12月31日、いつもなら子供と一緒に蕎麦かうどんをうつのだが、息子がホームベーカリーでうどんを作るというので、まったく手を出さずに夕ご飯を迎える。ビールを飲みながら、うどんとお昼に残ったパスタを食べ、紅白歌合戦をまったく見ないで寝てしまった。
12月18日、全日本実業団女子駅伝を観る。3強と言われていたが、3強のうち優勝争いに絡んだのは第一生命だけ。天満屋は3区と6区、豊田は1区と2区を入れ替えていたらどうなっていたかわからない。駅伝は本当に選手の配置が重要だと思う。
12月12日、三条市へ向かっていると、「手ぬぐいと夕刊が届いた」とメールが来た。応募者が少なかったので手ぬぐいは送られてくると思っていたが、夕刊も送られてきたのだ。だが、その夕刊は金曜まで見ることができない出張である。
12月4日、福岡国際マラソンを観る。川内は今年の東京マラソンを8分台で走り脚光を浴びたが、私は去年の東京マラソンから注目していた。自分も走った東京マラソンの録画を観たら(もちろん自分は映っていないが)、佐藤にくらいつく姿がすごく、印象に残ったのだ。
11月27日、いわふねクラブの忘年会をまほろば温泉のコテージでした。7時半に帰らせてもらい、息子と一緒に鷹取山に登った。我々だけだと思っていたら、山頂は16人と1匹の大賑わいだった。誰もいなくなったあとで、息子と二人だけの静かな山頂を楽しみ下山した。
11月25日、第1回京都マラソンに当選した。東京マラソンだけは毎年応募しているが、大阪と京都だけは第1回だけ応募しようと決めていた。大阪は落選だったが、なんとか京都は当選した。さっそく西京極陸上競技場に近くのホテルを予約する。
11月20日、母と二人で松代へ帰る。雪が積もる前に実家の跡を見に行きたかったからだ。実家はきれに片付き、水道だけが地面から顔をのぞかせていた。
11月19日、家内も出演する「村上市とんと昔の会」発表会を観に行く。村上地域に伝わる昔話を語り聞かせる催しだ。50歳代全般までが第一部、それ以上が第二部で、その間に娘が出演するわらべ歌の発表会があった。昔話は文字として残すことはもちろんだが、語りとして残すことも重要だと感じた。
11月13日、新潟シティマラソンが終わってから、左ひざの痛みが消えず、新潟県マラソン選手権大会を棄権した。これまでフルマラソンを5回走っても何もなかったのに、1キロくらい走ると左ひざが痛くなった。ようやく2キロくらい走れるようになったが、とてもフルは無理だ。
11月4日、実家が見える場所まで来るともう屋根が壊されているところだった。それから解体を頼んだ会社に行って挨拶をして、解体が行われている実家に向かった。母の実家でお昼を食べ、再び実家に行く。最後の壁が壊されるのを見て村上に戻る。
10月29日、たき火を囲む会。今年はある河原が宴会場になった。駐車場から15分とはいえ、車横付けではないので、薪は現地調達。雨は降りそうにないので、タープを張る必要もなく、そのままごろ寝ができそうだ。
10月22日、5週続けて松代に帰った。こんなに頻繁に通ったのは父が亡くなって以来のことだ。だが、もうこれでこの家には入れない。月曜日から解体業者が入って片付けが始まる。家のすべての部屋の写真を撮る。
10月16日、小学校の文化祭を観終わって、家族全員で松代に帰る。十日町で買い物をして、いつもの肉屋で肉を買って実家で焼き肉。これが家族での最後の晩餐。家族で並んで寝るのも最後。
10月10日、重い足を引きずり、息子と一緒に竹灯篭祭の後片付けに行く。他にもボランティアの人が10人ちょっといた。1時間ほどで帰らせてもらい、自転車で15キロほど走ってみた。つま先は痛いが、自転車をこぐくらいなら適当な運動になる。
10月9日、新潟シティマラソン。去年4時間を切れなかったので、最低でも4時間切り(サブフォー)を目指して走り出す。去年は混雑したスタートも申告タイム順なのでスタート地点まで1半分くらい。キロ5分ちょっとのペースで走るが、20キロ過ぎから右足先が痛くなってきた。さらに30キロ過ぎからはいつものように両太ももが。結局3時間47分23秒と自己ベストには約5分遅いものの、フルマラソン2番目の記録だった。
10月8日、3週連続で実家に帰る。整理ダンスを車に積み込んだあとで母は親戚の法事に行った。そこで美人林に行ってブナの実を拾った。今年は6年ぶりの豊作になる。拾っているとパラパラとブナの実が落ちてくる。20分ほどで100個ほどブナの実を拾った。
10月1日、職場の一般公開。9月25日の村上新聞を見て、来てくれた人が何人かいて嬉しかった。建設会社の人が来ることは予想していたが、近所の人も来た。旧山北町出身の人で、「灰の文化」について調べているので、何か参考になるような話が聞けるのではないかと思ってきたらしい。
9月25日、親戚に手伝ってもらって、仏壇を車に積み込む。墓に向かうとなんだか車が重いように感じる。仏壇に先祖が3人いるからか。小千谷のヒグマでチャーシューメンを食べて、午後3時過ぎに村上に戻る。仏壇が入らないかと焦ったが、なんとか扉の蝶番を外して入れた。
9月24日、見附市に住む弟もやってきて、寺の住職から仏壇の開眼もどしをしてもらう。それから仏壇を庭に運びだし、母は仏壇の掃除、弟と私は部屋の中の必要なものを探し出す。弟が帰り、母と二人で芝峠温泉に行く。母と二人だけで夕食。これが最後になるかもしれない。
9月23日、母と二人で松代に帰る。高速に乗ったものの、新発田IC手前で事故があったらしく渋滞になる。対向車線はとぎれとぎれに車が走ってくる。それが引き返した車だと気づくのにしばらくかかる。結局買い物や親せきに寄ったりして夕方家に入る。
9月18日、白鷹若鮎マラソン大会。10時30分のハーフスタート時には32度を超えている。エイドでスポーツドリンクを口にふくみ、頭から水をかけ、スポンジで背中を冷やす。記録は1時間43分7秒。ハーフに出場した約120名の男子の中で31番だった。
9月12日、午後から病院なので、小学校の村上地区親善運動会を観に行く。娘は800mで3分20秒をわずかで切れず、29日のパルパークでの大会に出れなくなった。しかし100mは学年でも上位らしく、400mリレーの選手でパルパークへ行けるらしい。
8月29日、二王子岳に登る。月曜日だから登山者は少ないだろうと8時過ぎに駐車場へ着くと10台近くが止まっている。でも山頂では最大で5人くらい。くもり空だが、ときどき日がさすと暑いので、小屋の中で昼寝をする。
8月28日、北海道マラソンを観る。吉田香織はいつものように失速してしまったが、今回は積極的に攻めたので次につながるレースになったと思う。渋井も嶋原もピークを過ぎてしまったのか。渋井には身体を絞り直して、もう一度ゴールの笑顔を見せてもらいたいと願っているのだが。
8月21日、かみはやし穀菜(こくさい)マラソン大会。6回目の出場だが、初めて雨模様となった。しかし小雨だし、グランドは水はけがいいから、走りにくいわけではないのだが、それほど調子がいいわけでもなく、44分2秒でゴール。44分の壁は厚いなあ。
8月7日、国道を走ると思っていた息子の区間は、実際は旧国道だった。ストートとゴールは同じものの距離が短いからその分コースは急だ。しかも、真っ暗い途中で大滝不動尊。これには息子もびっくり。でも息子は一定のペースで与えられた区間をしっかり走った。峠でタスキを受け取った私は3.8キロをキロ4分30秒を切るペースで気持ち良く走った。
8月6日、いよいよ「東日本大震災復興記念・日本列島リレー横断」当日になった。幸い雨は降らないようだ。息子は午後8時ころ関川村地内を走り、そして明日午前2時ころに山形県高畠町の二井宿小学校から山形宮城県境の二井宿峠の山登り区間を走る。
8月1日、「東日本大震災復興記念・日本列島リレー横断」最終打ち合わせ。スタッフは車のローテーションの検討、子供は走る区間を決める。残った2区間を大人二人が選ぶと、なんと息子からのタスキを引き継ぐことになった。マスコミ注目?の親子リレーになってしまった。
7月29日、「東日本大震災復興記念・日本列島リレー横断」のスタッフ打ち合わせ会議。車4台に付ける看板つくりの予定だったが、看板は業者に頼んだらしく、打ち合わせを行った。生徒13人、大人3人の合計16人が32区間をリレーする。
7月17日、酒田砂丘マラソン大会。たぶん5回目。今年は10キロに1000人近いランナーがエントリー。道路は狭くて追い越すのにたんぼのあぜ道を走るランナーがいる。どうせ暑いし、ベスト記録なんて無理なのだから、呼吸も乱れることなく46分19秒。
7月15日、「東日本大震災復興記念・日本列島リレー横断」の結団式に出席する。先日のスタッフ会議の時は、子供たちが夜走ることに不安が多かったが、子供たちの意気込みを聞いているとだんだんワクワクしてきた。当日は天候が良いことを祈る。
7月5日、2週間ぶりに瀬波海岸を走ってみる。空気中の水分が肌にまとわりついてくるくらい蒸し暑い。昨日までの10日間が夢のようで現実に戻される。「明日から仕事かあ」と走りながら考えたくなるが、昨日までも仕事だったのだ。
6月19日、関川アップダウンマラソン大会。3年前の自己ベスト超えを狙うも、結局1時間12分どまり。あと2分縮める方法は前半のアップを頑張るしかないのか。3年前のラップはどこかに記録してあるはずだから、来年は作戦を練ろうと思う。
6月18日、『渓流夏号』を買う。何年かぶりの復活である。高桑さんの「希望の里暮らし」を読む。今回の舞台は旧高柳町門出である。文中には「南の芝峠を越えるとほくほく線の走る『まつだい駅』に出る」と書いてあってうれしい。
6月11日、無線の飲み会。先日亡くなったYさんの写真を眺めながら飲む。まだ60前なのに、あんなに元気に山に登っていたのに、どうしたんだろう。一緒に山に登ったことはなかったが、偶然新保岳と鷹取山で偶然会ったことが思い出される。
6月8日、人間ドック。年々身長が縮んているが、なんとか今年も170cmをキープ。中性脂肪は標準範囲に至らず、HDLコレステロールは標準範囲以上。心拍数はたぶん42。でもBMIは21.37とそれほど痩せているわけじゃないんだな。
6月5日、町内の草刈り&バーベキュー。くもり空で外でも涼しい。1時間ほど草刈りをして、炭を起こして焼きそばとフランクフルトを焼く。ビールは飲まずウーロン茶で済ませ、昼過ぎに家に戻って昼寝。16時からゆっくりと3時間ラン。20キロを超えるLSD。
5月29日、母と二人で松代へウドを採りに行く。今日は完全な雨。親戚にあいさつし、3か所の畑を回る。草刈りもせずに採るだけだから、年々ウドは細くなる。叔母が漬けておいてくれたウドと合わせて、なんとか1年分のウドを採って村上に戻る。
5月28日、小学校の運動会。雨から曇りになる予報なので、傘をかぶって小学校に向かう。予報通り雨は止んで、お昼前には太陽も顔を出す。娘は小学校最後の運動会。午前中は一進一退の攻防だったが、午後からは団体戦で紅組が勝ち続け、娘の紅組の勝利に。
5月15日、全国白つつじマラソン大会。50キロウオーキングの翌日なので、娘と一緒にゆっくりと5キロを走ろうと思っていたが、娘はぜんそくでDNS。「がんばろう東北」と背中にプリントされている参加賞のTシャツを着て走る。タイムは22分1秒。ベストよりも約1分遅かった。
5月14日、息子が通う中学校の50キロウオーキングに参加する。去年とコースが変わり、峠越えが2カ所から1カ所になったし、2回目なので楽だった。息子は40キロを超えてから足が痛くなってきたが、去年よりも約40分時間を短縮できた。
5月8日、白根ハーフマラソン大会。東日本大震災の影響で、全国白川ダムマラソン大会が中止になったため参加した大会。平坦なコースだったが、風が強く向かい風は登り坂、横風はへつり道のようでまるで登山のようだった。1時間43分35秒と平凡なタイムだった。
5月5日、家から歩いて鷹取山に登る。途中のコンビニで買い出しをして、林道海府南線を4キロほど歩くと、「奥月山登山口」という標識がある。そこから15分歩くと月山神社、さらに40分ゆっくり歩いて鷹取山へ。帰りは南東尾根を下って宮ノ下の神社に出る。
5月4日、母を松代に送る。3月の地震で玄関のコンクリートにヒビが入っている。仏様も神棚も全部落ちたようだが、下宿人が整理してくれていた。お昼を食べた後でお墓に行くと、土台が折れて墓誌が折れて倒れている。母を実家において村上へ戻る。
5月3日、粟ケ岳が正面に見える貯水池に集まり、ノンアルコールビールで献杯をした。連絡もしていないのに何度も粟ケ岳で会ったことや、白山から縦走したら山頂から下りてきたので、登り直して一緒にビールを飲んだなどの思い出話をしばらくした。
5月1日、今日も天気が悪いが、焚き火をしながら子供たちが起きてくるのを待つ。7時にテント撤収。後藤さんの家でわっぱ煮をいただく。10時半に内浦に送ってもらって、乙姫の湯に入る。雑誌やマンガ本を見ながら時間をつぶし、15時半のフェリーに乗る。
4月30日、粟島キャンプ。いつものように後藤さんに朝食だけ頼み、車で内浦港まで迎えに来てもらう。キャップ場に着いてお昼を食べていると雨が当たってくる。結局16時までテントの中に待機し、雨が上がったところで、焚き火、飯炊き、ご飯に花火。夜中は小雨ながらすごい雷。
4月29日、パナソニックのホームベーカリーが当たった。米から直接パンは作れないが、米粉なら作れるらし店頭価格35000円前後、ネット販売でも25000円前後の高額当選である。明日のキャンプに持って行くと、息子は早速パンを作っている。
4月24日、見附市民マラソン大会。標高差150mとあったので、登りきったところで折り返すと思っていたら、最高地点からさらに下って登って下って折り返し。タイムは45分55秒と予想通りだったけど、8位と入賞に届かず。震災の影響で長野県のランナーが参加していなければ入賞だったのに。
4月17日、桃川「要害の峰」登山会に参加する。適度な薮こぎで要害の峰へ。帰りは送電線の管理道を利用するものと思っていたら、薮尾根を下る。標高の低い里山でも、結構薮山が楽しめるものだと改めて思う。今度はここから朴坂山へ歩いてみたい。夕方は大学の恩師のお通夜に行く。
4月10日、朝突然の腰痛。かなり重傷だ。息子と能化山へでも行こうと思っていたのに無理だ。諸上寺山へカタクリも見に行けない。布団の上で寝返りをするのが苦しい。それでも投票だけは行かねばならない。17日のマラソン大会が中止になり、代わりの大会を24日にして正解だった。
4月9日、『すべてに、ありがとう』を聴く。最初に意味不明なタイトルがある。「目ぬ前ぬ蝿追り」である。一緒に入っていたDVDで沖縄の方言であり、諺であることを知った。「ナンクルナイサ」に続く沖縄をイメージした曲である。「目ぬ前ぬ蝿追り」、「ナンクルナイサ」、良い言葉だと思う。
4月3日、笹川流れマラソン大会が中止になったので、参加料が戻ってきた。子供の分と合わせて5000円である。そこでアディダスのランニングウエアを買った。5145円が30%引き、50%引き、ついには61%引きで1990円だった。温海さくらマラソン大会も全額戻ってくるといいなあ。
4月2日、中部北陸自然歩道「瀬波温泉砂丘のみち」の南半分は「浦田山丘陵の自然とマップ」という詳細な地図がある。しかし北半分の瀬波小学校〜瀬波温泉の間は網の目のように歩道があるものの、詳細な地図はない。そこで踏査したところ、約20カ所の歩道の出入り口があった。
3月29日、仕事に行こうとしたら、ウサギが寝ころんでいた。寒くなってからずっと座ったままだったのに、だんだんと暖かくなってきたのか、久しぶりに寝ころんでいる姿を見た。こっそり娘を呼んでくると、もういつものように座っている。ウサギの寝ころんでいる姿に春を感じるとは思わなかった。
3月21日、結局3連休はどこへも行けなかった。せいぜい近くのスーパーへ買い物に行ったくらいだった。「必ず春は来る」なんて無責任なことや、途方に暮れている人がまだ大勢いるのに「がんばろう」なんてことは言えない。かといって、水道も電気の技術力のない自分には何もできない。
3月16日、私はほぼ毎朝納豆を食べている。その納豆が冷蔵庫に無くなったので、帰宅途中のスーパーで買おうとしたら、どこのスーパーも全て売り切れている。まさかたった3時間停電するために買いだめしているわけではないだろう。被災地に送っているのだと考え我慢しよう。
3月14日、安否不明だったテレマークスキー仲間が無事であることがわかった。他の仲間はキャンプ道具を活用し、炊き出しなどをしているらしい。山形県の仕事仲間からは「新潟はガソリンがあるか?」などとメールが来る。マラソン大会は続々中止の知らせが入ってきている。
3月13日、宮城のテレマーク仲間の一人が何とか無事であることがわかった。携帯は水没したが、「津波になんて負けない」と頑張ったようだ。他の何人かも無事らしい。しかし一人だけ安否不明のようだ。水産関係の仕事のはずだから海の近くにいることが予想されるから心配だ。
3月12日、1時過ぎにやっと「練馬から高速に乗るようだ」と家内からメールが来る。ところが4時頃大きな地震。今度は実家近くだ。母の実家からは大丈夫とメールが来る。7時過ぎに家内が実家到着。テレビでは地震の被害が明らかになってくる。直下型も怖いが、津波はそれ以上だ。
3月11日、14時46分。長い横揺れ。揺れがおさまったところで、全員外に出る。会社内の被害状況と出張している人の安否確認。家内は義母と東京日帰り旅行。東京はかなり混乱しているらしい。家と連絡がつかないので、1時間休んで家に帰る。母も子供も無事。
3月7日、娘が作文が載らないともらえない冊子を学校からもらってきた。そこでどんな作文を書いたのかと目次で娘の名前を探すが、見つからない。そして漸く見つけた。娘は高学年の最初のページに挟まれている挿絵に採用されたのだった。
3月6日、びわこ毎日マラソンを観る。30キロ過ぎの力の差は歴然だ。外国勢が30キロを走った後で、日本人ランナーがスタートして、いい勝負くらいなのだから。それでも今年になってサブテン4人は成果だと思う。もっと若手に出てきてほしいと思うのだが・・・・・。
3月5日、15時過ぎに海岸へ行き、歩道が乾いていたらそのままランニングをして三日月と水星のコラボを見ようと思っていたが、雪はあるし西の空は曇っているし。それで神林のパルパークへ行って新しい定期券を買う。久しぶりに2時間を超えるランニングで膝に痛みがくる。
3月2日、ワイパーが壊れてきたので、新しい替えゴムを買おうとホームセンターの駐車場に車を停めたら、すぐに隣に若い男性が車を停めた。携帯で話したままである。男性はそのまま携帯で話しながら店に入っていったが、既にノーマルタイヤである。明日から雪だというのに。
3月1日、録画してもらった東京マラソンを観る。今の実業団男子に川内選手のような「死んでもいいから走る」という気持ちのある選手がいるだろうか。そして、女子1位に金魚の糞のように群がる男たち。1位が変わるとさっと男子が移動して、2位になった女子が一人にされるのだった。
2月27日、薮山ネット11人で山形新潟県境付近に位置する「兎ダナイ」へ向かう。最初の40分は左右に雪が切れ落ちた悪い尾根を進むが、その後は比較的緩やかなブナ林を行く。『小国渓流地図』の「兎ダナイ」を通過して、山形新潟県境へ着いて、戻って鞍部で休憩。最後の下りで肩がらみの懸垂下降の練習。
2月26日、小国山岳会の講演があるというので聴きに行く。内容はウエツキブナハムシの生態とナラ枯れだ。ウエツキブナハムシによる被害は2007年湯殿山の辺りから発生し、現在小国町の北半分を占めているという。講演の後は薮山ネットの集まりに行く。
2月22日、『渓流春号』を買う。3年くらい前から年1冊になってしまっていたが、今年からまた年2冊に復活だ。高桑さんの「希望の里暮らし」もまだ続いている。それにしても、「年々巨大化する・・・」とは失礼な執筆者紹介だなあっと思いながら笑ってしまった。
2月20日、今日もいい天気。雪質も昨日と変わらない。昨日は赤倉観光スキーリゾートだったが、今日は隣の赤倉温泉スキー場である。緩斜面が多く、ここなら子供を連れてきても大丈夫だ。運転手は若手がするので、ビールが美味しい。帰りは食堂ミサで味噌ラーメン。
2月19日、職場の仲間と妙高へ行く。6時半に村上を出発し、10時過ぎに宿に着く。着替えをして1日券を買う。2時間ほど滑って食堂で妙高山カレーを食べる。昨日は雪が降ったらしく、しまり雪で気持ちよく滑る。でも、ところどころガリガリで何度も転ぶ。
2月12日、朝、道路が乾いていたので、海岸へ向かって走った。どうしても波打ち際に何かないかと探してしまう。岩船の折り返し地点で現場に向かって手を合わせる。いつまで続くかわからないが、手を合わせることを忘れた時にやっと記憶から消えるのだろうと思う。
2月8日、新潟日報に「身元が判明し、1週間ほど前から捜索願が出されていた男性だ」と記事があった。人助けをしたと思っているがなかなか記憶が消え去らない。現場はランニングコースから50mくらい離れているが、しばらくは海岸を走れないだろう。
2月6日、天気がいいので雪が融けている海岸を走ることにしたが、岩船でとんでもないことが・・・。「身内の人は早く見つかって欲しいと願っているはずだから、運が悪いことだとは思わないほうがいいですよ」という言葉で少しずつ立ち直りつつあるが・・・。
1月30日、大阪国際女子マラソンを観る。応援するのは赤羽でも木崎でもない。ペースメーカーの浦田とマラソン2回目の伊藤だ。風の強い中、浦田はハーフベストに近いスピード設定を無難にこなした。伊藤は、来シーズンはどこかの大会で優勝するだろう。
1月23日、都道府県対抗男子駅伝を観る。新潟3区の長谷川が区間3位の走りで3位まで押し上げる。箱根ではふるわなかったが見事な復活だ。タスキを受け取ったのは村上桜ヶ丘の生徒だ。彼は3位でタスキを受けるのだから興奮しただろうな。
1月16日、都道府県対抗女子駅伝を観る。京都と岡山の一騎打ちと思われたが、前半はどちらのふるわなく、結局は高校生の差で勝負が決まる。興譲館は高校駅伝の優勝で油断したのかも。ただアンカーの前で勝負がわかってしまうのはつまらないなあ。
1月14日、職場の同僚7人と、ぶどうスキー場のナイターに行く。ナイター初日で2000円が半額の1000円だ。5回リフトに乗れば元を取れるが、15回以上滑る。20時を過ぎると大腿四頭筋がパンパンで、「もう無理」と言いながら、なんとか21時まで滑る。
1月11日、冬休み最後の日。宿題が何とか片づいたので子供を連れて新潟へ行こうと思ったら、ひどい道路状況。「死ぬかもしれないぞ」と子供に言って、新発田で下りてボーリングと買い物。初めてボーリングをした娘に負ける。帰りは高速に乗らず帰る。正解。
1月2日、新発田市のHさんら3人と金塚駅で待ち合わせ、桜公園から願文山経由で大峰山の小屋まで登る。ラジオで駅伝を聴いて、無線でニューイヤーパーティに参加して、焼きうどんを作って酒を飲む。小屋を出てから、酔った勢いで大峰山山頂へ。
1月1日、村上元旦マラソン大会。子供のスタートを見送り、11時に10キロがスタート。2、3日前の予報が外れて時々陽が差すマラソン日和。だが、タイムは46分10秒。毎年のことだけど、この時期は体重が多いからなあ。でも、岩船コシヒカリが当選。