2012年

12月31日、お昼を食べて床屋に行く。ちょっと休んで、正月と山で飲む「〆張鶴しぼりたて」を買いに行ったが、一番近い酒屋では売り切れていて、瀬波まで行く。ラーメンに入れる餅をもらったので、年越しそばにでも入れるか。

12月30日、見附の弟家族がやってきた。そして、ちょうどルンバが送られてきて、大勢のなかでのお披露目となったが、まずは充電に3時間かかるらしく、弟家族はルンバが動くのを見られずに帰って行った。

12月28日、家内から「ルンバが当たった」とメールが来た。TeNYの「新潟一番」という番組でハガキが選ばれ、電話で5番を選んだら、ルンバだったらしい。家に帰って、録画されていた番組を見る。

12月23日、村上市に元全日本バレーボールの選手がやって来た。東京オリンピック金メダルの河西昌枝さんから、一番若い大山加奈さんまで。もちろん新潟県出身の河合俊一さんも。対戦したママさんたちがうらやましい。

12月15日、一週間経過。で、トラブル発生。試験運転したのが、まだ残っている。だから、「これはダメだから、早いうちになんとかした方がいいよ」って言ってるじゃない。他にもあるんじゃないかと心配になる。

12月13日、枯れているナラを探しに下渡山に登る。登山口から中途半端な雪があり、滑りやすい。枯れているナラにはムキタケが出ている。山頂で少し休んだあとで、下りで花芽がついているマルバマンサクの枝を採る。

2月8日、ペレットストーブを設置した。村上市でも最大10万円の助成が始まり、二次募集で申し込んでいた。二次募集はとりあえず締め切りまで定員に満たなかったようで、抽選なしで助成の権利を得られた。

12月3日、朱鷺メッセで初めてのブース出展。11時過ぎから展示し、ラーメンを食べて午後から基調講演を聞く。その後ブース展示へ移動。両脇に仕事で関係しているブースを配置してもらったため、うまく連携できた。

12月1日、無線の忘年会。以前は大勢集まった忘年会も4人だけ。歳を取ったせいもあるが、体の具体が悪くなる人も多くなってきたからだ。でも、大手術をした仲間が奥さんと一緒に顔を出してくれた。嬉しいことだ。

11月23日、母と二人で松代に行く。母の実家にまず行って、それから墓参り。国道235号の新しい橋を見て、近所の家にあいさつ。米を5袋積んで、小千谷でラーメン。見附の弟の家に行って、野菜をおろして帰る。

11月18日、息子を連れて新潟へ行く。13時からの用事だけど、11時前に着いてしまう。ガストでお昼を食べて、息子を送り届けて、ジュンク堂を往復。帰りに電気店によって横浜国際女性マラソンを観戦。

11月12日、振替休日。10年前に買ったプリンターとスキャナーをハードオフに持っていくと、どちらも50円だった。それから檜原のごみ焼却場へ2回行く。でも少しも家の中が片付いた気がしない。

11月11日、新発田市五十公野公園を発着とする新潟県マラソン選手権。練習不足なのにキロ5分を切るペースで走り出してしまう。中間点は1時間42分17秒。しかし、やっとで25キロ、30キロと進み、32キロから1キロごとに30秒間の歩きを取り入れ、3時間46分38秒でゴール。歩きを入れたフルマラソンで自己ベストでなくてよかった。

11月4日、朝ごはんを食べてから都合の悪い人をのぞいて、目の前に見える重倉山に登った。途中でナメコを採ったり、福島から来た女性に樹木の名前を教えながらのんびりと歩く。11時に解散。290号経由で、新発田で買い物をして帰る。

11月3日、昨年亡くなった山仲間を偲ぶ会でヒメサユリ森林公園に行く。早めに着いた駐車場で仲間を待っていると、高校時代の恩師と会った。もう20年以上も会っていないのに私とわかって声をかけてきた。夜はバンガローで山仲間の思い出と近況を一人ずつ述べた。

10月28日、タル山に登る。南尾根には最近測量をしたのか刈り払いをした跡がある。右側はスギ林で下りはこの境界を目印にすればいい。。山頂はわずかにミズナラが残っているだけで、マルバマンサクなどの藪。藪の中から巣戸々山が見える。

10月27日、旧三面集落付近の跡地で飲み会。15時半過ぎに集合場所に着いたら、幹事の自分が一番遅かった。高桑さんも急遽来てくれて十三夜を見ながら宴会。

10月22日、十日町へ行く途中でパーキングエリアの昼食を食べた。そこのライスボウルを頼むとスクラッチカードがトレイに置かれてあった。よく見ると2枚くっついている。家に帰ってから擦ってみると、2枚目が当たりだった。2枚くっついていなければ、自分は上の外れだったのだが、運がいいことが最近続く。

10月20日、娘が通う中学校の文化祭。午前は作品展とバンドなどのステージ。午後は合唱コンクールだ。娘のクラスはくじ引きでトップバッターなり緊張しただろうが、見事学年最優秀賞。息子のクラスは3年連続で最優秀賞だったから、我が家は4連勝だ。

10月14日、息子のベッドが壊れたので、直すついでに部屋の模様替えをする。ベッドは私が子供のころに使っていたものだし、息子は小さいころベッドで飛び跳ねていたのでガタが来たのだ。簡単に釘だけで補修し、ベッドとタンスの位置を変えて、もう一つの机を置くスペースを作った。

10月13日、娘が陸上大会に出るので新発田へ行く。娘の種目は昼過ぎなので買い物をして陸上競技場へ。娘は800m2組で2分51秒7位でゴール。800m全体では真ん中くらいか。でも、記録がどんどん良くなっているので、これから楽しみだ。

10月7日、第30回記念新潟シティマラソン。今年は高校生になった息子と7.5キロ地点でコースが分かれるまでまで一緒に走る。生憎の雨だったが、脚はそれほど痛くならず、36キロ地点でのQちゃんとのハイタッチもあって、これまでで2番目に速いタイムでゴールした。

10月4日、ある出版社から、「営業の者が県立図書館であなたの本を見て、『とても興味深い本だった』という報告があったので、『読んでみたい』から送ってください」という手紙が来た。その出版社名で検索すると、続いて「詐欺」という言葉が出た。おそらく本を送れば(送る本なんてないけど)、「品切れ状態にしておくのはもったいないから、わが社でもう一度出版しませんか」とくるだろう。出版社もいろいろと考えるものである。

9月30日、まわりに2人ほど東京マラソンを第1回から第7回まで連続外れた人がいる。そこで第1回から第7回まで外れる確率をかけて、さらに第1回の応募者数にかけたら、約23000人となった。確かにこんなにいれば、7回連続で外れる人がいるのもしかたないか。

9月29日、近所のWさんの個展を観に行く。風景画が主体な個展であったが、本当は抽象画が好きなようで、端に飾られていた版画が良かった。風景画も町屋よりも、臥牛山遠景のぼんやりした景色が良かった。

9月27日、午前病院で休みだったので、ついでにびゅうプラザに行って、新幹線とホテルを予約した。ホテルは東京都庁からわずか数百メートルの距離だ。この距離なら朝の東京都庁周辺の様子もじっくり見ることができる。あとは当日の天気しだいだ。

9月26日、「東京マラソン2013」に当選した。約10倍の確率だから10年近くは当選しないと思っていた。最初に当選した2010年の翌年から完走メダルのデザインが変わった。だから違うデザインのメダルが欲しかったのだが、早いうちに当たってくれた。

9月21日、やっと『岳人』10月号が届いた。折立キャンプ場でのクマとの遭遇の様子を「かわら版」に書いてくれと頼まれていたからだ。文字数を考えて書いたわけではなかったが、ちょうど1ページに収まるようにしていただいた。

9月16日、白鷹若鮎マラソンでハーフを走る。相変わらず30度前後の気温の中をキロ5分ペースを維持して、1時間44分58秒でゴール。もう4分30秒ペースで走るなんてとてもできなく、ハーフの自己ベスト更新は無理だと思う。

9月9日、山仲間の亀さんの講演を聞きに行った。「胎内の今昔 ブナの切付けを探る」というタイトルだ。山に登ったり、酒を飲みながら若干の話は聞いているが、実際に画像を見ながらは、初めてだった。亀さんらしい講演会というよりも、亀さんしかできない講演会だった。

9月8日、息子がある試験を受けるので、新潟まで連れて行った。合格するにはまだまだ勉強不足だが、次の試験で合格することを目指した。中学校では運動会があって選抜リレーに出場していた娘は転んだというメールが入った。後ろから押されたそうだが、どちらも試練だ。

8月25日、娘がジュニアオリンピック参加標準記録突破陸上記録会に出場するというので、長岡市陸上競技場に行く。競技開始30分後に競技場に着いたら駐車場は満杯。暑くて、とても他の競技を見ている体力はない。3時間涼しいところで時間をつぶし、娘の800mを見て帰る。

8月16日、バンガローを片付け、「ナカゴグリーンパーク」の芸術を観て、「絵本と木の実の美術館」へ。十日町道の駅で買い物をして、「下条茅葺きの塔」、「うぶすなの家」、「もぐらの館」、「バタフライパビリオン」を観て村上に戻る。

8月15日、大地の芸術祭2日目は松代の「農舞台」へ行く。そして、実家の跡へ。それから松之山の「キョロロ」へ行くと、すごい車。こんなに混んでいるキョロロを見たことがない。「夢の家」、「エリクシール/不老不死の薬」、「オーストラリア・ハウス」。再び松代に入って、「脱皮する家」、「明後日新聞社」へ。墓参りをして、明石の湯に入り、買い出しして、バンガローへ戻る。

8月14日、家族で十日町へ行く。まずは、「キナーレ」で時間を過ごす。そして、「再構築」、「蔓蔓」、「芽吹きの風」、「たくさんの失われた窓のために」、「芯木」、「タイム・トンネル」、「在るべき場所」、「金属職人の家」、「建具ノモリ」を観る。川西に移動し、「光の館」を観て、節黒城跡キャップ場のバンガローに荷物を置いて、千手温泉に入り、買い出しして、バンガローに戻る。

8月12日、お盆は大地の芸術祭まわりで忙しいので、墓掃除とお盆の挨拶を兼ねて松代へ行く。実家の近所に挨拶し、墓掃除を終えて、母の実家でお昼。それから農舞台へ行くと、すごい人。レジには20人が並んでいる。お盆もこんなに混んでるかなあ。

8月5日、朝もクマが出るのではないかと、カメラを持って待ち構える。林の中でミシミシと動物がいる音がする。しばらくすると1歳半くらいのクマが現れた。結局折立を出るまで3回クマが出てきた。立山博物館を観て、15時過ぎに村上に戻る。

8月4日、5時ちょうどに薬師峠を出る。薬師岳山荘を経て、薬師岳へ。剣、立山から槍、穂高までよく見える。薬師峠に戻り、テントを片付け、太郎平小屋でラーメンを食べる。15時過ぎに折立に着いて、キャンプ場にテントを張る。暗くなると「クマが出た」と騒ぎになる。

8月3日、5時25分に薬師峠を出る。太郎平小屋方面に向かうと、薬師峠から見えた一番遠い山が目指す黒部五郎岳だと気づく。北ノ股岳、赤木山を経て、壁のように見えた黒部五郎岳の斜面を登る。山頂からは槍から穂高が屏風のようだ。

8月2日、息子と一緒に折立へ。9時過ぎに着くと、駐車場は満杯。数百メートル手前の空き地に車を止めて歩き出す。20年前に一度歩いているが、まるで記憶がない。太郎平小屋を経由して、14時に薬師峠について、テントを張る。

7月28日、息子と一緒に鳥海山に登った。天気は良いと思っていたら、ガスそしてすごい風。息子がばてて、新山までは登れず、ラーメンも作れず。他の登山者が登山道を忠実に歩いている中、二人で千蛇谷の雪渓を下ってショートカット。

7月23日、今年は大地の芸術祭だが、実家がもうない。そこで、旧川西町のバンガローを予約状況を問い合わせたところ、運よく空いていた。大地の芸術祭を観て、十日町のスーバーで食材を買って、千手温泉に入って、バンガロー泊まるコースだな。

7月22日、昨夜食べる予定だったおにぎりをお茶漬けにして朝食。すると取材中のMカメラマンご夫婦が。さらに山仲間のカメさんが。天気予報は悪そうだったのに、いやいやいい天気。Mご夫婦と一緒に丸森尾根を下り、川入荘まで送る。

7月21日、梶川尾根から門内小屋へ。テントを張って北股岳ピストン。テントまで戻ってきたら、管理人から「こっちに来い」と言われ、宴会。17時から21時までビール、日本酒、ウイスキー。今回は座ったまま寝ませんでしたから。

7月14日、ろうまん山房の仲間が飯豊に入るというので、差し入れを登山口まで持って行った。去年と今年のウドがあったが、あえて去年のウドにした。古いウドでも「こんなに美味しいんだ」とわかってくれると思うから。

7月4日、息子も10キロの参加料を振り込んだ。息子は笹川流れマラソンに続いて2回目の10キロになる。私がキロ5分30秒程度でサブフォーペースで走る予定だから、10キロ1時間をなんとか切る息子と同じペースだ。だから、一緒にスタートし、途中まで走ることができそうだ。

7月2日、土曜日に新潟シティマラソンの案内が届いたので、さっそく参加料を振り込んだ。第30回大会でゲストランナーは高橋尚子さんだし、昨今のマラソンブームを考えると、すぐに定員になり締め切られるかもしれないからだ。2週間くらいは大丈夫だと思うけど。

6月17日、大石ダム湖畔アップダウン関川マラソン。2週間前に光兎山に登った時に、「今年は200人も増えたようだ」と村長さんから聞いていたので、早く行ったら控室一番乗りだった。7回目にして初めての雨。記録は1時間13分台。

6月9日、『渓流夏号』を買う。「高桑信一と、沢のゆかいな小物たちvol1」が参考になるが、いつまで続くのか心配になってしまう。確かにウエストポーチは使いづらいというか、ぎこちなかった。肩掛けポーチを探してみたくなった。

6月3日、町内の草刈り&バーベキュー。草刈りを終えて、母の用事を済ませた後に、バーベキューの準備をする。ビールを飲みたいところだが、ビールを飲むと午後から何もできない。お茶で我慢して、午後からピドニア採集に出かける。

6月2日、息子と一緒に光兎山登山。山頂で休んでいると、「頭布山の下見に来ました」という団体が登ってきた。「化穴山は中退、来週は二つ峰だ」と言う。下り始めたら、関川村の村長さんがひとりで登ってきた。どうやら関東方面の団体らしい。

5月27日、母と二人で1年分のウドを採りに松代へ行く。まだ日陰には雪がある。去年7月の豪雨で崩れた土砂で埋まった田んぼが痛々しい。前日親戚が採っておいてくれたので、わずかな作業でウドを採り終える。

5月19日、エンジンオイルを替えて、胎内市の運動公園まで娘の応援に行く。結局娘は800mだけ。3分5秒か。少なくとも3分は切らなきゃな。それから荒川と神林でピドニア採集。トウホク、セスジ、ミワが採れる。最後は海岸までランニング。

5月12日、娘が通う中学校のチャレンジ50に参加する。今年で3回目だが、今年は生徒がスポンサーを探し、歩いた距離に応じてスポンサーから寄付金をいただき、それを広野中学校に届けるということになった。天候が悪かったが、生徒は頑張って歩いていた。

5月2日、使わないスピーカーがあるので、以前から無線仲間に「アンプを作ってほしい」と頼んでいたら、完成したそうで持ってきてくれた。真空管のアンプだ。ほとんどジャンク品の寄せ集めだが、電気がわからない私には手品で作ったようなアンプだ。

4月30日、夕方息子と走っていたら瀬波温泉で千円札を拾った。息子に「二人で山分けするか?」と言ったら黙っている。それで「警察に届けるか?」と言ったらうなづいた。家に戻ってから自転車で警察に行ったが、千円札を拾って届ける人はほとんどいないのかもしれない。

4月29日、山仲間12人で湯沢の正面山に登った。ルーデンス湯沢スキー場から登るとしだいに尾根が細くなってくる。そして最後が10mくらいの岩場だった。そこしか下れないのであればそこを下るしかないが、神立高原スキー場方面は楽そうなので高所恐怖症の私だけ神立高原スキー場へ下った。

4月22日、村上・瀬波温泉アクセス道路ができてから、まだその道路をランニングしたことがないので、16時近くなってから走りに行く。途中で2年くらい前に引っ越した仲良しの犬にあいさつし、国道7号まで行き、復路から山居山遊歩道を歩いて山居山に達し羽黒神社に出る。

4月21日、息子と一緒に鷹取山に登った。登山口の1キロ手前で土砂崩れのため、車を止めて林道を歩く。ショウジョウバカマやイワウチワが咲いている。最後の急斜面の手前にはカタクリが満開だった。昨秋登った時は16人も登山者がいたが、今回は息子と静かな山頂でのんびりできた。

4月19日、『山の本春号』に掲載させていただいた「要害の峰のブナ」のコピーを「桃川真多羅会」事務局に送ったところ、去年の第二回と今年の第三回の写真と資料が送られてきた。事務局は「おしゃぎり会館」の館長さんだった。これからいろいろと教えてもらうことにしよう。

4月15日、グイルスは去年のうちに芽を出したが、ブイルスは芽を出さなかった。発芽能力がまだできていない若い種子を採ったのだと思っていたが、今日いくつか芽をだしたのを確認した。枯らしてしまったと思っていたタデ科の植物も地下部が生きていたのか、葉がでてきた。

4月14日、イオン三川に映画を観に行く。ただし、ホームページの上映時刻があいまいなので、早めに行ったら16時からだという。そこで久しぶりに加茂水族館へ行き、お昼は酒田港でまぐろ丼を食べた。映画が終わって、家に戻れば21時近かった。

4月13日、家に帰ると、「足にマメができた」と風呂に入っている娘の声が聞こえてきた。陸上部に仮入部している娘は、昨日は短距離だったが、今日は長距離で先輩の後を追いかけながら長い距離を走ったのだ。今までいかに楽に走っていたかわかったことだろう。

4月9日、息子と娘が同時に入学式なので、家内と手分けして出席する。天気がいいので、高校まで息子と一緒に歩いていく。高校は広くて、まるでわからない。体操着の受け取り場所など、息子だけだったら探すのに時間がかかっただろう。

4月8日、浜新保から新保岳に登った。登山口の2キロほど手前から林道を歩き始め、尾根に取りつく。次第に新雪が多くなり、カンジキを履く。途中で林道が横切り、?な看板を発見。山頂では細かい雪が降って、あまりにも寒いので10分で下山。

4月2日、壊す前まで実家に住んでいた女性が村上の我が家に来た。わが母校に勤める彼女の話では、入試で地元の子供が何人か落ちたという。でも隣の高校の二次募集に合格したらしい。なんだか高校の選択が難しい世の中になってきた。

4月1日、笹川流れマラソン大会。京都マラソンから1か月経っていないことや、息子が初めて10キロ走るので、息子と一緒に10キロを走ることにした。1時間10分を目標にしていたが、ペースはそれよりも速く、なんとか1時間を切って息子と一緒にゴール。

3月23日、娘の卒業式。息子の卒業式は入試が控えているから泣いている親はいなかったが、さすがに小学校の卒業式は子供も親も泣いている人が多かった。最後の授業は2年間のスライドショーだった。さすがにこれにはみんなが泣いた。

3月18日、能化山に登った。記録を調べたら、7回目で、7年ぶりだった。登り始めからガスで、山頂からは何も見えず、お湯を2杯飲んですぐに下った。家に戻ったら、「もう帰ってきたの?これ乾かしてきて」と家内から洗濯物を渡された。

3月16日、久しぶりに娘をおんぶした。低学年の頃は朝起こしに行って、食堂までおんぶして下りたものだが、しだいに嫌がるようなった(当たり前である)。でも、今日は夜中に炬燵で寝ていたのを2階の娘のベッドまでおんぶして運んだ。

3月14日、『山の本春号』が送られてきた。これまでは「静山紀行」に投稿していたから2ページで4冊送られてきていたが、「いちぺーじ紀行」だから半分で2冊送られてきた。1冊は登場していただいた恩師の奥さんに送ることにしよう。

3月11日、宿からスタート地点までは2キロくらいだから歩いていく。8時30分スタート。坂はあるが、社寺や川の脇を通るのが気持ちいい。フルマラソンは7回目だけど、一番楽しく走れた大会だった。だが30キロ以降が辛いのは同じ。

3月10日、第1回京都マラソン。息子が公立高校を合格しなければ、既に合格していた高校の手続きでDNSだったが、京都まで行くことができた。受付をして、知恩院、八坂神社を観て、スタート地点の西京極陸上競技場に行って、宿に入る。

3月9日、午後1時合格発表である。直前の模試の成績では合格確率が50%以下だった。しかし、それは模試の受験生が少なく、全体的に成績の良い生徒が受けているからだ。志望校の受験生だけであれば、50%は確実に越えるはずである。しかし不合格の可能性は全くないわけではない。不安なまま午後1時が過ぎる。そして午後1時15分、家内からメールが来る。合格。息子は「当たった、当たった」と喜んでいたそうだ。入試は抽選じゃないんだけどなあ。

3月7日、国語と英語は何も教えなかった。12月からでは積み重ねの科目を教える時間がなかった。そこで暗記でなんとかなる社会中心に教えた。理科は得意だから、直前まで教えなかった。数学はケアレスミスを防ぐよう、簡単な問題を確実にできるようにした。受験が終わった息子は「数学が難しかった。社会と理科はできた」と言った。息子が「数学が難しい」というなら、たぶん他の受験生も同じように難しいはずだ。理科はある程度期待できるとして、鍵は社会だった。社会がなんとかなればきっと受かるはずだ。

3月6日、もう最後の日だ。思い起こせば、12月の三者面談は最悪だった。「こんな成績なら志望校を変えなきゃいけませんね」と担任は言ったのだ。ずっと学年の中くらいだと思っていた息子の成績が急激に下がっていたのだ。それから息子と一緒の勉強が始まった。でも、明日は入試だ。もう息子に教えることはできない。

3月5日、息子の卒業式。家内と一緒に出席した。1年からずっと同じ担任でよかった。正式な卒業式が終わり、在校生の合唱、そして最後は卒業生の合唱である。卒業生がステージに並び、保護者は卒業生が座っていた席に移動する。そして、合唱が終わるといきなり、「卒業生、退場」の号令で卒業生が体育館を出て行った。

2月26日、NHKの「小さな旅」で松代が取り上げられた。「記録的な雪と格闘するなか、地域の人が楽しみにしているのはスキーだ。天気がよくなると、町にある小さなスキー場は、お年寄りたちでにぎわう。集うのは、かつて出稼ぎをし、長年にわたってスキーができなかった農家の人たち。孫と滑る日を楽しみにする人や、仲間との交流を求める人がスキーを楽しむ」。その後で東京マラソンを観る。一度走ったことがあるコースをテレビで観るのはやっぱりいい。

2月20日、池田清彦さんの『進化論を書き換える』を買う。帯には「自然選択は進化の原因ではなく結果である」と書いてある。ベルクソンの『創造的進化』に、「描きおえた肖像はモデルの顔つきや芸術家の人となりやパレットに溶かされた絵具から説明がつく。しかし説明の材料は知れていても、それでもって肖像画のできあがりを精密に予見することは誰にも、当の芸術家にだってできなかったであろう」とあるのを思い出した。

2月17日、『渓流春号』を買う。山関係の本はたまに買うだけだが、この『渓流』だけは欠かさず買っている。後ろの本棚を振り返れば、15年くらい前から買っているようだ。自分が行ける沢なんてほとんどないのだが、写真を見ているだけで行った気分になれる。

2月15日、久しぶりに『山の本』(白山書房)に文章が載ることになった。去年桃川集落の佐藤さんに案内してもらった「要害の峰」の紀行文だ。かつて投稿していた「静山紀行」と比べれば半分の1ページ(「いちぺーじ紀行」)だが、山への復活のきざしとなるだろうか。

2月12日、新発田へ行った。3か月続けて「チャーシュー屋武蔵」でラーメンを食べた。最初はチャーシューメンだったが、次はショウガラーメンだった。そして今回はショウガラーメンにチャーシュー飯を追加した。シャーシュー飯は海苔があったせいか、ちょっと焦げ臭かった。

2月7日、無料で届けられた『サンデーいわふね』を見て驚いた。粟島で鹿が40頭も繁殖しているというのだ。ペットとして持ち込んだ鹿が脱走したらしい。そういえば、去年旧山北町で鹿を目撃したという新聞記事があったはずだ。以前からイノシシはブラックバスと同じように人間による分布拡大だと思っていたが、もう堂々とこの主張を展開してもよいだろう。

2月6日、山仲間の亀山さんから『関川村山の会50周年記念誌』を届けてもらった。関川村山の会は、設立当初から単なる山登りではなく、山のふところにとけ込む独自の登山スタイルを貫いてきた稀有な山岳グループである。以前講習会でD6さんから教わった資料も挿入されてあった。

2月3日、会社の職員が処分された。それがwebサイトのアップされたのだが、その文面では真っ先に私が思い浮かぶのだ。個人を特定できないよう、かつ必要最小限の表現なのだろうが、もう少しぼかすとか、しぼるとかできないのだろうか。私を知っている人は、その文面ではまず私だと思うだろう。

1月29日、毎年「日東電工社員マラソン」を楽しみにしている。今年も笑わせてくれた。家内は「大阪だから、こんなCMができるんだよ」と言っている。しかし、本当のCMは3年間まるでかわりない。来年は「海水を真水に変える技術」がどこまで進んでいるのか教えてもらいたいものだ。

1月27日、「東日本大震災復興祈念日本列島リレー横断」の報告書刊行祝賀会が開催された。走った生徒たちとスタッフ、関わった先生たちによる会で、リレーの写真を見ながら、リレーや復興に対する思いを語った。一番おかしかったのは、校長先生がこのリレー横断を持ち出したとき、「何を言い出すんだ!」とまわりの先生が反応したことだった。でも、力を合わせれば不可能と思われることも実現できると、走った生徒たちにも伝わったことだろう。

1月19日、息子の中学校が夏に実施した「東日本大震災復興祈念日本列島リレー横断」の報告書ができた。タスキをつないだ生徒たち、保護者、先生方のそれぞれの文章を読んでいると、あの時の記憶がよみがえってくる。この体験はきっと生徒たちのこれからの未来にいきるだろう。

1月15日、長岡へ行ったついでに、息子と同じ名前のラーメン屋に行く。15分前から人が並び始め、雪の中で開店を待つ。12時過ぎに店を出て、都道府県女子駅伝をラジオで聴きながら村上へ。なんとかアンカーがゴールするまでに家に着く。

1月7日、去年、これまで使わせていただいたWebサイトの無料サービスが中止になり、別な場所へ引っ越した。さらにパソコンも更新したので、新しいソフトにしたのだが、この使い方がよくわからない。結局1時間近く悩んだ末に、なんとか2012年の日記をアップすることができた。

1月2日、ここ数年のとおり、大峰山登山。金塚駅で待ち合わせ、桜公園へ。雨が降っているので雨傘をかぶって林道コースを歩く。登るにつれて雨が雪に変わる。小屋に着いて荷物をおろし、山頂往復。小屋に戻って宴会。14時まで小屋にいて、金塚駅まで下りて列車で帰る。

1月1日、元旦マラソン。去年10月の元旦マラソンで左ひざを故障し、いつもの10キロから5キロに変更する。だけど距離が短いからすごく苦しい。はやく止めてもらいたいと思いながらゴールへ突っ込む。記録は50歳代10位。10位入賞は子供だけで、大人は8位入賞だから、表彰は無し。