こりないめんめん泥又川で遊ぶ

 

 「こりないめんめん」とは誰のことかについては佐藤レイ子さんが言うように広義に解釈するとして、この「こりないめんめん」のなかには能面作りやダンスなどという登山とは全く異なる趣味をもつ人がいる。しかしこの二人だけは登山以外の趣味の話を聞いたことがない。
 羽田寿志さんの登山以外の趣味と言えば、読書だろうか。その内容がかなり広いことは、普段の会話から判断できる。しかし一番多く読んでいるのは、やはり登山に関する本だろう。一方佐藤レイ子さんは以前に蝶採集をしていたらしいが、山野を歩きながら昆虫採集をするということは私がカタツムリを探しながら山を歩くのと大きな差はない。この二人にイワナ釣りの楽しさを教えてやろうと九月下旬に泥又川に行くことにした。
 泥又川への山越えルートは六月の釣りでわかっていた。石黒沢の駐車場に車を停め、猿田川を渡渉し対岸の尾根に取りついた。駐車場には二台の県外ナンバーの車が停まっていたが、山越えルートには先行者は入っていないようだった。
 しかしさすがはこりないめんめんである。いつものようにとても日帰りとは思えないザックを背負っても泥又川にわずか一時間で入渓することができた。二人とも想像していたよりも穏やかな泥又川に感激している。川原で休んだあと泥又川を少し歩いて二人に竿としかけを渡した。九月の溯上時期であり、簡単な釣り方を説明して三人がバラバラで釣り始めた。昼まで釣りをして、あとは焚き火を囲みながらイワナを味わう予定で、それまでにひとり二、三匹は簡単に釣れるだろうと思っていた。
 ところがはイワナのいる場所が違うのか、あるいはエサが悪いのか、さっぱり釣れる様子がない。羽田さんは、「テン場はまだですか?」などと言っている。いつもの五○リットルのザックが重いのだろうか。「もうすぐのはずなんですけど……」と答える。
 それからわずかで泥又川左岸のテン場に着いた。羽田さんはもうザックからビールを取り出している。「テン場はまだですか?」と訊いたのは、ビールが飲みたかっただけだったのだ。イワナが一匹も釣れていないのに、もう乾杯である。さすがはこりないめんめんだ。
 ビールで一息ついて、荷物をテン場に置いて上流に向かった。穏やかな川面に霧がうっすらかかっているいい雰囲気である。ふと羽田さんの姿を見るとなんと片手に缶ビールを持ちながら糸を垂らしている。私が渡したサブザックのなかに羽田さんはビールを入れていたのである。しかも利腕に竿ではなく、缶ビールを持っている。
 そんな羽田さんをレイ子さんと二人で追い越し、私が緩やかな瀬にエサを落とした瞬間だった。「ちぇ、また根がかりか」と思った瞬間、岩だと感じた物体が動きだした。明らかに尺イワナである。これまでの最高は二八cmであり、それ以上の大物は何回もバラしていたので尺イワナであることはすぐにわかった。そして尺イワナをバラす度に仕掛けを太くし、腰には常に玉網を用意するようになったのである。しかし今日はひとりではない。「レイ子さん、網、網」と言って、腰の玉網をレイ子さんに手渡した。
 レイ子さんが川に入って玉網でイワナを追いかけるとイワナが姿を現した。大きい。明らかに尺を越えている。レイ子さんはあまりの大物に笑い転げていて、なかなか網ですくえない。しかし浅い瀬であり、まもなく玉網に尺イワナが収まった。
 メジャーをあてると三七cmであった。三○cmを越えるイワナを釣ってみたい……と思っていたのが、いきなり四○cmに迫る大きさのイワナを釣り上げたのである。そこへ羽田さんがやってきて、ふたりでメジャーをあてたイワナの写真を撮った。そしてイワナを持っている私とレイ子さんの写真をそれぞれ羽田さんに撮ってもらった。
 レイ子さんの職場にも渓流釣りをする人がいるらしく、「今度泥又川にイワナ釣りに行く」と言ったら、大変羨ましがったらしい。それもそのはずである。泥又川でイワナ釣りをするには、猿田ダムのバックウォーターからボートを使って入渓するか、猿田川を渡渉してから山越えをするしかないのである。イワナ釣りを趣味にする人でもボートを買ってまでという人は少ないだろうし、山越えするにもある程度の踏み跡の場所がわからなければならない。レイ子さんにはいい土産話ができたはずである。
 レイ子さんは「魚拓を取らなければならない」と言ったが、釣り上げたイワナはその場で食べるために処理することにした。まず肛門から腹にそってナイフを入れる。それから下あごの下にナイフを入れるのだが、イワナが大き過ぎてナイフを入れる場所がわからない。レイ子さんに手伝ってもらって、やっと場所を探しあてナイフを入れる。今度はそのナイフを入れた場所から、両親指を使って開くのだが、この作業もあまりに大きなイワナのために手間取った。そしてなんとかきれいに内臓を取り出し、血合いを爪で掻き出し、水で濡らしたフキの葉でイワナを包みビニール袋に入れた。イワナの胃の中にはイナゴのようなバッタ目の昆虫がびっしり入っていた。
 「これで釣れる」と三人とも思った。しかしそれ以降もまた全く釣れなくなった。レイ子さんはイワナが釣れないので、アブラハヤ釣りに興じている。羽田さんも二本目の缶ビールを片手に相変わらず不真面目な釣りをしている。私はその後大イワナに比べれば半分の大きさのイワナを一匹釣っただけで、さっぱりだった。
 左岸からトチノキ沢が合流する辺りから、泥又川は厳しさを増してきた。水の流れは速くなり、腰を越えるほど水に浸からなければ進めない場所もあった。六月にはこんな場所はなかったはずだ。とりあえず大明神滝まで行って戻ることにして、先を急いだ。
 大明神滝が見えるところまで来ると六月に一番奥まで行った場所の岩にハーケンが打ち込まれ、シュリンゲが残されていた。明らかに大明神滝の滝壷に下りるためだった。イワナが釣れないこともあって疲れていたので、大明神滝の写真を撮り急いでテン場まで戻ることにした。
 テン場に戻って羽田さんが火をおこしている間にイワナを料理することにした。釣り上げたイワナをどのようにして食べるか話合ったが、やはり刺身と塩焼きだろうということで、私が半身の皮をはぎ、レイ子さんが刺身を作った。残った半身は塩焼きにし、頭と尾は汁に入れることにした。
 汁の用意をしようとするとレイ子さんはザックのなかからサケやタラの切り身を出してきた。「なんでこんなもの、持ってきたの?」と訊くと、「一匹も釣れなかった時のために…」と答えた。全くそんなことだから、アブラハヤ釣りに興じていたわけである。
 とりあえず持ってきたつまみを並べ、火の脇に塩をふったイワナを置いて、ビールで乾杯することにした。そしてイワナの刺身を食べてみた。「甘い…」私は以前一度食べたことがあるのだが、どんな味か覚えていなかった。もっとも三○cm以下のイワナで、刺身も小さかったのだろう。羽田さんとレイ子さんの二人は当然初めて味わうイワナの刺身だったが、「おいしい、おいしい」と繰り返している。
 私が大イワナを釣り上げたり、釣り上げたイワナの処理の仕方や刺身にする時の皮のはぎ方を知っていたので私のことを見なおしたのか、レイ子さんは「武田さんは山より沢のほうが合うんじゃないの」などと言っている。
 穏やかな泥又川の脇で楽しい宴。泊りであればもっとゆっくり釣りができ、もっとこうしてぼんやりできるのに……と思いながら対岸の紅葉が始まりはじめた斜面を見ていた。

(一九九九年九月下旬)