日本海に浮かぶ粟島を望む 蒲萄山

 国土調査によれば、蒲萄山地とは大須戸川〜蒲萄川を結ぶ線以西で、日本海との間の範囲である。標高一○○○メートルに満たない低山が連なる山地だが、日本海から一○キロ以内を走るほぼ南北の約二五キロの稜線から、絶えず日本海を見ながら歩くことができるのがこの蒲萄山地の魅力である。
 この蒲萄山地の麓にある職場に異動して一○年が過ぎた。そこで、この山地を縦断しようと決意し、これまで約三分のニを歩いた。残るは三額山〜新保岳と城山〜蒲萄山の区間である。三額山から蒲萄山地の最高峰新保岳に至るルートは最後に残しておくことにして、城山から蒲萄山へのルートを優先することにした。
 山北町越沢集落の道路に設置してある城山の看板の前に車を停める。城山の里と記された看板にはいくつかの登山道があるが、二年前と同じ天王山経由で城山に登ることにした。二年前には整備中だったこの登山道は、山頂までの刈り払いが終わっていた。山頂には「越沢ふるさと創越会」の記念の看板が設置されていて、マルバマンサクの花びらが風に揺れている。
 山頂から南斜面の藪に飛び込むと、わずかで踏み跡が確認できた。四○○メートルに満たない標高なのに、キタゴヨウとクロベの森林は一○○○メートル近い標高のような錯覚を起こさせる。さらに落葉広葉樹二次林になると、三九六メートル峰の手前には大きなブナがあった。まわりに細いブナしかないことから、どうやら樹形が悪くて切り残されたようだ。
 三九六メートル峰には赤いポリ杭があり、まだ明瞭な踏み跡が続いている。その東側はスギ造林地で、樹高四メートルくらいの大きさである。この辺りから積雪が現れ始めたが、幸いクラストしていて輪カンジキを履く必要はない。
 五○○メートル峰では、北西方向から大きな尾根が合流した。蒲萄山地の南端は下渡山で間違いないが、北端を城山とするには異論があるだろう。確かに地形図上で山名が記されている最北の山は城山だが、蒲萄川はわずかに北上しながら日本海に注いでいるので、寒川集落が最も北になる。したがって厳密に蒲萄山地縦断と言えば、この五○○メートル峰から寒川集落まで歩かなければいけないのかもしれない。三角点が設置されている山でも、三六三b峰(点名松影)の方が城山よりもわずかに北である。
 朝日村との境界には集材に利用した先柱(支柱)が残されていて、西側斜面が伐採されていた。その西側斜面は急なので、東側のブナ二次林を利用して登る。
 蒲萄山山頂に建設されている携帯電話の無線中継所が近づくにつれ、二年前の苦い記憶が甦ってきた。西側には日本海と空との区別がつかない空間に粟島が浮かんでいる。二年前と同じ風景である。
 二年前の一月、新保岳からこの蒲萄山への縦走を試みた。家内が出産を控えており、しばらく山には行けないからと懇願しての山行だった。視界の利かない中、ぶどうスキー場の音楽が聞こえ始めた場所で、遅い昼食となった。
 あと蒲萄山まで二キロしかないのと、蒲萄山山頂まで行けば確実にぶどうスキー場に下りられると安心してつい宴会が延びてしまった。そのため薄暗くなるとともに、吹雪とホワイトアウトのなかで蒲萄山まで辿り着けず、その手前の蒲萄集落に伸びる尾根を強引に下り始めたものの、急斜面でビバークを余儀なくされたのであった。無線機で連絡もできず、アパートに家内をひとり残したままの不安な一夜が過ぎた。
 翌日は雪も止み視界が利いた。下ってきた斜面を登り直し、蒲萄山山頂に着いて、漸く無線で無事を連絡できた。あの時と同じように蒲萄山から見える粟島は静かな空間に浮かんでいた。
 あれから二年。長男も先月無事に二歳の誕生日を迎えた。そして今年の正月から母も新しく建てた家に同居していた。蒲萄山山頂で二年前と同じ粟島を見ながら、今までの山行を振り返り、もう家族に山のことで心配させてはいけないという思いを新たにする。
 山頂でしばらく休んでから、ぶどうスキー場に下りパトロール室にいた朝日山岳会の遠山実さんにあいさつをした。そして家への土産にと、雪の融けた道路脇のフキノトウを採りながら越沢集落までの道を歩いた。

         (一九九九年三月上旬)

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