フルマラソン 挑 戦 記

 二○○六年の年間山行日数は、ここ二○年間で最低だった。原因ははっきりしている。家内が必ずしも土日が休みにならない仕事を始めたからだ。そのため、家内が仕事の土日は子供たちと一緒に過ごさなくてはならない。たまに土日が休みになっても今度は家族サービスの日となる。母に子供をまかせて山に行くこともできるが、母だって畑仕事や近所付き合いで忙しい。そんなわけで、最近山から遠ざかり気味になっていた。

 それでも何とか最低月一回は山に登ろうと思っていたが、月末になると「今月は一回も山に登っていなかった」と気づき、仕事帰りに村上市民に「お城山」と呼ばれ親しまれている標高わずか百三十五メートルの臥牛山に登ることが多くなっていた。

 長男の真登(まなと)を村上市の隣の神林村で開催されるかみはやし穀菜(こくさい)マラソン大会に出場させようと考えたのは二○○五年の夏のことだった。何事にも気が散りやすく長続きしない性格なのだが、特別速いわけではないものの走るのを嫌がらないし、「ちょっとマラソン大会にでも出させてみようか」と軽い気持ちだった。

 二○○六年正月には村上市元旦マラソン大会があり、家内と真登が二キロのペアマラソンに出場した。かみはやし穀菜マラソン大会が小さな小学校の運動会規模だったのに対し、村上市民体育館は村上市民総アスリート状態と勘違いするほどランナーとその家族がひしめき合っていた。マラソン大会には近所の男性や子供が通う小学校の教頭先生も出場していた。しかし、私といえば前日の大晦日の昼から酒を飲んでおり、元旦は朝から完全な宿酔い状態だった。家に帰る車の中で、道路脇を走るランナーを横目に見ながら、そんな自分が何となく情けなく感じていた。

 そこで、二○○六年は家の近くで開催されるマラソン大会に二人の子供と一緒に出場することにした。マラソン大会に出場することに不安が全くなかったわけではないが、昼休みには時々走っていたし、登山を三○年間も続けているのだから持久力もそれなりにあるはずだという自負があった。それに子供に父親が走っている姿を見せるのも悪くはない。そして、昼休みだけでなく、平日の朝や土日の空いた時間に少しずつ走るようにしていった。二○○六年は三大会に出場した。距離は一○〜一五キロだったが、順位は出場種目の中くらいだった。

 年末になり、ランニング雑誌の付録だった『マラソン大会ガイド』で、家から車で二時間以内に会場に着ける大会を選んで二○○七年の計画を立てることにした。北は酒田市、南は新潟市、東は長井市付近の範囲である。二時間以内にしたのは、登山でも最近は遠出が嫌で登山口まで二時間程度の範囲しか登ることがなかったからである。すると、元旦から一一月まで約一○回のマラソン大会に出場できることがわかった。

 二○○七年四月一日の笹川流れマラソン大会で初めてハーフを走った。一キロ五分を切るペースを維持し、一時間四三分三四秒でゴールした。

 四月二十二日には、温海さくらマラソン大会で三〇キロを走ることにした。コースには二つの峠越えがあり、標高差は二一○メートルもあった。受付時から降り出した雨は次第に本降りになってきた。これまで練習でも二五キロしか走ったことがなく、何度も種目変更しようと考えたが、迷っているうちにスタート時刻になってしまった。「キロ六分ペースで、三時間程度で走ればいい」と気楽な気持ちでスタートラインに立ったものの、いざ走り出すとキロ五分ペースで一五キロまで走ってしまった。しかし、二つ目の峠越えで大きくペースダウンした。二○キロからは緩い下り坂が続くのだが、時々平坦になると上り坂のような錯覚に陥った。そして、二五キロ過ぎからは「足が棒になる」経験を初めてした。以前、飯豊山荘からダイグラ尾根を登って飯豊本山から御西岳へ向かい、大日岳往復、北股岳を経由して地神山から丸森尾根を下った日帰り登山でも経験したことのない極限状態だった。それでも土砂降りの雨の中、二時間三十五分五七秒で三○キロを走りきったことは大きな自信となり、秋のフルマラソンへ挑戦する踏ん切りがついた。

 さて、そのフルマラソンだが新潟マラソン大会は制限時間が四時間であり、走り始めたばかりのランナーには少し条件が厳しい大会となっている。秋まで練習を積めば四時間以内で走ることもできると思うが、アクシデントがあった場合四時間以上になってしまい、記録が残らないことも考えられる。一方、山形県長井マラソン大会は制限時間が六時間であり、よほどのことがない限り完走ができそうだ。

 どちらの大会にしようか悩んでいたが、公認コースであり四時間以内で完走することを目標にするため、あえて新潟マラソン大会を選んだ。それから約半年、月一、二回の大会を取り入れながら、練習を積むことにした。そして真夏の大会でも一○キロを四五分切るほどのスピードが付いてきた。また、幸い新潟マラソン大会のフルマラソンは今年から制限時間が一時間延長され五時間になった。

 初めてのフルマラソンの前には最低一度は四○キロに近い距離を走っておく必要がある。距離に対する不安を無くすためだ。

 そこで、新潟マラソン大会の五週間前に四○キロ走を行うことにした。キロ六〜七分ほどのペースだから三○キロまでは足には全く違和感がなかった。しかし三○キロを超えるとさすがに足が重くなってきた。心なしか足先が痛むような気がするが、それも四○キロ近い距離を走ると起きる足の変化と考えていた。

 風呂上がりに少し痛む左足を見ると、人差し指の爪が黒くなっていた。登山と同じように内出血してしまったのである。長時間走り続けたことで、シューズの紐がゆるんでつま先が靴に当たっていたのかもしれない。しかし、登山ではよくあることだし、しかも新潟マラソン大会までにはまだ一ヶ月以上もあることから何の不安も感じなかった。新潟マラソン大会では爪が剥がれている状態で走ることになるかもしれない。しかし、足の爪が一、二枚無い状態で登山をしたことは何度もある。

 新潟マラソン大会三週間前の白鷹若鮎マラソン大会は三○度を超す気温だったが、ハーフを一時間四二分三○秒で走ることができた。ただ、あまりの暑さに汗をかいたせいか、一五キロ過ぎからは痙攣しそうになる両ふくらはぎをだましだまし走るような状態だった。

 新潟マラソン大会まで一週間を切り、五日前の火曜日に二○キロを走り、残りの四日間は身体を休めることに専念した。そして一○月七日、新潟マラソン大会当日を迎えた。




 結婚指輪をしたのは新婚旅行以来だから、もう一○年以上も前のことになる。「野外仕事が多いから、指輪を汚してしまう」と言って指輪をしなかったのだが、なんとなく束縛されているようで嫌だというのが本当の理由だった。しかし、初めてのフルマラソンで久しぶりに指輪をしたのは、仕事で応援に来られない家内の力も借りたい気持ちだった。元々少し大きかった指輪だが、ランニングで痩せたため左手の薬指にしても緩くて落ちてしまいそうだったので、一番落ちそうにない右手の中指にした。

 村上駅で新潟行きの始発列車に乗り込み、コンビニで買ったおにぎりを頬ばった。同じ新潟マラソン大会で一○キロに出場する村上市のランニング仲間の内山みち代さんが「私の車に乗って行きませんか」と誘ってくれたのだが、「列車に乗って行きたいんです」とあえて断っていた。二十歳の頃に単独で新潟駅から向かった裏巻機〜三国峠や荒沢岳〜越後駒ケ岳と同じように、フルマラソンという四二・一九五キロの縦走への不安と緊張に一人静かに向き合いたかったからである。薄暗い中、出発した始発列車だったが、やがて背後の二王子岳から朝日が昇ってきた。

 新潟駅で越後線に乗り換え、数年前に通っていた職場と同じように白山駅で列車を降りる。そして、以前の職場とは反対方向の陸上競技場へと歩き始めると、明らかに新潟マラソン大会に出場しようというランナーが百人くらい列になっている。

 新潟市民体育館で受付をして、体育館の角で腰を下ろす。この体育館に入ったのは大学の卒業式以来である。いつもはスタートまで子供のナンバーカードを付けたりして慌ただしいのだが、今日は一人なので余裕がある。しかし、その時間が逆に緊張を募らせる。ランニングシャツにナンバーカードを付けて、陸上競技場の外を半周すると村上市の内山さん夫婦と会うことができた。二人に「頑張って」と激励を受けて握手する。ゲートから陸上競技場に入り、既に並んでいるランナーの後方に入れてもらう。

初めてのフルマラソンで大切なことは、序盤にペースを上げすぎないことである。ハーフや一○キロの記録から目標タイムは三時間四○分と設定した。最初の五キロを二七分で入り、あとは五キロを二六分ペースで走るつもりである。最低でも四時間を切るつもりだ。

号砲が鳴ってからスタートラインまで約三○秒かかった。スタートラインでストップウオッチを押す。陸上競技場を出ると沿道の声援が嬉しいが、「頑張って」と言われても、ただ後半にそなえて今はゆっくり走っているだけである。

市街地を過ぎ関屋分水路を渡ると、海岸のクロマツ林になる。できるだけ左側のクロマツ林の日陰になるような場所を走る。八キロ付近で一○後にスタートしたハーフのランナーが追い越していく。

ハーフの折り返し地点を過ぎると、「ここからが地獄なんだ」と話すランナーの声が聞こえる。

大学の近くの往来橋を渡ると大学時代の恩師である紙谷先生がカメラを持って観戦していた。帽子を取って「武田です」と挨拶すると、驚いたようにカメラを構えて写真を撮ってくれた。

国道四○二号線の海岸クロマツ林を走っていると、一五キロ地点を過ぎたところでトップランナーが折り返してきた。疎らだった反対側のランナーがだんだんと集団になってくると折り返し地点が見えてくる。

二五キロを過ぎると沿道で立ち止まって屈伸運動をしているランナーが何人もいる。棄権するランナーを収容する車も反対車線を走っている。マラソンは登山と同じだ。棄権は「引き返す勇気」であり、ゴールは無事に登山口に辿り着くことである。そして、家に帰ったら家族に土産話をたくさんする。とにかく今は走り続けることだ。

 往来橋手前では紙谷先生がまだ観戦していた。かなり手前から手を振ると先生は再びカメラを構えてくれた。

 三○キロ付近が近づくと脚が重くなってきた。ふくらはぎに加えて、太ももが痛み出す。三二・五キロ地点のスポンジで両太ももを冷やす。登山でよく痙攣する部分だ。何度も登山中に佐藤レイ子さんに薬をもらったことを思い出す。両ふくらはぎには二人の子供にマジックで励ましの言葉を書いてもらった貼り薬を貼っていた。左足には真登(まなと)に「おとうさんがんばって完走してね。まなと」、右足には季笑(きえみ)に「おとうさんがんばって!きえみ」と書いてある。その貼り薬の上に水をかける。

関屋分水路上の新潟大堰でラスト五キロの表示があった。三時間二三分だった。キロ七分ペースでもサブフォーを達成できる。関屋分水路の右岸に渡ると正面に粟ケ岳が見える。歩いているランナーを追い越し、信濃川との合流点の坂を登る。そこで膝の屈伸運動をしようと立ち止まったのだが、膝を曲げるとそのまま地面に腰を着いて倒れてしまいそうなので止めて、信濃川左岸のやすらぎ提を走る。千歳大橋はまだかなり先に見える。

ラスト三キロを過ぎると、太ももの痛みが限界に近づいてきた。何人ものランナーに追い越されていく。歩いているランナーもいる。自分も歩きたい。でも歩いてしまえば、四時間を切れない。明らかにキロ七分近いペースになっているからだ。やすらぎ提に数十メートルおきに設置されている水道で両太ももを冷やす。さらに数百メートル走ったところでもう一度太ももを冷やす。

自分がマラソン大会に出場していると知った何人かの山仲間から「自分も以前に体力維持が目的でマラソン大会に出場していた」というメールを受け取った。家内は「主人はランニングにはまってしまったようだ」と友人に話しているようだが、いつ山仲間からハードな山行に誘われてもいいように体力を維持しているだけなのだ。右前方に飯豊連峰が見える。これからも毎年あの飯豊に登るためなのである。

ラスト一キロになり、陸上競技場へと左折していくランナーが前方に見えてきた。あともう少しだと思うと急に足が楽になってくる。陸上競技場のゲート手前で内山さんご夫婦が「サブフォーだよ」と迎えてくれる。

マラソンゲートをくぐり、陸上競技場に入った。観客の姿は目に入らない。ひたすら最後のトラックを走るだけだ。思えば中学生の頃からテレビでマラソンを見るのが好きだった。フランク・ショーターが福岡国際マラソン大会を連覇した頃からだろうか。それから何人のランナーのゴールをテレビで見てきたことだろう。そして、今自分がそのゴールへ向かおうとしている。

最後の直線コースに入り、目を上げると電光掲示板の表示は三時間五六分だった。初フルでサブフォーだ。拳を軽く握りしめガッツポーズでゴールした。