森の遠くで(二) 高地肺水腫

 昭和六二年に実家から通える職場から岩船郡に異動になった。再び親元を離れたことで、粟島へキャンプに行ったり、鷲ケ巣山や光兎山など近くの山に登ったりと、大学時代と同じように気ままな暮らしをしていた。
 そしてそれまでに新潟県のガイドブックにあるほとんどの山を登っていたので、その年の夏に久しぶりに北アルプスを歩いてみようと考えた。コースは白馬岳から爺ケ岳までの五泊六日である。
 単独で五泊六日は初めてだったが、これまで山中で丸二日間誰にも会わなかったこともあるし、北アルプスはエスケープルートがたくさんあるので少しも不安はなかった。
 栂池から登り始め、二日目の早朝に白馬岳に着いた。そのままその日の宿泊場所である村営宿舎裏のキャンプ場に下り、周辺を散策していた。一一年前に白馬岳に登った時は、大雪渓から村営宿舎までしか天気が良くなかったので、その分も白馬岳を楽しみたかった。
 次の日の朝になると熱があり、身体がダルかった。そこで村営宿舎の中にある診療所に向かい、診察していただいた医学生に「明日、大雪渓から下ります」と言って、テントに戻った。予定していた爺ケ岳までの縦走も、昨日の散策だけで充分だった。
 ところが、夜中にさらに体調が悪化したのである。明るくなって再び診療所を目指したのだが、わずか一○○メートルの距離を三度も腰をついて休まねばならなかった。そして、「昨日来た者です」と言って、ベッドに横たわり、そのまま意識を失ってしまった。
 気づいた時は病院の中だった。両親が白衣を着ている。見たこともない精密機器が並んでいる。とんでもないことになった……と思いながらも、生きていたことに安堵した。
 私はヘリコプターに乗せられて村営宿舎から信濃大町の病院に降ろされたものの、その病院では手に負えず、救急車で松本市まで転送されたのである。運ばれた場所は信州大学医学部付属病院のICU(集中治療部)だった。
 信大病院には約二週間入院することになった。私の病名は「高地肺水腫」という高山病だった。まさか日本の山で、こんなに重篤な高山病になるとは思いもしなかった。
 自分自身は、この事件ではほとんど意識がなかったので、私がヘリコプターで降ろされるという知らせを両親が聞いてから、病院に駆けつけるまでの様子を母に書いてもらうことにした。母は、「病院にいる時にメモを取っていたのだが、どこにやったかわからない」と言いながらも、二年前の出来事を鮮明に記憶していた。
 赤沢東洋氏の書評では、「意識不明の我が子を思う母親の手記は、本書をぐっと引締め、その親心は胸を打つ」と記されている。私もこの母の文章がなければ、とても自費出版しようという気持ちにはならなかっただろう。