森の遠くで(四) 山に向かう

 白馬岳で高山病に罹りヘリコプターで下ろされようと、父がキノコ採りで遭難して亡くなろうと、私は登山を止めなかった。それよりも登山を続けることが、それまで以上に自分に生きる力を与えてくれるように思った。
 何度目かの登山ブームになっていた。登山道のある山は中高年登山者で溢れている。冬山は単独行でなければ評価できない。沢登りは重箱の隅をつつかなければならないほど未知のルートがほとんどない。
 そんな時、羽田寿志さんと知り合った。羽田さんは一般登山者が見向きもしない低山藪山に目を向けていた。ガイドブックからではなく、地形図から登る山を探すという山行を羽田さんは教えてくれた。
 一般的な登山は、登山口に着きさえすれば、必要以上に設置してある道標に導かれ山頂に立ててしまう。地形図を広げることなく登る山には、思考する楽しみや苦労が全くない。ただ機械的に足を上げる行為を繰り返すだけである。
 しかし、地形図から登る山を探す登山は、危険を伴う反面、登山道歩きとは比較にならないほど楽しい。それは藪山登山をする人にしか理解できないかもしれない。
 それに、私は登山道のない山の森林を見たかった。一般の人が辿りつけないような山の尾根や沢の森林の状態を知りたかった。
 二次林のなかに残る胸高直径一メートル以上の大木に原生状態の森に思いを馳せ、雪に強いと言われているブナでさえも提灯たたみ状になっている姿に豪雪のすごさを実感した。
 『森の遠くで』以降も、朝日連峰の化穴山、蒲萄山地での三ルートの横断、馬ノ髪山から俎倉山までの天然スギの稜線……と私の藪山登山は続いている。

 四月に新潟市の職場に異動になった。そして五月に東京高尾にある森林技術総合研修所で研修を受けた。
 研修所は『森の遠くで』を出版した白山書房の近くだった。そこで研修を終えた夕方、白山書房に遊びに行った。そして、社長の蓑浦登美雄さんと酒を酌み交わすうちに、「武田さんの山は、これからどこに向かうのですか」と突然訊かれたのである。
 考えたこともない問いに、答えを返せなかった。父のため、そして幼い子供のために、自分の登山を通した半生記をまとめた。自分の山はこれからどこへ向かうのだろうか。
 四月から泊まりの登山ができない日々が続いていたが、十月に一泊で会津丸山岳に登ることになった。沢を四時間歩いて、焚き火をして一夜を過ごし、翌日さらに沢をつめた。会津丸山岳は三角点の脇に池塘が二つある誰もいない山頂だった。
 「ずっとここにいたいね」
 とても男二人だけの会話とは思えない言葉が自然に口から出た。
 自分の山がこれからどこに向かうのかわからない。ただ、山に登り続けることだけは確かだろう。草紅葉まぶしい会津丸山岳山頂は、本当にいつまでもいた山頂だった。(終)