湯蔵山、能化山、蒲萄山、これ等の山名を聞き一体何人の人がピンとくる事だろう。ああ、新潟の山だと首肯ける人は地元の人かよほどの山キチに限られると思う。
 本書は越後の藪山への興味を換気せずにおかない平凡な一登山者の平凡でなかった登山を通した半生記である。
 著者は豪雪地帯として有名な新潟県松代町に生まれ、大学では農学部で林学を専攻、現在は某研究所で森林、林業に関わる研究をする傍ら地元の藪山中心の山行を続けているという。仕事柄か昆虫や植物にも造詣が深く、若いうちに己の登山を通して半生を振り返り、それをまた新たな転機へのつなげたいと考え、本書の出版に踏み切ったと語る。常に惰性で山に登る事のないように山行の一つ一つを確認し、新たな気持ちで山に登りたいが為に記していた紀行文等を纏めたものだとも語っている。
 まず最初に「高地肺水腫」という高山病の話に引き込まれてしまった。ヒマラヤならいざ知らず、三千メートルにも達しない白馬岳で、著者は肺に水が溜まる高山病にかかり、生死の境を彷徨うのである。手遅れになると死に至る事もあるという恐ろしい病気だったが、運良くそこに診療所があり、適切かつ迅速な処置が施されて九死に一生を得たという。意識不明の我が子を思う母親の手記「昭和六ニ年夏」の一遍は本書をぐっと引締め、その親心は胸を打つ。
 それに続く父親の遭難。父君は知人とキノコ採りに入った山で道を見失い、一輪のウメバチソウが咲く沢の中で亡くなってしまう。
 大勢の捜索隊が三日間探しても見つからなかった父を、著者自ら発見したというのも父上の霊が呼んでいたという事なのだろうか。
 後半は新潟県内の藪山山行が主体となる。前半の朝日連峰や八ケ岳等への単独行からうって変わって、新しい山仲間との、冒頭に紹介された「有名じゃなくてもいい山」・・・への山行が中心となっていく。無線を通じ良き仲間と巡り合えたのは幸いだったが、新婚の妻との微妙な感情の縺れも味わう事になる。これは男でも女でも山キチなら皆多少経験する事なのだ。熱のある嬰児を抱え「あんたなんて結婚しない方が良かったのよ。そうすればいくらでも山へ行けたじゃない?」と恨み言を言う妻を残し、それでも山へ向かってしまう著者。家族を悲しませても行かなければならない山。そこまで真剣に己を燃焼させる事の出来る山って本当に何なのだろうと思う。しかし一番よく分っているのは本人なのだ。山はやめるわけにはいかないけれど、帰る所があるという安心感。愛する家族があればこそという事を。
 それにしても著者と母親の関係は羨ましい。世にあまたの山男あれど、一緒に山に登り共にテントで寝泊まりしてくれる母親を持つ山男がどれだけいるだろうか。
 本書の出版を機に今後著者がどんな新しい境地を切り開いていくか楽しみである。

『山の本』第39巻(赤沢東洋)

 「登山を通した私の半生記」と副題にあるように、山とのつきあい方や家族との絆などを、著者武田宏は肩肘張らず素直な文章でつづっている。しかし、活字の背後に見え隠れする人生は、決して平坦なものではなかった。四十年という短い間に、著者自身が山で二回死と直面し、さらに父親は山で遭難死している。この間にふたりの子供に恵まれるが、その誕生を前にした夫婦の葛藤、さらに生まれたばかりの子供の病気など、文字通り山あり谷ありの連続だった。
 1987年8月、二十代半ばの著者が白馬岳を登山中に突然意識を失い、ヘリで病院に運ばれ、数日間生死の境をさ迷うというシーンから始まる。武田自身はこの時意識がなかったので、回復を祈る家族の心情を、お母さんが鋭い筆致で活写されておられるが、切々たる思いが胸に迫ってくる。
 1994年10月、新潟、長野県境に連なる山稜の野々海にきのこ採りに出かけたまま帰らない父親の捜索行動を、武田は時間刻みで淡々と追っていく。しかし、読んでいくと知らず知らずのうちに緊張感に引き込まれていく。そして数日後、彼自身が父を発見した。父の眠っていた辺りは、武田が学生時代研究のために何度も通った地だった。
 1997年2月に長男真登が、1999年10月に長女季笑が誕生する。家族で一緒に登った山や、奥様の氏名などにちなんで命名したいきさつを述べている。ここにも家族との深いつながりと、彼らしいやさしい心遣いがうかがえる
 秋に岩船郡と山形県朝日村にまたがる、道のない化穴山に登りに行った時のことだった。稜線上に直径二メートル足らずの水分がほとんどない池があった。武田が長靴の先で池の泥をすくった。すると数ミリほどの白い半透明のモノが見えた。「これがマメシジミです」と言った。彼から聞いて名前は知っていたが、想像とはかけ離れ脆そうで弱々しいモノだった。稜線上の池の存在も不思議だが、その閉ざされた中に生き物がいて、それを追いかける人がいる。評者のような凡人は、山で愉しめば終わりだが、武田は自然を観て究めるという姿勢を持ち続けてきた人物である。本書からもその一端が分かるが、探求心の強さから多彩な趣味へと発展し、それが豊かな人間関係へと広がっていった。
 自然との付き合いも多様で、テント山行から沢登りに目覚め、渓流釣り、テレマークスキー、藪山へと充実ぶりが見えてくる。また随所に森でみつけた小さな命をちりばめてあり、それらを探すのも本書を読む愉しみのひとつである。

新潟日報「にいがたの一冊」(羽田寿志)

 新潟県村上市在住で、山好きが高じ森林・林業に携わる仕事についた、まだ40歳すぎの作者の半生記である。父親を山で亡くし、自らも高地肺水腫や滑落で二度死にかけるが、やはり山を捨てることはできなかったと言う。やがて「自然にじかに触れる喜び」を求め、道のある山よりも、地図を読みながら藪をこいで山頂に立つことに楽しさを見だしていく過程が、飾らない素直な文章で綴られている。
 結婚して子供が生まれ、家庭の愛情に包まれながら、それでも山に登らずにはいられない作者の葛藤には共感する人も多いのではないか。新潟の資料の少ない藪山が数多く登場するのも、本書のたまらない魅力の一つとなっている。『新潟の低山藪山』、『越後百山』の続編とも言える一冊である。

『新ハイキング』2002年6月号(猪俣恵美子)

 仕事の関係でクルミの実について文献を探しているとき、著者にはじめてメールしたのが今年の1月でした。そのとき、本を出版する話を知りました。
 表紙の写真は、私の好きな朝日連峰の大朝日岳です。
 著者のプロフィールが書かれた「はじめに」の最終項に、新潟県内の山域名についての出典が記されていました。某大学某分校の紀要に載っているその出典は、かなり以前に仙台の某大学図書館から探し出したことのあるなつかしい資料のひとつです。こんなことわり書きをさりげなく添えるところに著者らしいこだわりをまず感じました。
 冒頭の「高地肺水腫」には、本当にびっくりしました。私は高所恐怖症ではないのですが、海抜2700m付近から上に登ると頭痛と吐き気がひどくなることが多々あるのです。だから、山野井君や北村のお系ちゃんが著者不在のときにこの話をしているのをどこかで聞いていたときは、てっきり自分と同じような高度に弱い山男の笑い話だと思っていたのです。事故を知らされた家族の描写は、自分の滝での滑落事故を起こしたときとダブり、当時はあまり感じなかった家族に対する申し訳ない気持ちが湧いてきました。
 「ウメバチソウ咲く谷」では、私の義理の弟も同じような目に遭遇してしまったことやキノコ採りで行方不明になった友人の叔父の捜索活動を思い出し、概念図を何度もめくりながら読み進むうちに何時の間にか自分も一緒に捜索に引き込まれていました。紀行文集を予想していたのに、これはまさに私小説です。
 私はどちらかというとつきあいは苦手です。この本からは、家族の絆や愛、良き仲間達との交友など、羨ましいほどの、ほのかに暖かい人間関係が伝わってきます。

『TAJ NEWS』 vol.66(富樫悦夫)

 本書は著者の生まれた土地、そして今も暮らしている新潟県の山を中心にまとめた山行記。
 最初の稿はいきなり山の事故話。単独で登った白馬岳で高地肺水腫に罹り重体に陥ったもので、その時の様子が真に迫って記述される。ヘリコプターで搬送された著者は運良く命拾いするが、夏山診療所がない、登山者の少ない山域だったら危なかっただろう。意識不明の状況時から危機を脱するまでの様子を、「昭和六ニ年夏」というタイトルで母親が綴っている。刻一刻わが子の容体を見守る母親の気持ちが、切ないほど伝わってきて胸を打つ。
 もう一稿は、キノコ狩りに行った父親を山で失う話で、捜索の様子が克明に記される。そしてついに息子(著者)によって発見される結末が悲しい。
 しかしそういう深刻な話題だけではない。人跡希ともいえる登り甲斐のあるヤブ山(大兜山)の山行記、母親との登山のこと、わが子の誕生の話など、山を通しての日常や、日常の中の山が語られ共鳴を呼ぶ。
 自らの山での危機、山で父親を亡くしたこと、それでも捨てきれない山への思いあふれる内容の一冊である。

『岳人2002年8月号』

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