ふるさとのブナの森(『森と水の恵み』から)

 眩しいばかりの松代の春だった。五月に入ったというのに、ほとんどの水田を残雪が埋め、尾根にはブナが青々と若葉を広げ、風にブナの芽鱗が舞っていた。この松代の春を祖母に見せてやれないことが悔しく歯がゆかった。十月に生まれた長女の母に「春代」と名付けた祖母だった。祖母には松代の春に特別な思いがあったに違いない。祖母は今自分がどこにいるのかわかっているのだろうか。
 一度でいいから、祖母を車椅子に乗せて、祖母が散歩していたという道を歩いてみたい。そして、松代のブナの森を祖母と母の三人で眺めてみたい。
 祖母が過ごした九十一年間、母が暮らした六十三年間、そして高校までの十八年と就職してからの二年の合わせて二十年間私を育んでくれた松代のブナの森。三人とも年月は違うが、松代のブナの森に励まされ、そして生かされてきた。
 真っ先に融かそうと苗代田の雪をシャベルで突いた春、汗だくになって畑の草を取った夏、家族親戚総出の稲刈りの秋、晴れ間を狙って屋根に上がって雪下ろしをした冬。いつもまわりには四季折々のブナの森があった。「豊穣の森」などという現代人が縄文時代を表現する言葉ではなく、昭和の時代に松代で生きた人たちの暮らしを見守ってきた森だった。


 本文中には写真が挿入される予定でしたが、「達人の山旅1『山と私の対話』」とのページ数の関係から、「達人の山旅2『森と水の恵み』」では大幅に写真が割愛されてしまいました。私の文章は4つに分かれており、それぞれに1枚ずつ写真を挿入するつもりでした。高桑さんは、「武田さんの名誉のために言っておけば、文章だけでも充分読ませる原稿から写真を外させてもらったということです。まあ、記念と思って勘弁してください。」と言ってくれましたが、以下の写真とともに「ふるさとのブナの森」から松代のブナの森を感じていただけたらと思います。


子供たちは少しずつ松代が祖母と父親の
生まれ育った地だとわかりかけてきた。


母の実家の窓からは冬には珍しく
父が遭難した野々海の山が見えた。


実家の玄関からわずかな距離に
ブナの森があった。


三十年以上も前にブナの樹幹に刻んだ
父親の文字を子供はなぞっていた。