森の遠くで(三) 父の遭難

 その日、私は関川村に出張していた。小春日和の充実した仕事を終え、アパートに帰った時に総務課長から電話があった。
 「お父さんがの野々海で遭難しているそうです。すぐに家に電話してください」
 何のことかよくわからなかったが、家に電話をし、父がキノコ採りで行方不明になっていることがわかり、急いで村上から松代町の実家に向かった。
 実家から父が行方不明になった現場に向かう。しかし、もう二四時近くになっており、その日は何の手掛かりも得られなかった。
 翌日は近所の人達や松代町の消防団などの捜索隊になり、百人以上の人が集まった。しかし、それでも父の行方は知れなかった。
 捜索は三日目になり、誰もが焦り始めていた。これまで父は二回骨折したことがあるので、私は骨折でもして入山地点からそんなに離れていない場所にうずくまっているのだろうと考えていた。しかし、こんなに探しても発見できないのはおかしい。父は戻る方向がわからなくなって下ったのではないだろうか……。
 捜索隊から分かれ、私と渓流釣りを趣味とする伯父は二人で一旦山を下り、沢から登り直した。沢には全くスレていないイワナが悠々と泳いでいた。そして滝のふもとに倒れていた父を発見したのである。
 父は沢で足を滑らせ、額を岩にぶつけたのだった。即死だった。そして父は県警のヘリコプターに吊り上げられて安塚警察署まで運ばれて行った。
 あれから五年続けて、父が亡くなった場所まで母と二人で行った。翌年は七・一一災害に象徴される集中豪雨があった年で、渓相は前年と全く変わり、イワナなど一匹も見つけることができなかった。その次の年は、実家の墓を建て替えることになり、墓の開眼と一緒に小さな地蔵にも魂を入れてもらい、父が倒れていた場所に安置した。
 母は毎年地蔵の新しいあてんこ(よだれかけ)を作り、花と酒を背負って私と一緒に沢を登った。
 父が亡くなった時、弟は結婚していたが、まだ子供はいなかった。父は自分の父親と同じように一人の孫も抱くことなく、永眠したのである。
 その後、私も結婚し、今では父の孫は四人になった。弟は父の名前の一文字を長男の名前に使い、私は両親と共に登った山にちなんだ名前を二人の子供につけた。
 また、松代町に実家は残っているものの、母は現在私と共に村上市で元気に暮らしている。私は父が亡くなってからの家族のことを、本にすることで父に知らせたかったのである。
 なお、父の遭難では林業関係職員の皆様に多大なご心配をおかけした。この紙面を借りて、改めてお礼とお詫びを申し上げる。