石黒山の遭難について
以下の文章は2000年6月に新潟県朝日村石黒山に発生した遭難者の救出にかかわったひとりとして感じたままを書いたものです。なおこの文章は新しい情報が入る度に更新されています。注意してください。
ちょうど岩船港の堤防を歩いている時だった。家内からの電話で石黒山で遭難があったらしく、神林村の横山さんから電話がきたというのである。そこで横山さんに電話をすると石黒山からの下りの雪渓で迷ったらしく、無線で連絡しあっていると言う。この時期には山頂付近にはもう雪は残っていないはずであり、恐らく石黒沢上部の雪渓で道を失ったのだろう。遭難者は3時間も下っているらしいし、石黒沢は大きな滝もないはずなので、すぐにでもスーパーラインに下りられる場所にいるはずである。警察の人も横山さんの家に来ているようで、私が行っても特別役にたつわけでもないと思った。
今日は母とアジ釣りに岩船港に来たのだった。3時半に一度目を覚ましたのだが小雨模様で、再び8時近くなって出発したのである。横山さんとの電話を終え、先に歩いて行った母を追いかけた。まばらな釣り人は魚を釣り上げる人がいるわけでもなく、帰路につく人もいた。堤防の先に近い辺りまで行って母に追いつき、釣りをせず引き返すことに決めた。釣れる様子が無かっただけでなく、再び雨があたりはじめたからである。
車まで引き返す途中、石黒山の遭難のことを考えた。あらためて考えてみるとスーパーラインの近くまで下りていれば、無線など通じるはずがないのである。咄嗟に岩井沢上部にいるのではないかと思った。だとすれば大変なことである。それに数年前石黒山にキノコ採りに入った人はまだ発見されていないのである。母を家まで連れて帰り、横山さんの家に電話をしてこれから向かうと伝えた。
石黒山はこれまで地形図に登山道が印されているものの、朝日村登山地図にコースタイムが明らかにされているだけの山だった。ところがこの春に出版された『新潟花の山旅』に初めてガイドとして紹介された。恐らく遭難者はこの本で石黒山を知ったのだろう。だから最低限この本のコピーくらいは持っているはずだった。そこで地形図、朝日村登山地図、そして『新潟花の山旅』を持って車に乗った。
横山さんの家に着いた時は9時をまわっていた。遭難者は男性1名と女性2名のパーティで、女性のひとりの名前は私の義母の名前と同じことから50歳以上と思われた。既に県警のヘリが出動したらしく、私は警察の人が言うように遭難者に「ヘリが近づいたら連絡をください」と無線で伝えた。しかしヘリを現場に向かわせるにも遭難者がいる場所をある程度特定しなければいけなかった。そこで下山をはじめた状況を訊くと、「避難小屋から雪があり、どちらに下りたかわからない」と答えた。ただ沢沿いの盆地状の場所で残雪が点在しており、標高500m付近だと言った。小雨のなか一晩過ごした3人は比較的元気なようだった。
毎日の通勤や職場の窓から見える山の消雪状況から小屋付近に雪があるとは考えられなかった。遭難者は少し混乱しているように思えたが、しかし遭難者の言葉を信じるしかなかった。そこで小屋付近から雪があったこと、遭難者が持っているハンディー機の電波が届くこと、さらに自分たちがどこにいるのか全くわからないと言っていることから8割がた岩井沢方面に下りたと推定した。
朝日村まで飛んできた県警ヘリは天候が悪く、新潟へ引き返してしまった。ところがしばらくすると遭難者が「ヘリの南西方向に自分たちはいる」と言ってきた。ヘリは飛んでいないのである。恐らく沢の音に紛れて、大きな音でも聞こえたのだろう。私は遭難者にヘリが引き返したことを話すかどうか悩んだ。警察の人は話さない方がいいと言う。そこで自分たちの南西方向にヘリがいるのか、ヘリの南西方向に自分たちがいるのか確かめるふりをして、「もう少し待ってください」と言って交信を終えた。
するとまた「ヘリが来た」と無線で言うのである。そこで私は、「ヘリは天候が悪く待機しているので飛んでいない」と正直に伝えた。これ以上遭難者を混乱させてはいけないと思ったからである。先日読んだある山岳雑誌の遭難者の手記では、夜中に実際には見えないはずのものが見えたと書いてあったことからも、遭難者は少し焦りはじめているのかもしれなかった。
村上警察署からの連絡では既に20人くらいの捜索隊が石黒山に登り始めていた。しかし遭難者は無線機を持っているのである。捜索隊は無線機で遭難者を呼びながら登っているのだろうか。無線機だけが遭難者の居場所を特定できる道具なのである。
さらに捜索が長期化した場合には、避難小屋を基地として捜索する必要があるのだが、捜索隊は寝袋や食料を装備しているのだろうか。毎日登山道を登っていたのでは、捜索時間が限定されてしまうからである。さらに遭難者の居場所を特定するために、スーパーラインの数箇所から八木アンテナを使った捜索をすべきではないのか。
警察の人は頻繁に村上警察署と消防と連絡を取り合っていたが、どうも警察と消防はうまく連携していないように思えてきた。そこで消防からも横山さんの家に来てもらうことにした。
11時頃消防の人が来た。すると昨晩消防の人達は石黒山に登っていると言うのである。それならば登山道のどの範囲に雪渓が残っていたか、既にわかっているはずある。朝までに消防と警察は遭難者の居場所を検討したのだろうか。
消防の人は「フスベ沢に下っている可能性が高い」と地形図で説明した。もし山頂近くに雪渓が無ければ、その可能性がある。しかしフスベ沢は神林村から見れば山の裏側であり電波は届かないだろう。しかも登山者は小屋から雪があったと言っているのである。消防の人の話を聞きながらも、私は岩井沢上部に遭難者がいる可能性を否定できなかった。
やがて現地の天候が回復してきたという連絡が捜索隊から入ってきた。さらに防災ヘリが三面川の河川敷に待機しているらしい。遭難者に現在の視界を訊くと、「遠くの山は見えないが、2、300m程度は見える」と答えた。そこで防災ヘリを現地に向かわせることにし、防災ヘリにも無線機を持たせることにした。
防災ヘリは11時32分に河川敷を離陸した。そして36分に「ヘリが向かったので、雪渓の上に出て目立つものを振ってください」と遭難者に伝えた。
40分を過ぎて、ヘリからの呼びかけに遭難者からの応答があった。そして無線でヘリが遭難者を見つけたことが伝わってきた。時計の針は11時49分を指していた。
午後家にいると村上警察署から遭難者がどこにいたのかわかったという連絡が入った。私は外に出かける用事があったので、そのまま警察署に行った。防災ヘリの話では遭難者はフスベ沢上部にいたらしい。遭難者は岩井沢方面にいたと主張したらしいが、ヘリは三面川、猿田川からフスベ沢に入ったのだから間違いはないらしい。つまり遭難者のハンディー機の電波はフスベ沢を上って尾根を越え、滝谷川をまっすぐ下って横山さんの家に届いていたのである。全く運がいいとしか言いようがない場所に遭難者はいたのであった。
さて今回のことで気になったことをいくつか述べてみたい。
・前日夜に消防が石黒山に登っていたが、その状況を警察と検討したのか
少なくとも私が横山さんの家に行った時点では警察の人は消防が昨晩石黒山に登ったとは言っていなかった。朝までに登山道の残雪状況から遭難者がどこにいるか消防と警察で検討できたのではないのか。
・遭難者は無線機を持っており、無線機を利用した捜索を展開するべきだった。
遭難者は無線機を持っていた。したがってスーパーラインや登山道からフォックスハンティグ的な探索をすれば、遭難者がどこにいるのかより早くわかったはずである。
・消防は八木アンテナを設備するべきである。
横山さんは八木アンテナをスタックにし、さらにプリアンプも使用していた。今回横山さんの家で受信できたのは場所的なものが最も大きいが、消防もGPアンテナに八木アンテナを増設するべきである。
・雪渓が現れたら下山のことを考えて登らなければならない。
登山者は7、8年前から登山を始めたらしいが、冬山の経験は全くないと述べていた。当然のことであるが藪や雪渓上など登山道がない場所を歩く場合は、下山のことを考え辺りの状況を確認しながら登らなければならない。
・そして私は「雪がどこからあったのか」よりも「どこまで登山道があったのか」と訊くべきだった。
この遭難は翌日の12日が新聞の休刊日だったため、13日の新潟日報下越版に載った。
ところで毎週日曜日発行の村上新聞(6月18日付け)では、県警ヘリは5時と9時に出動したと書いてあった。遭難者が私と逢った時、5時にヘリを見たと言っていたのは本当だった。もしその時県警ヘリが無線機を持っていれば、その時点で救出できたはずである。遭難者が無線機を持っているということをもっと捜索に利用すべきではなかったのか。
6月18日に浅草岳北面の斜面で行方不明になった山菜採りの男性を捜索していた警察、消防、地元の人の計4人が雪崩にあい亡くなった。入広瀬村村長の「救助に当たる人が巻き添えになるのは許せない」という言葉を常に頭に入れて、登山者は山に入らなければならないと思う。