんのヤブこぎのグレードがあることは知っていたが、誰に訊いてもその内容を知らなかった。今月の『岳人』で初めて見た。自分はまだ3級程度のヤブしかこいでいないわけだ。

 12月23日、家内と子供を神林に置いて、母と新発田に行って、タイヤや蛍光灯(東芝ネオスリム)などを買った。その後新発田城を見ようとしたが、4月から11月までだった。そこで蕗谷虹児記念館だけ見て帰ってきた。

 12月22日、一昨日ロト6を5口買ったら、5等が1口当たっていたので、その1000円でまた5口買った。それにしても今回も4億当たっている人がいるんだなあ。こっちは1000円で喜んでいるのに。

 12月21日、息子が通っている幼稚園のクリスマス会に行く。子供達の歌や劇の後の先生による祝会がおもしろかったが、最後にサンタクロースが出てきて、泣いたのは息子だけだった。サンタクロースよ、眉毛落とすなよ。

 12月20日、先日新潟の渡辺さんから頂いたカタツムリの死殻を村山先生に手渡した。ニ王子岳のものはその場所からエムラマイマイだと思っていたが、オオタキマイマイだった。新潟県初記録らしい。早出川西側におけるエチゴマイマイの発見よりも凄い。

 12月17日、息子が都合悪くなると言う言葉は10月27日に書いてあるのだが、最近は「涙がたくさんでた」と言うようになった。さらに泣き真似をする。今日なんか、スキップしながら泣きまねをしたので、すぐに泣きまねがバレてしまった。

 12月16日、藪山ネットの忘年会が新潟であったので、その前に紀伊国屋で息子へのクリスマスプレゼントにどーもくんグッズを買った。カレンダー、4冊目の絵本『どーもんち』、ぬいぐるみ、コーヒーカップ、コップ・・。子供よりも親が欲しいのか?

 12月14日、テレマークスキーで知り合ったマダムが歯科衛生士だということを初めて知った。もう5年以上の付合いになるのに、いかに逢った時、バカ話しかしていないことである。まあ私がどんな人間であるかはマダムは知っていたと思うけど。

 12月13日、昨日の職場の積雪は5cmだった。今朝家では雨だったが、職場に近づくほど雪になり、積雪は12cmになっていた。寒さにまだ身体が順応していない。十日町での事を残していたが、山野井のホームページを見ると52cmだった。根雪か?。

 12月10日、見附に住んでいる弟家族が野菜を取りに村上に来た。大根、白菜、人参、ブロッコリー、ネギなど車に詰めるだけ持って行った。子供たちは10月のように遊んでいた。

 12月7日、職場の忘年会が泊りで瀬波温泉であった。しかし重なる時には重なるもので、家内の演劇の飲み会も今日で、15時から休暇をとり子供二人を風呂に入れて瀬波温泉に向かった。飲んだ後はトランプをしていた。

 12月2日、以前から気になっていた桃川峠から神林村と関川村の境界を朴坂山まで歩いた。500mに満たない低山の藪こぎだったが、それなりに楽しい半日だった。それにしても新鮮なクマの糞を見つけた時はドキドキした。

 11月26日、庭の5年生のトチノキを10数本掘り起こした。ほとんどが深さ30cmくらいから横に根を広げていた。ところが1本あったオニグルミは直根性らしく、うまく掘り起こせなかった。その後イヌツゲの垣根を冬囲いした。

 11月25日、4月に黒手ノ峰に登った時、歩こうと思っていた牟礼山までのコースを歩く。黒手ノ峰まではゲートから3時間もかからず、牟礼山までも鉈目が明瞭にあり、何の苦労もなく歩けた。カモシカとキテン以外は、誰にも逢わない静かな山行だった。

 11月24日、大和町に行って、小出インター付近にある駒の小屋の管理人である米山さんが経営している喫茶店「ウッディ」に寄る。2度めだが、初めて木掘りの部屋も見せてもらう。写真、木掘り、版画と多芸な米山さんがうらやましい。

 11月23日、息子の幼稚園に父親参観に行く。他の子供に比べて発達の程度があまりに遅れていて涙が出そうになる。家に帰って様子を話すと母は「来年になれば追いつくだろう」と言ったが、他の子供はもっと進んでしまうのだ。

 11月19日、買い物に出かけると、雪が標高500m付近まで下りてきていた。今日は山に行く予定だったが、一昨日息子が40度の熱を出し、中止にした。来週に懸案のルートを歩いてみたいが、天気がよくなるだろうか。

 11月17日、さすがに3年連続晴れというわけにはいかなかった。雨に濡れた明星山南壁を見ながら仕事をした。それにしても岩登りをする人の跡だと思うが、調査地のなかに踏み跡がしっかり付いていた。しかもナタメもあった。そんな藪でもないのに。

 11月14日、下田香津矢著『渓流釣り』(成美堂出版)を買った。何冊も類書を持っているが、非常に幅広く丁寧に書かれている。全てカラーで1200円と安い。渓流釣りだけでなく、登山にも役立つ本だと思う。でも格好には気を使わなくてもいいと思うけど。

 11月10日、遊佐未森さんの『small is beautiful』を買った。先日FMラヂオを聴いていて、「paddle out」が気にいったからだ。以前から未森という名前のシンガーソングライターがいることは知っていたのだが、曲を聴いたのは初めてだった。

 11月9日、山と渓谷社の『生還』を読んだ。山で遭難して救出されるまでの話だが、『死者は還らず』と比較しながら読んだ。山で遭難した場合、それからの行動については知識を持っていたとしても、自分がそのような状況で生き続ける精神力があるだろうか。

 11月7日、やっと山と渓谷社から『新潟県の山』が出た。60コースのうち5コース登っていなかった。学生時代には道がなかった大蔵山、遠いから行けなかった不動山、アプローチが長い小松原湿原・日陰山、百名山の高妻山、焼山の近くの金山。

 11月4日、朝早く光兎山に登り、昼前に家に帰った。飯豊の雪は消えてしまったようだ。下りには30人以上の登山者と逢ったので、朝早く山頂を独り占めできた。午後から家内とふたりの子供と村上市大栗田へ行き、関川村、神林村と回って家に戻った。

 10月31日、3週連続佐渡に渡る。フェリーから雪化粧した飯豊が見えた。解体されてしまった大佐渡ロッヂからは月山がさらに真っ白に見えた。今日はいい天気だが、明日から雨になるようで、今日できるだけやろうと思う。

 10月29日、朝母と息子と3人で三面川の鮭の捕獲を見に行った。それから家族全員で朝日スーパーラインへ行った。開通前も含めて何度も行ったことがあるのだが、鳴海金山や二子島など初めての場所もあった。去年登った重蔵山があざやかに紅葉していた。

 10月28日、息子の幼稚園の作品展を見に行った。息子は当然下手な方だったが、予想していたよりも上手だった。年中組も見たが1年でこんなに上手になるのだろうか。年長組はさらに上手だった。子供の発達は早い。

 10月27日、娘が4、5歩、歩くようになった。息子は都合が悪くなると、「熱がでた」、「咳がでた」、「涙がでた」、「歯が痛い」、「迷子になる」と言っている。「迷子になる」なんて、どこで覚えたのだろう。

 10月25日、また佐渡に渡る。雨のなかでスギ若齢林の刈り払いを行う。ノイバラの棘で新品の雨具が引き裂けそうになる。明日ヤマビルがいる場所に行かなくてはならない。雨があがってくれることを祈る。

 10月22日、三角池から尾根に取り付く。1400m峰までマーカーを付けて登るが、その後はほとんど必要ない。県境の1446mからは、1時間40分で化穴山に着いた。化穴山は朝日連峰北部の隠れた名峰と言えるだろう。

 10月21日、4人で朝日連峰北部の化穴山に登ろうと大鳥池に泊る。一緒に登った職場の同僚がナメコ、ナラタケ、クリタケ、エノキタケなど約10種類のキノコを採ってくれたので、夜はキノコ汁で腹いっぱいになる。

 10月18日、佐渡に渡った。ジェットフォイルが運休になるほど波があったが、カーフェリーは運行していた。自分にとっては、わずかな波であったが、トイレで嘔吐している人がいた。こんな波で酔ってしまう人は大変だ。

 10月16日、娘の1歳の誕生日。1週間前の家内の誕生日にプレゼントした花が、2日後の母の誕生日、そして今日まで枯れないでいたが、新たに赤いバラを1本買ってきた。しかしわけのわからない娘はバラの花を持とうとしなかった。

 10月15日、神林の両親を呼んで、娘の1歳の誕生日を祝った。「今日は誰の誕生日?」と訊くと、息子は「きーちゃんの誕生日」と言いながら、ケーキのロウソクの炎を自分で消していた。

 10月14日、母と松代に米を取りに行ってきた。これじゃ一芸に秀でた者は、その世界しか知らないみたいだ。全ての人がそういうわけじゃないはずだけど、そう思われてしまうのが世間だ。まわりからすれば未熟なんていう言葉より、バカという言葉が適切だ。

 10月13日、何とか会議が早く終わり、順調に村上に帰ることができた。これが少しでも遅れていたら、八高線小川町駅で1時間半も待っていなければならなかった。高崎駅でだるま弁当を土産に買った。

 10月9日、母、弟、弟の長男の4人で野潟に行って小アジを215匹釣った。コマセが無くなるとサンドイッチのパンを餌にし、それも無くなると捨ててあったコマセを拾い集めて、また釣った。母はタコを採っていた人から、3匹タコをもらっていた。

 10月8日、弟家族が泊りに来て、昼は庭で焼肉をし、昼間から酔っ払った。弟の子供2人と我が家の子供2人が一緒になると、2+2=4ではなくなる。弟の長男が長岡弁をしゃべるのに笑ってしまう。

 10月7日、母と朝、野潟に行き、小アジを144匹釣ってきた。あまりに小さすぎて、から揚げにしても、皮と骨だけのようなアジだった。3分の1をから揚げにしたが、居酒屋で「小魚のから揚げ500円」というところだろうか。

 10月5日、斎藤新一郎さんの『木と動物の森づくり』を買った。北海道の同業者だった人が、こういう本を出すと嬉しくなる。何かひとつのテーマを決め、仕事に取り組んできた結果だろう。

 10月3日、小千谷市の桜峰直下で仕事があり、林道脇に登山道を確認したので、登ってみた。わずか1分の山頂だった。あいにく雨とガスで、集落が見えただけだった。

 10月1日、明日から奥三面ダムに試験的に水がためられるというので、これが最期と三面の遺跡を見に行った。川原でお昼を食べて、スーパーラインを県境まで行くつもりだったが、娘の替えのオムツを忘れたので、そのまま帰った。

 9月30日、菊谷さんと泥又川に行く。昨日から入っていた新潟の人がいたが、彼らは帰るだけであり、大明神滝まで釣り登った。釣ったイワナを刺身にしようと思ったが、醤油だと思って持ってきたものはソースだった。しかたなく焼いて食べた。

 9月24日、高橋尚子さん、金メダルおめでとう。昨日運動会を終えたばかりの息子は、ゴールの映像がテレビに映し出される度に、縄跳びをテープがわりにしてゴールの真似をしていた。ユキワリソウの植え替えをする。

 9月23日、葬儀と告別式。倒れた9月2日に買った山木康世さんのCD『静かに水の流れが岸をけずる』の最初の曲には、「どうして君はいなくなるときに別れの言葉を言わなかったのだろう。もう二度と会えないというのに」とコメントがあった。

 9月22日、通夜に行った。「人生は長く生きたから幸せ、短かったから不幸せということではなく、いかに生きたかが問題だ」と住職は話された。また「人生には上り坂と下り坂ともうひとつ坂がある。それが死という『まさか』である」とも言った。

 9月21日、何故、どうして。一昨年日本百名山を完登して、「この身体を頂いた両親に感謝したい」と言っていたのに。早過ぎるよ。真面目過ぎるその性格が、好きだったのに。何故、どうして。

 9月16日、7時過ぎに家族で山形県小国町の温身平に行った。『森林科学』に必要な写真を撮るためだったが、なかなかいい場所がなかった。娘はトチの実をにぎりしめていた。昼過ぎに家に帰って、オリンピックのメダルラッシュを見た。

 9月15日、母とふたりで東京の伯父の見舞いに行った。母にすれば20年ぶりくらいの東京であった。本の運送をしている千葉の伯父から「岳人」10月号をもらったが、10ページの写真はどう見ても北股岳ではないだろう。

 9月13日、家に帰ったら、『山の本』33巻が届いていた。ハガキだよりが載ったのである。6月上旬に石黒山で遭難した登山者の救出にアマチュア無線が役立ったことを書けば絶対載ると思っていたが、まんまとまた1冊いただいた。

 9月10日、朝から雨で出かけることができず、午前中を家で過ごす。午後から買い物で、釣具屋に寄ってハゼ釣りの仕掛けを買ってきた。しかし子供がいる前では仕掛けを作ることができず、とりあえず仕掛けの箱の中に入れた。

 9月9日、午前に母と息子と三面川河口へハゼ釣りを見に行くと50台くらいの車が停まっていた。夕方になって野潟に釣りに行ったが、サヨリ3匹、シマダイ1匹、メジナ1匹(全て小さい)、フグ多数しか釣れなく、スーパーでサンマを買った。

 9月5日、ここ2、3日ですっかり涼しくなったが、職場の残暑払い、研修に行っていた人と野球大会の慰労会、ならびに新しい職場に行く人の壮行会を胎内ビール園で行う。2時間だったが、腹いっぱいで酔っ払った。

 9月4日、小雨のなか、瀬波祭りに行く。息子はいつものようにスーパーボールすくいをする。家に帰ってお風呂に入って、すくってきたスーパーボールを風呂に入れて、また遊ぶ。夕ご飯に買ってきたぽっぽ焼きを食べる。

 9月3日、久しぶりのいい雨。連続真夏日もストップした。村上駅前の道路は5cmくらいの水がたまっていたが、我が町内には調整池があり道路の水を集めて、50cmくらい水がたまっていた。この雨で夏が終わったのだろうか。

 9月2日、大学の先生の教授昇進祝いで集まる前に、岩波新書の『山の自然学』とCD『静かに水の流れが岸をけずる』を買った。ふきのとう解散後、山木康世さんがどんなことをしているのか知らなかったが、相変わらずの音楽に感動する。

 8月31日、4日前から娘の高熱が続いている。医者は「突発性湿疹らしい」というが、今日の朝になってやっと熱が下がり始め、顔や腕に湿疹が出てきた。息子の時も丁度10箇月くらいの時だったと思う。また裸にして写真を撮ってやろう。

 8月30日、10年ぶりくらいに栃尾市の杜々の森に行ったが、様子がすっかり変っていて記憶がしばらく甦らなかった。売店や施設が建ち、すごく整備されていた。ポリタンクを持って水を汲みに来る人も多く、休日なら順番待ちになるのだろう。

 8月29日、飯豊山周辺森林生態系保護地域の解説の〆切が1箇月後に迫ってきたので、仕事中に堂々とインターネットで飯豊連峰の情報を集める。本そのままのものもあったが、夏に石転び沢で自然落石があり負傷者が出たという情報は生生しかった。

 8月27日、午前は息子と神林のプールに行く。午後から夏祭り会場の後片付け。その後反省会と称し、また飲み会。2日間アルコール漬けになる。5回くらい夏祭りのために打ち合わせをしたが、とにかく晴れて良かった。

 8月26日、町内の夏祭り。朝から準備だったが、職場の野球大会があり、終了後参加した。町内の役員をしているので、開始から終了までチケット売り。町内の人達に顔を覚えられたが、こちらはとても覚え切れなかった。

 8月24日、伯母さんが村上に来たので、付近を案内する。笹川流れを北上し、朝日村から村上市に戻った。息子は日本玩具館で見つけた「ダルマ落とし」で、家に帰ってから夢中に遊んでいたが、途中からダルマをピングーのぬいぐるみに替えていた。

 8月19日、娘が膝で這うのではなく、足の裏だけで這うようになってきた。そして息子のそばに行くが、息子はすぐに逃げる。さらに物につかまり立ちをし、得意げな顔をしている。でも俺の脛毛をつかんで立つだけは、やめてくれ!

 8月17日、息子と神林のプールに行こうとするが、浮き輪がない。13日にプールに行った時に置き忘れてきたようだ。10時過ぎにプールに行くとちゃんと浮き輪が管理人室に置いてあった。なぜか息子が最初の消毒の水槽に夢中になる。

 8月16日、朝親戚の関谷幸一郎さんの家に寄る。今日の新潟日報に出ていたらしいが、「昨日は300人来た」と言う。お茶をごちそうになり、まつだい駅周辺の芸術を見て、家に帰り、村上に戻る。

 8月15日、9時近くなって弟が来て、墓参りに行く。その後、息子が「山に行く」と言うので、大地の芸術祭を見ながら、松代城山まで登る。「棚を守る竜神の御座」はそれなりにわかったが、それ以外は?

 8月14日、午前中、仕事に行く。ところがその後の段取りがうまく行かず、村上を出発したのは14時。長岡市の無線屋とアウトドアショップに寄ると、娘が泣き出し、小千谷の山本山公園でミルクを飲ませ、松代に着いたのは19時。

 8月12日、17時を過ぎてから海へ行く。ところが波が少し高く、泳いでいる人がほとんどいない。息子が「泳ぐ」と言うので、1mくらいのところで遊んでいた。息子が海で「ピザを食べたい」と言うので、夕ご飯はピザになった。

 8月10日、村上無線局の飲み会があった。無線で集まった相変わらず仲間なのに、山、渓流釣り、パソコンの話に終始した。21時から次第に人が少なくなり、家に帰ったのは午前様寸前だった。でもこうしてパソコンをいじっている。

 8月9日、「もしかしたら」と1階の電話のモジュラージャックを切ったら、12通全てのメールを簡単に受信することができた。これはISDNにしろということなのか。せこいぞNTT。でもせこいのは、ISDNにしない自分の方か。

 8月8日、何とか接続ができたようだが、2、30回でやっとつながるようだ。メールも4通目が重くて、そこでストップしてしまい、その先を読むことができない。ソフトを変えれば、読めるようだが、変えると接続できない。

 8月7日、OCNの料金プランを変更したが、なかなか接続がうまくいかない。送られてきたとおりにやっているのだが、おかしい。何度かネームサーバーのIPアドレスを以前の数字にして、やっとつながった。でも遅すぎる。

 8月6日、結局原稿の依頼を引き受けることなり、梶川尾根を歩いて門内岳に登り、丸森尾根を下った。扇ノ地紙周辺でピドニアの写真を撮り、地神山から少し下ったところで、イイデリンドウの写真を撮った。今夏にもう一度くらいは登りたい。

 8月5日、朝日村の古代展を観に行ったが、右側半分は無駄だった。左側半分の三面遺跡だけにして、300円にするべきだろう。これじゃ1200円も出して遠くから来た人に申し訳ない。午後から神林村のプールに行ったが、200円で何倍も楽しめた。

 8月3日、能生町の島道鉱泉に泊った。9年ぶりだった。9年前に泊った部屋と違うので、翌朝教えてもらった階段を登り、以前泊った部屋を見てみた。風呂は変わらなかったが、階段を登った正面に石像があるなんて、全く記憶がなかった。

 8月1日、OCNの料金プランを通話料込みで3時間に変更した。これでますますメールの送受信と自分のホームページのアップロードに終始してしまうのかもしれない。つまり人のホームページを見る機会が少なくなってしまうということだ。

 7月31日、『森林科学』の編集者から、シリーズとなっている「森林生態系保護地域」の「飯豊山周辺」の解説を書いてほしいと電話があった。私よりも適任がいるはずなのだが、これを口実に山へ行くことができるかもしれないと考えてしまう。

 7月30日、朝日村高根のヒマワリ畑を見に行くが、去年と同じ場所であり成長が悪く、しかも草ぼうぼうで看板倒れと言うかポスター倒れだった。17時を過ぎてから海に泳ぎに行く。息子は「もっと泳ぐ」と言って、なかなか帰ろうとしなかった。

 7月29日、松代へ母を迎えに行く。黒崎パーキングエリアのモスバーガーに寄ると「乳製品の販売自粛」でチーズバーガーが売られていなかった。夕べの集いで棒立ちで踊らなかった息子は、映したビデオを見ながら踊っている。

 7月26日、幼稚園で夕べの集いがあって家族で見に行く。20分前に行くと、既に場所はほとんど埋まっていた。予想はしていたが、息子は先生の一番そばに並び、踊りでもほとんど踊っていなかった。それでもなんとかしている様子がわかり安心した。

 7月24日、職場の同僚が20日から23日まで飯豊本山、御西岳周辺に入っていた。21日は御西岳にテントを張ったのだが、小屋に収容できなかった人たちが20人くらい雨のなか、雨具のまま外で夜を過ごしたらしい。小屋になんか泊らなきゃいいのに。

 7月23日、火葬、葬式、御斎をすませ、村上に戻る。おじいちゃんには分家である芳屋は大変お世話になった。好きなゲートボールの最中に倒れて救急車の中で、おばあちゃんに見とめられて亡くなったのだから、ある意味で幸せに生涯を終えたのかも。

 7月22日、納棺に間に合うよう松代に帰る。松代では、仕事中で連絡がとれなくて、昨日来られなかったことになっていたらしい。大地の芸術祭が始まったが、家一軒を網で囲ったものは一体何を表現したかったのだろうか。蚊が入らないようにするため?

 7月21日、休暇をとり単独で胎内尾根を登り、足の松尾根を下る。車に乗り胎内スキー場付近で家に電話すると、本家のおじいちゃんが亡くなり、母はひとりで松代の実家に帰ったと家内は言う。頼母木小屋に泊らず、急いで下りてきて良かった。

 7月20日、海の日。3時に起き、母とふたりで朝4時から5時まで村上市の野潟の海岸に行き、小アジ17匹、小サバ52匹を釣った。アジはともかく、小サバはどう料理しようもなく、から揚げにした後マリネになった。

 7月18日、信州大学医学部の小林先生から高地肺水腫に関する3つの文献が届いた。「高地肺水腫は、2700m以上の高地に登高した際に発症する透過性亢進型肺水腫である」最近ニュースでも話題の肺水腫とどこが違うのだろうか。

 7月16日、母とふたりで見附市の弟の家に行き、栃尾の油揚げをもらってきた。家に戻れば、粟島の後藤さんからサザエが届いており、油揚げとサザエを近所の無線局に持っていったら寒梅をもらった。我が家には、寒梅、八海山、雪中梅がそろった。

 7月15日、浦和浪漫山岳会の月報が送られてきた。山菜料理のコシアブラご飯はぜひ来春食してみたい。息子が生れて以来の長い髪の毛を初めて床屋に行って短くしてきた。母は「宏、宏」と泣いて笑っていた。確かに私の子供の頃にそっくりだった。

 7月11日、幼稚園だよりに「子供が160cmくらいの草花で遊んでいる」とあったので、「ヨウシュヤマゴボウという毒植物かもしれない」と連絡帳に書いたら、「1種類だけ亢わからない植物があった」と袋に入れられてきた。まさしくそれであった。

 7月10日、職場の2階をマイマイカブリが歩いていた。マヤサンコブハズカミキリが歩いていることは時々あるが、こいつは原因がわかり、しかも職場はコブヤハズカミキリのエリアなので、すぐに毒ビン行きとなるのだが、マイマイカブリが何故2階に?

 7月9日、山形県小国町の娘の安産を祈願した神社にお礼に行った。ところが神主さんが祝詞をあげている間中、娘は大声を出していた。そのくせお払いの時に頭の上で鈴が鳴ると静かにしていた。息子も落ち着きがなかったのは言うまでもない。

 7月8日、10日に息子が朝日村のきれい館に行くというので、家内と息子と下見に行ってみた。ところがウォータースライダーが滑らない水着で、後ろから人がぶつかって来ないかと心配で、20年ぶりの25mクロールより疲れた。

 7月7日、朝日村のウグイス沢に行くが釣れるのもバラスのも20cm以下で、本流に戻り24cmと27cmのイワナを釣ってお昼過ぎに家に帰る。今日は村上大祭なので、夕ご飯を食べてから、家族でおしゃぎりを見に行く。

 7月4日、息子が先生から「箸を持って遊んではいけません」と言われたらしいのだが、息子には釣りのマネだったようだ。家に帰って息子が「ウンチー」と言ったのでトイレに連れて行くと、「いち、にー、しっこ、ぶー、さん」と言って用を終えた。

 7月3日、森邦広さんから手紙と論文の別刷が送られてきた。手紙には「2000年のうちに、谷川岳2000回を達成したい」と書いてあった。森さんとは500回は2人だけで、1000回は仲間たち大勢と登っている。また一緒に登ろうか。

 7月1日、18時を過ぎて息子を釣れて村上市野潟に行き、19時過ぎまでの間に35匹の小アジを釣る。最初は釣れるたびに歓声をあげていた息子であったが、あきてしまったのか「げんこつやまのたぬきさん」を歌って踊っていた。

 6月30日、いわふねクラブの飲み会があり、話題の中心は当然石黒山の遭難救助に携わった横山さんだった。また仲間から荒川流域の立体地図をもらった。北は朝日、南は飯豊のこの地図は、山好きにはぜひ手に入れたい物になるだろう。

 6月29日、糸魚川市小滝のヒスイ峡展望台の下は面白い。さすがにムラヤママイマイは見つけられないが、ヒタチマイマイとクロイワマイマイは常に見ることができる。今日もクロイワマイマイが軟体部を出していた。

 6月28日、「今ごろ羽田さんは何も悩むことなく袖朝日岳でビバークしています」とこりないめんめんにメールを送ったら、「俺はあの時今度どこの山に行こうか悩んでいた」と羽田さんからメールが来た。贅沢な悩みである。

 6月25日、17時半を過ぎてから息子と村上市野潟の海岸に行く。フグ、ウグイしか釣れなかったが、19時を過ぎて隣のおじさんの「アジが来ましたよ」という合図で1分の間に4匹が釣れた。しかしすぐに釣れなくなったので、19時半に家に帰る。

 6月24日、起きてすぐに村上市の大川に行ってヤマメを1匹釣って7時に家に戻る。新潟日報を見たら、村山先生の話を元にムラヤママイマイをはじめとるすカタツムリの話が出ていた。これで一般の人にもカタツムリのことを深く知ってもらえそうだ。

 6月21日、朝日村薦川集落に行ったら、わずか10分のうちにヤマビルを4匹発見。さらに奥に行ったらサルの集団に逢った。うーん恐ろしい朝日村の薦川集落。イワナもたくさんいるらしが、とても私には入れない。

 6月20日、息子が幼稚園の様子が映っているいるビデオを借りてきた。どろんこ遊びをしている子供達のなかには息子はいなかった。どこにいるのだろうと見ていたら、突然真っ裸の子供がひとり登場した。

 6月19日、新潟日報の一面に昨日の浅草岳での雪崩事故が大きく出ていた。しかし「現場付近は良質なゼンマイが採れる山菜の宝庫」などと書いては、来年どころか来週からも山菜採りが入ることになるだろう。

 6月18日、午前9時から諸上寺山で先日の遭難者のひとりと話をする。10時になると新発田クラブが移動運用の準備をはじめた。準備の様子を見て、いわふねクラブを呼ぶと佐藤さんが出て、遭難記事を取り上げた村上新聞を持ってきてくれた。

 6月17日、浦和浪漫山岳会の月報181号が届いた。相変わらずすごいなあと思いながらも、池田知沙子さんを失ったためだろうか浪漫の現状が不安である。昨日から異常に気づいた右目の結膜炎が左目に半分うつってしまった。

 6月15日、信州大学医学部の小林先生から、「血が欲しいので協力してほしい」という電話があった。新潟日報の投書欄には「美人林よ永遠に」という言葉があったが、美人林は永遠ではないのである。

 6月14日、坂本俊亮さんの『知らぜらる最上の山々』を買った。「凄いといった記録も、要は出発するか否かであって、やってしまえばたいしたことはない、と言うことになるのかも知れない」これもまたそのとおりと思った。

 6月13日、池田清彦さんの『昆虫のパンセ』を読んだ。「ウラナミシジミの北上行動は、自然選択の結果獲得されたものではなく、ウラナミシジミという種に内在する構造として無根拠に定立したに違いない」ひとり電車のなかで拍手した。

 6月11日、岩船港に釣りに行っていたら、石黒山で遭難者がいるという連絡が入った。いわふねクラブの常置場所しか遭難者と無線連絡ができず、警察、消防、横山さんと救出されるまで午前中を過ごす。でもヘリが飛べる天候になって良かった。

 6月9日、風呂からあがったら息子がパジャマのズボンを前後ろに履いていたので、履き替えさせようとしたらパンツも前後ろに履いていた。履き返そうとした気力がなくなってしまい、ビールを飲んだ。

 6月7日、加茂市に行き、新潟日報に1年間「森林からのメッセージ」を連載した長谷川昭一さんと一緒に仕事をした。0.1haスギ林には、約70種の植物があった。スギ林は暗くて植物が少ないわけじゃない。むしろブナ林よりも多いのだ。

 6月6日、「渓流2000夏」を買った。「山と渓谷6月号」といい、高桑信一さんの池田知沙子さん追悼の山旅はいつまで続くのだろうか。でもそんな関係があった人がいることが羨ましい。

 6月5日、息子が夜中に38度を越える熱を出したので、幼稚園を休ませた。午後病院を予約していたが、熱が下がりキャンセルしたので、野球の試合に出られると思ってユニフォームを取りに家に戻ったら、また熱が出たので結局野球は出られなかった。

 6月4日、親戚を送り出してから、母とふたりで大島村の菖蒲牧場に行った。大滝の下はまだ雪で被われていた。いわふねクラブが神林村要害山で移動運用しているのを聞きながら、村上に戻ってきた。

 6月3日、国道工事にともなう墓の移転で、父の兄弟が集まり、開眼を行った。5年前に一度行ったこともあり、最も近い親戚だけで行った。松代に行く途中無線をしていると、無線仲間が3人越後駒ケ岳に登っていた。

 5月30日、仕事が終わってから息子を連れて畑に行き、カブ、ホウレンソウ、イチゴを採ってきた。風呂に入っていると、無線仲間の阿部さんが岩船港で釣ってきたというアジを9匹持ってきたという。3匹開いて、6匹は刺身にして食べた。

 5月29日、2泊3日の実家帰りの最後に松代城山に登った。久しぶりに城山に登り、松代を背景に記念写真を撮った。自分が生れ育った松代の地を家内と子供達にも見せたかったし、写真に残したかったからである。

 5月28日、家内、子供、母を連れて、松之山町の美人林と大厳寺高原に行く。美人林は相変わらず観光客が多かった。大厳寺高原でフキノトウを採ろうと思っていた母は「みんな採られている」と言っていた。恐るべし他県からの観光客。

 5月27日、家内と子供2人を連れて松代に帰った。黒崎パーキングエリア内のモスバーガーでお昼を食べていたら、缶ビール、日本酒を持参していたおじさんが8人で4つのテーブルを占領し、いなりずしをつまんでいた。恐るべし酔っ払いおじさん。

 5月26日、入広瀬村のある蕎麦屋に入ったら、「むじなそばうどん」というメニューがあった。「むじな」はこの辺りでタヌキやアナグマのことをいうのだが、「たぬき」も「きつね」も並んでいたメニューにあった。さて「むじなそばうどん」とは。

 5月25日、家内に「CDを借りてきて」と言われたので、切れていたレンタル店の会員になった。ちょうどキャンペーン中で、無料だった。職場の同僚は「プッチベスト」を借りていたが、私が借りたのは「おかあさんといっしょのベスト」だった。

 5月23日、豊栄市の道の駅でソフトクリームを食べていたら、スズメが関東地方の山で出会ったシジュウカラと同じように近寄ってくる。すぐに餌をねだっているとわかってしまった。新潟のスズメも人擦れしてしまったのかと驚く。

 5月22日、息子の幼稚園で給食の試食会があり、家内が出かけた。試食会の途中インターホンがなったが、誰が押したのかわからないと言って先生が戻ってきた。ところが家内が帰りに先生から「息子君のいたずらでした」と言われたようだ。

 5月21日、町内会の草刈のあと、広場でバーベキュー。朝の雨が嘘のようにさわやかな天候になった。娘を連れて行ったら、4箇月くらいの赤ちゃんを見て笑っていた。おまえも赤ちゃんなんだよ。

 5月20日、山北町のハゲタ山に登った。中津原駐車場から古い地形図に印されている道を辿って、ちょっとだけ藪をこぐつもりが、1時間30分近い藪こぎになってしまった。下りは40分だったが、背中がドクガにやられた。

 5月15日、職場のタケノコを一ノ瀬さんの家に届けて帰ってくると、白山書房から「山の本第32巻」の校正原稿が送られてきていた。これで5回目の掲載になるが、さすがに2巻続けてだと執筆者紹介の依頼はなかった。

 5月14日、母を連れて松代に帰る。村上に戻ってきて娘の散歩から戻ってくると、一ノ瀬さんが大平山の沢でウルイ(オオバギボウシ)をたくさん採ってきたようだ。ヤマビルはついていないようだったが、クロイワマイマイの幼貝がついていた。

 5月13日、庭のナナカマドが咲き始めた。ウラジロヨウラクはいくつか花芽をつけたが、トチノキやナナカマドの葉の下になって、まるで見えなくなってしまった。ヤグルマソウは地下茎で増えるようで、年々広がっている。

 5月10日、中条町の海岸マツ林に行くと若いカップルがワラビをたくさん採っていた。道路は少しでも駐車帯があるとゴミだらけになっている。公園を造るのはいいが、何とかならないものか。

 5月7日、ゴールデンウィークにどこにも出かけられなかったので、子供を連れて海へ行った。いつも行く海岸は人がいっぱいで、ヤドカリや巻貝はほとんど採られていなかった。釣りをしている人は、釣れないのか網でナマコを採っていた。

 5月6日、村上無線局の飲み会。子供の風邪が完治していないので、家内に「21時までに帰ってきて」と言われた。走って21時1分前に家に帰ると、「お父さんが約束守るとは思わなかったわ」と言われた。

 5月3日、義母に来て子供を見てもらっている間に、家内と二人して休日診療所に行った。息子の嘔吐下痢症から母、娘と風邪になったが、とうとう家族全員がダウンしてしまった。連休だからよかったか……。

 5月2日、仕事を終え家に戻ってくると、家内が「具合が悪い」と言う。そこで初めて娘を風呂に入れ、続いて息子も風呂に入れ、ご飯を食べた。ところが自分も具合が悪いようで、熱を測ったら、38.0度だった。

 4月30日、母と一緒に松代に帰る。田にはまだ雪が残り、フキノトウが食べ頃だった。ブナの芽も開き始め、松代にも遅い春が来たようだった。約5箇月ぶりに家の空気を入れ替えた。故郷の人達が暖かく母を迎えてくれた。

 4月27日、嘔吐下痢症で1週間幼稚園を休んでいた息子が幼稚園に行った。母が「1週間分給食を食べて来い」と言ったら(息子は話せないので理解していない)、おかわりして食べたらしい。先生は「食べさせていない子供」みたいねと言っていたようだ。

 4月26日、息子を私の部屋で遊ばせていたら、「コン、コン」という音がした。どこからか見つけたスーパーボールで遊んでいるのだなと思ったら、マウスのボールだった。「おまえ、どうやって取り出したんだ」

 4月25日、入広瀬村に行く。R252の新入広瀬橋で太郎助山、百字ケ岳、桧岳が見え、電線が写らない場所で写真を撮った。大白川のいつも仕事をしている場所に行くと毛猛山、太郎助山、桧岳が見えた。なんだ、いつもあの風景は見ていたんじゃないか。

 4月23日、山での携帯電話でだいたいわかっていたのだが、息子が嘔吐下痢症(風邪の一種)になり、山に登っていた2日間病院で点滴を受けていたという。しかし今日は元気で外に連れていけというが、幼稚園はしばらく休みだろう。

 4月22日、雨が止んだので、9時過ぎに下山開始。足沢山まで皆川さんに迎えに来てもらう。帰りに駒の小屋の管理人・米山さんの喫茶店に寄り、諸上寺山では「いわふねクラブ」が移動運用をしていたので、差し入れをして家に帰る。

 4月21日、当初百字ケ岳付近にテントを張り、毛猛山を往復、翌日桧岳を往復して下山するつもりだったが、翌日の天気が悪そうなので、太郎助山に荷物を置き、毛猛山を往復した。フェーン現象で空気が澄んでいてまわりの山がよく見えた。

 4月20日、夜中に息子が熱を出した。朝再び測ったら微熱程度だったが、幼稚園を休ませることにした。子供なりにかなりストレスがたまっているのだろう。幼稚園も無理に行かせることなく、ゆっくりと慣れていけばいいと思う。

 4月18日、吉川栄一さんから『おーい竿山』が届く。92ページの写真は吉川栄一さんと高橋辰己さんの区別がつかない。でもこの本は高桑信一さんの文章を読む限り、『みんなちさこの思うがままさ』と一緒に読むべきだ。もちろん『山釣りの旅』もね。

 4月17日、新潟日報事業社の『新潟花の山旅』を買った。若干山が増えたり、違ったコースを紹介しているが、また似たような内容のガイドである。写真が無かったのだと思うが、「花の山旅」に冬山の写真があるのはいかがかと思う。

 4月16日、息子は電車が好きなので、息子を連れて新発田まで電車に乗って公園で遊んできた。車掌が「乗車券をお持ちでない方はいらっしゃいませんか?」と言ったあと、しばらくして息子が「はーい」と手を上げた。おまえは必要ないんだよ。

 4月15日、朝飯前に母と二人でオオミスミソウを探しに行く。しかしオオミスミソウは見つけることができなかったが、イワウチワの大群落、シュンランなどの花がたくさんあった。今日も泣きながらバスに乗った息子を見送った。

 4月13日、何があったのかわからないが、幼稚園で泣いたそうだ。それで10時半から12時半まで寝て、初めての給食を全部食べて帰ってきた。それじゃまるで寝て食べてきただけじゃないか。

 4月12日、幼稚園の先生の家庭訪問があった。息子は晴れていようが雨だろうが、幼稚園でバスから下りたら、まず滑り台に向かって走って行くようだ。椅子にも座らず、専ら高い場所に上がる手段か、高い物を取ることにしか使っていないようだ。

 4月11日、今日も泣かないで幼稚園に行ってきた。「幼稚園で何してきたの?」と訊いても、滑り台で遊んできたという格好をするだけ。今日は雨なので、外の滑り台で遊んでいるはずないんだけど……。幼稚園で何をしているのか、見てみたい。

 4月10日、息子がひとりで幼稚園に行った。バスのなかで泣き叫ぶことを予想していたが、わけもわからなくバスに乗せられ、わけもわからなく幼稚園で遊び、わけもわからなく帰ってきたようだ。喜んでいいのか悪いのか……。

 4月9日、昨日の入園式出席と引き換えに、登山の許可がでたので、黒手ノ峰に登った。一昨年の12月は金俣集落から500mピークまで、去年の4月は大石ダムから630mピークまで、そして3度目にしてやっと山頂に立てた。

 4月8日、息子の入園式に行く。返事だけはできたが、もちろん他は何もできない。午後は二人の母と息子を連れて、山北町のゆり花温泉に行く。夜は町内会の役員会。今年から庶務になったのだ。休みの日くらい本当に休ませてほしいと思う。

 4月7日、先日の山行であまりにも体力がなくなっていることを知り、久しぶりに昼休みにいつもの5.5kmを走った。水田脇に咲いていたハコベの他、オオイヌノフグリ、タネツケバナが春になったことを知らせていた。

 4月4日、パソコンに少し慣れてくると、パソコンで何でも簡単にできると思ってしまう人がいるらしい。いろいろなことを楽にしているパソコンだが、こういう人がいると余計に時間がかかってしまう。

 4月2日、三額山〜新保岳を歩いた。これで蒲萄山塊(下渡山〜城山)を全部縦走したことになったが、天気もよく誰にも逢わなかった。「有名でなくてもいい山はたくさんあるのにねぇ」と山頂でいつもと同じ会話をした。

 4月1日、母がフキノトウを採りに行きたいと言うので、去年と同じ神林村南大平のキャンプ場方面に向かう。去年よりもかならい遅いのだが、田んぼには雪がまだかなりあった。それでも母はなんとか袋一杯採って満足そうだった。

 3月31日、昨日娘が風呂あがりに初めて寝返りをした。急いで3枚くらい写真を撮ったが、カメラにフィルムが入っていなかった。そしたら今日も風呂あがりに寝返りをしたので、今度はフィルムの入っているカメラで写真を撮った。

 3月28日、曇り空だったがとても暑い日で、スギ花粉もピークだろう。こんな日に外仕事は辛い。職場の構内の積雪も目に見えて減った。あと10cmくらいだろうか。山裾も黒々してきた。

 3月24日、日本アマチュア無線連盟から交信カードが送られてきた。しかし2箇月に1回になったにもかかわらず、たったの4枚しか入っていなかった。いかに山に登って無線をしなくなったかがわかる。登っていないわけではないのだが……。

 3月22日、来年度に向けて課内の座席の配置換えを行った。仕事内容、年齢順などいろいろな意見があったが、結局喫煙グループと非喫煙グループと分けることになった。まあ、この職場だからできることか?。

 3月20日、午後から村上市の境川の偵察に行く。境川に入ると釣りを始めようとしている若いカップルがいて追い越させてもらう。二股まで行き、左俣の滝を確認したが、右俣は樹木の崩落が激しかった。当然カップルは釣れずに戻って行った。

 3月19日、スギの花粉がかなり飛んでいる。大池にはハクチョウも2、30羽がいた。村上市は現在数十軒の雛人形の無料公開をしているので、地図を片手に家々を訪ねて歩く観光客が多い。

 3月18日、山に登ろうとみぞれが止んだので、車を降りて道路を歩く。道路終点までくると雪が降り始めた。今の実力と体力ではこのまま山に登っても、縦走することはできないと思い、家に返ってホームページの修正をしていた。

 3月16日、『山の本』31巻に毛無山の文章が載ったので、謝礼として4冊送られてきた。にいがた貝友会の『しぶきつぼ』第21号も送られてきた。それによると去年松平山で発見されたエチゴマイマイは4の色帯を有する初めての個体だという。

 3月15日、職場の構内のマルバマンサクが咲き始めたが、積雪は60cm以上で輪カンジキをはいても10cmもぐる。今年は残雪時期の山行予定を誤らないようにしよう。

 3月13日、2、3日前から北へ帰るハクチョウの群れが多くなってきた。2月下旬に降り続いた雪もしだいに堅くなりつつある。「きづいてみれば もう春なんだなあ 知らなかったよ もう春なんだなあ」(ふきのとう)。ゾンデを買う。

 3月12日、4月から町内会の庶務をすることになったこともあり、9時から12時まで定期総会に出席していた。その間に山や無線の遊び仲間から3人電話が来たそうだ。俺はそんなに暇じゃないんだよ。

 3月11日、浦和浪漫山岳会の月報が届いた。まだ購読費は払っていなかったのだが、池田知沙子さんを偲ぶ会の様子や、池田知沙子さんが好きだったと言うブナ林への集中登山の報告が面白かった。

 3月8日、一昨日のさむ気は、月曜日で会社の建物全体が温まっていなかったことや近年の暖房費節減によるためだけではなかった。どうも風邪をひいたらしい。今日は病院に行く日なので、風邪薬ももらってきた。

 3月7日、津南町結東の積雪は270cmだった。結東周辺のブナはまだ堅い芽のままだったが、117号線沿いのブナは赤い芽を膨らませていた。まだ雪は多いが、春は確実に近づいている。

 3月6日、あまりの良い天気に、スギ花粉が飛び始めた。基本的には1年おきに豊凶の波があるのだが、去年の夏暑かったため、今年はスギ花粉がかなり多いらしい。花粉が多い年だけ症状が出る人間には嫌な年だ。

 3月5日、松本清著『よみがえれ 池塘よ 草原よ』を買った。巻機山の池塘や草原の復元に関するものは以前に『巻機山の自然』(1977)や『よみがえれ!!巻機山の自然』(1994)がある。

 3月4日、新潟で「山と無線の会」があった。誕生日の祝いにもらったお金でゾンデを買おうと思ったが品切れで、チタンボトルを買った。使うか使わないかわからないゾンデより、常に使うチタンボトルの方が良かったかと思う。

 3月3日、母が「一度でいいから蔵王の樹氷が見たい」と言うので、家内の母も誘って蔵王に行った。予想どおり天気が良く、ロープウェイを降りて、地蔵山まで登ってみた。下りはツアーの練習にと、ツアー用の道具で滑った。

 3月2日、村上のアマチュア無線の集まりがあり、午前様になる。クラブ局を開設し、JR0ZAD(いわふねクラブ)を発足した。最初はあまりいいコールサインではないと思ったが、「ザード」と覚えてください。

 3月1日、久しぶりに穏やかな日になった。昨日職場で95cmを記録した積雪が今冬のピークかもしれない。このぶんでは朝日村では平地でも彼岸頃まで積雪が残るだろう。彼岸に予定していた蒲萄山塊完全縦走は何時できるのだろうか……。

 2月27日、「静かな山」の伝道師として知られる石井光造さんからメールがきた。私の日記に石井さんの「白神山地の山々」の「はじめに」についてコメントしたのを見つけたようだ。高桑信一さんからのメールに続く有名人でビックリした。

 2月25日、職場の同僚が家に飲みに来た。肴はウドの味噌炒め、クルミ和え。ゼンマイのカラシ和え、キムチ煮、ニシンとの煮物。ワラビの塩昆布和え。タラノメの天ぷらなど…。季節外れの山菜をたくさん食べた。

 2月24日、妙高高原町杉野沢208cmを掘って帰る予定だったが、そうはいかなかった。家に帰ったら浦和浪漫山岳会の高桑信一さんから、「みんなちさこの思うがままさ」が届いていた。じっくり読むことにしよう。

 2月23日、松之山町天水越242cm、松代町池尻171cm、安塚町安塚68cm、新井市83cm、妙高村関山188cm。あまりの新雪の多さに津南町結東を抜かした。死ぬのは嫌だもんね。天気が続いた日に行こうっと。

 2月22日、守門村大倉237cm、湯沢町浅貝174cm、湯沢町湯沢290cm。新雪が多かったけど、予定どおり終わってホッとした。でも宿に車が登れなくて(本名さんならわかるよね)、湯沢駅の駐車場に車を停めることになってしまった。

 2月19日、のびのびになっていた娘の誕生祝い登山に9人の仲間が集まった。ラッセルも楽しく、宴会も盛り上がった。しかし八ツ橋山頂で手酌でビールを飲む本名正名さんには驚いた。退職はこんなにも人間を自由にするものなのか。

 2月18日、冬型で新潟県の山沿いに雪が降り、湯沢町三俣では腰を越えるラッセルの場所を掘ってみたら307cmだった。先週の土日は白山〜粟ケ岳を複数の山岳会が遊んでいたらしいが、今週は無理だろう。

 2月16日、リンク集を追加したが、自分と面識がある人だけでもホームページを持っている人が10人以上にもなり、ビックリした。しかも山だけでないところがおもしろいと思うのだが、私の友人のホームページも見てください。

 2月15日、入広瀬村大白川では新雪が積もり、250cmだった。頸城と魚沼でこんなに積雪状況が違うとは思っていなかった。来週予定の守門村も掘って行くつもりだったが、新雪が多く車が登りそうもないので、1箇所だけで止めた。

 2月14日、赤倉の積雪が81cmだったので、魚沼も100cm前後だろうと気を抜いて掘っていたら、グリーンピア津南で188cmだった。十日町は100cmなかったが、湯之谷村では150cmだった。おかしい……。

 2月13日、朝日村の岳ノ山に登る。キタゴヨウしかない予想以上のいい山頂で蒲萄山塊や駒ケ岳などの展望を楽しんだ。せっかくもらった時間がもったいないので、天井山までぐるっと歩く。スノーシューの使い方が少しわかったような気がする。

 2月12日、母と息子を連れて、村上市の坪根スキー場へソリ遊びに行く。母と息子が遊んでいる間、明日の練習にとスノーシューを履いて、山頂まで歩いてみる。子供連れの家族が次々と集まり、20人以上になった。

 2月11日、家内の両親を呼んで、息子の誕生祝いをした。食事の前にまずケーキを食べたのだが、息子は皆のケーキからイチゴを取って食べていた。食事のサラダにもイチゴがあり、それも皆から取って食べていた。一足早いイチゴ狩りか。

 2月10日、妙高高原町赤倉(ゴンドラ乗り場付近)の積雪は81cmだった。この2日間の新雪を除けば、わずか60cmだ。ざらめ雪率は約50%だったから寒いのはわかったが、あまりにも少なすぎる。3月中旬には雪が消えてしまうぞ。

 2月9日、息子3歳の誕生日。ところが今日は雛人形が来る日だった。雛人形を組立てる人の邪魔をさんざんしていたらしいが、できあがったらできたで手をあわせて雛人形にお祈りしている息子であった(そうだ)。1週間前の悲しい出来事を知る。

 2月8日、東頸城郡大島村に行く。積雪は67cm。いつもの年よりも1m少ない。それにあちこちの斜面で小さな雪崩が起きていて、まるで彼岸過ぎの風景だった。明日から荒れるって言うけど、もっと降らなきゃ春山の予想がつかないよぉ。

 2月6日、17年前の巻機山〜中ノ岳を縦走した山行のページをアップロードした。イライラ防止のため、「1ページに写真1枚」としている人もいるそうだが、自分では5枚以内、白黒なら+αにしたいと思う。20枚以上のページは止めてくれ。

 2月5日、胎内スキー場へ行く。3年ぶりくらいにポールレッスンをするが、他の人は全てアルペンスキーなので、傾斜がきつい場所は自分のレベルでは無理だった。14時をまわると膝の上が痛くなりはじめ、15時には止めて家に帰った。

 2月3日、去年下田村で3000本を越えるナラが枯れた。しかし投書などでなぜ話題にならないのだろうか。弥彦山でも去年ナラ枯れを確認しているが、角田山で枯れてやっと注目されるのだろうか。今年は角田山で枯れそうな気がするけど。

 1月30日、大阪女子マラソンでシドニー代表に選ばれるには、シモンを破り、東京の山口の記録を抜くことが絶対条件だった。しかし弘山は好記録ながら2位に終わった。弘山と高橋の2人を出せば、シドニーでメダルは確実だと思うのだが……。

 1月29日、「渓流・春号」を買う。このムックの原稿を書くためにインターネットで調べていて私のホームページを見たら、「自分の名前が出てきて死ぬほど驚いた」とメールをくれた浦和浪漫山岳会の高桑信一さんの文章を読んだ。相変わらずうまい。

 1月28日、午後からぶどうスキー場に行った。職場の同僚にテレマークスキーを教えていたら、リフトから小学生に「ガンバレ」と言われた。圧雪した斜面に午前中の雪が30cmくらい積もり、久しぶりにふかふかの雪を楽しんだ。

 1月26日、息子は異常に貝が好きだ。アサリの酒蒸しやシジミの味噌汁などが食卓に並ぶ日には、それだけに夢中になる。アサリの酒蒸しが好きなのは、私が子供の頃、梅酒に使った梅が好きだったのと同じ理由か。ただの酒好き?……。

 1月25日、娘が生まれて100日経ったので赤飯を炊いた。娘の口元に赤飯をつけた写真を撮ろうとすると、すぐに息子がやって来て、その赤飯を取って食べた。テーブルではろくに食べないくせに、何度も娘の口元につけた赤飯を食べていた。

 1月24日、昨年は兎年だったので、「最近ノウサギが減っている」という年賀状が2通来たが、今日の新潟日報では狩猟圧や捕食者が減ってノウサギが増えていると書いてあった。山を歩いている感想では、減りもせず増えもせずと思っているのだが。

 1月23日、家内に土産だと言って、さくらももこ編集長の季刊「富士山」第1号を買ってきた。大きさ厚さともに季刊「山の本」に似ている。それにしてもなぜ「父ヒロシ」なのか。クレヨンしんちゃんの父も「ヒロシ」だったはずである。

 1月22日、家の前に雪が10cm近く積もったので、息子とスキーを履いて遊んだ。息子は転んでばかりいて、毛糸の手袋が濡れて冷たそうだったので、すぐに新しい手袋を買った。でも午後から雪が目に見えて解けてきた。

 1月21日、昨日の職場では2cmくらい雪が積もっていたが、今朝は家の前から白い。群馬県の中山さんから「山ラン管理ソフト」が送られてきた。まだ報告が120山程度なので、これからこのソフトを利用して報告しよっと。

 1月20日、「これまでのスキーツアー」の記録をまとめていたら、最近ツアー回数が激減していることがわかった。結婚してから山にはそこそこ行っているものの、スキーは減っているなと思っていたが、これほどとは……。何とかしなくては。

 1月19日、あんまりいい天気なので職場に行ったら、「休んで山に行けばぁ」と言われた。職場の窓から見える飯豊連峰の上部は真っ白なものの、下の方はいつもの年よりも黒いし、大平山、光兎山、頭布山も黒々して……今夏は水不足になるかなあ。

 1月18日、なんだか暖かくて雨で雪が解けて土砂崩れが発生したり、年末年始はにぎわったスキー場も雪がなくて、閉鎖をするところが出始めた。今年はスキーに行けるのか?暖かくなったら天元台から西吾妻山にでも登ってみようかな。

 1月16日、小千谷市のJG0TEXからフキノトウを採ってきたというメールが来たので、母、息子の3人で海岸線にフキノトウを採りに行く。ネギとかき揚にして食べた。母は「この辺りのフキノトウは雪に圧されてないから、アクが強い」と言う。

 1月15日、息子の1日幼稚園体験。家内は他の子供のと違いを見せられ、愕然として帰ってくる。とくに園長の奥さんから、「息子君が4月から何としてくれるか楽しみだわ」と言われたのが、ショックだったと言う。

 1月10日、「少し早い誕生日祝い」だと、母が「筋肉番付」のストラックアウト(だったかな)のおもちゃを買ってきた。息子はおやつのシュークリームを一口食べただけで、寝るまで数時間、的に向かってボールを投げ続けた。

 1月9日、職場の構内にまだ雪が10cmくらい残っていたので、息子を連れて行き、スキーを履かせてみた。ビデオで洗脳済みで嫌がらず、スキーを履いて歩き出したが、下りは50cmくらいしか滑ることができず、転んで笑っていた。

 1月8日、母を見附市の弟の家まで送って行ったついでに、長岡市の無線機屋へ行った。ところが「店からのカードの転送はもう止めた」と言われた。不況や携帯電話のあおりで無線機屋も苦しいのだろうが、これでこの店に行くことはしばらくないだろう。

 1月7日、上川村で土砂崩れがあり、戸沢川がせき止められた写真が新聞の一面に載った。急斜面の尾根筋にキタゴヨウが生えている写真を見た瞬間、1997年6月に鍋倉山に登った時のことを思い出した。

 1月5日、新聞に釣ったブラックバス再放流禁止に反対する投書が、ある公務員からあった。その理由が「子供に釣った魚を殺させるのか」的なものだったが、バスを放流したことが悪いことだということを子供に教えてあげるのが大人ではないだろうか。

 1月4日、仕事始め。1日に気象観測装置が2000年問題で異常がないことを確認済みであったが、隣の課のパソコンでは「99が100になっていた」らしい。99に2000を足して、「対応済み」と言っていた所と同じレベルか。

 1月2日、この日は1年で唯一山に登れる日なので、村上市の鍋倉山に登った。くされ雪と倒木で思ったより時間がかかってしまったが、山頂の社に家内安全を祈願した。ほころびかけていたマルバマンサクもあった。

 1月1日、あけましておめでとうございます。例年どおり寝て年を越したので、何が起きたのか起こらなかったのか全くわかりません。明るくなったら職場に行って、午後からは買い物の予定。明日はどこに登ろうかな。

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