浪漫オタク
家の本棚に赤と黄の表紙が違うだけで全く同じ中身の本がある。1999年2月に亡くなった池田知沙子さんの著作集『みんなちさこの思うがままさ』(浦和浪漫山岳会出版局)である。
池田知沙子さんについては、この「林業普及通信」を読んでいる人のなかでは、片手で数えられるくらいの人しか知らないだろうが、埼玉県の浦和浪漫山岳会の名物会員だった。浦和浪漫山岳会と言えば、前代表の高桑信一さんがあまりにも有名だ。『一期一会の渓』(つり人社)や『道なき渓への招待』(東京新聞出版社)などの著作があり、毎月のように山岳雑誌や釣り雑誌に登場する人である。昨年末に上梓した『山の仕事、山の暮らし』(つり人社)も好評らしい。そして、「残された日々を無為に生きるのなら、いっそ自らに忠実に、山だけを見つめて生きてみたかった」と定年前に会社を退職し、現在では山岳ガイド、カメラマン、フリーライターとして活躍している。その高桑信一さんが「渓の語り部」の異名があったのに対し、池田知沙子さんは「ブナの森の語り部」と呼ばれる人だった。
池田知沙子さんが急逝し、浦和浪漫山岳会で追悼集(月報『Rouman』No.168)をまとめたことを山岳雑誌で知り、高桑信一さんからそれを入手したのは1999年9月のことだった。それまで、浦和浪漫山岳会の年報『渓』や釣り雑誌などで彼女の文章を読んで、「どこか普通の女性登山者と違うな」と感じていた。そして、彼女の周辺の人たちが、彼女の生き方、山行、紡ぎ出された文章に何を感じていたか知りたかった。さらに、著作集『みんなちさこの思うがままさ』が出版されることを知り、それも入手した。しかし、私の乏しい感性ではなぜ彼女が「ブナの森の語り部」と呼ばれるのか、よくわからないままだった。
『岳人』2001年12月号の特集「マイナー12名山」で、そのトップに矢筈岳が選ばれた。矢筈岳は村松町と下田村の境界に位置する川内山塊で粟ケ岳に続く高峰で、私にとっても長く憧れの山であった。その矢筈岳の評で高桑信一さんがある女性が書いた矢筈岳の詩を引用していた。すぐにそれが池田知沙子さんのものだとわかったが、私はその詩をそれまでに何度か読んでいたはずなのに、初めてその状況を理解したのだった。その詩は追悼集にもあったし、『みんなちさこの思うがままさ』にも収録されていたにもかかわらずである。
ふりかえると緑波立つ美しい渓
この緑の影に あんなにも きらびやかな渓が隠されている
地の昏がりから 浮かび上がった 早出の曼荼羅
私は 私の肌だけを纏ってぬかづく
いい風が吹く
しばらく このままで このままで
(略)
私を矢筈に預けたあの二人は もうじき 水をくんでもどってくるだろう
知らん顔して
男二人と厳しい沢を遡って辿り着いた矢筈岳山頂で、池田知沙子さんは男が水をくみに行っている間に全裸になっていたのだった。彼女には肌そのもので風を感じることが、矢筈岳とひとつになることだった。高桑さんは彼女のこの行動を「儀式」と表現していた。
月報『Rouman』No.214(2003年4月号)の巻頭言で、『みんなちさこの思うがままさ』が増刷されたことを知った。初版の700部がほぼ完売となり、ポツポツ舞い込む注文に応じられなくなったためだった。そこで、初版の誤字等を訂正し、表紙も赤から黄に変えた第2版を200部印刷したらしい。
この月の巻頭言の担当は飯島雄二代表だった。飯島さんは得意の泳ぎで、いくつもの困難な沢を突破し浪漫パーティを山頂へと導いた人だ。その飯島さんが「所謂個人的な事情というやつに押し流されて、今年はじめからほとんど死にかけていた」らしい。しかし、黄色に新装された『ちさこ』を手に取ることで、山に対する想いが少しだけ蘇ってきたというのである。そこで、私も黄色の『ちさこ』を新たに手に入れたのだった。私の今の状況も飯島雄二さんと同じだったからである。
考えてみれば、赤い『ちさこ』は入手後、一気に読んでしまっていた。そして、池田知沙子さんが書いた膨大な文章から選びまとめた赤い著作集はそれ以来一度も開いたことがなかった。それを今は常に通勤の鞄に黄色の『ちさこ』を入れて、春から夏へと移り変わっていく越後の山々を見ながら、時々開いては眺めている毎日である。今のこの状態を何とかしなければならないと……。
さて、今秋高桑信一さんとの山行が予定されている。高桑さんと瀬音を聞きながら焚き火を囲んで酒を酌み交わすことが、浪漫オタクの私にとって浮上のきっかけとなるであろうか。