2004年
12月31日、朝起きて蕎麦を打って、それから鮮魚センターに行って、昼に年越し。〆張鶴しぼりたてが半分くらい空いてしまった。「今日1日で空いてしまうぞ」と心配した、さすがに夜にはビールしか飲めなかった。紅白歌合戦を見ていたら21時前にこたつで寝てしまい、起こされたのは24時を過ぎていた。
12月30日、年賀状も書いたし、家内も最近は「大掃除」とうるさく言わなくなったので、ホームセンターに行って庭の餌台に置く餌などを買ってくる。金魚の水槽を見たら、ガボンガに付いていたのか貝がいた。朝から降ったりやんだりしているが、家のまわりは積雪5cmくらいだ。
12月29日、菊谷さんの家に蕎麦打ちを習いに行った。まず、指導してもらいながら自分で打ってみる。それを食べてから、次に菊谷さんからお土産として打っていただいた。夕食は菊谷さんに打ってもらった蕎麦だが、自分のよりも細かったので、完全に茹ですぎてしまった。
12月28日、『山と渓谷1月号』に名前が出ているらしいので(69ページ)、同僚から見せてもらった。「三ツ石山から大兜山への情報をください」というメールに回答したのだが、こういうことだったのである。池田清彦さんの『初歩から学ぶ生物学』を買う。今年の買い収めの書である。
12月26日、ヒデ(永島秀之さん)の『テレマーク上達への48ステップ』(スキージャーナル)を買った。ヒデは94年クロパインカップ・ハードクラス(クロスカントリースキーでのデュアルスラロームレース)の決勝で敗れた相手だ。2年後には優勝できたのだが、最近は皆上手になってしまった。
12月25日、午前は買い物をし、午後は母が畑に行っている間に、子供と初めて蕎麦を打った。本に書いてある分量のそば粉と小麦粉を混ぜ、水を入れると適当な固さの玉になった。次にめん棒でのすのだが、四つだしができない。夕ご飯は蕎麦と天ぷらだ。
12月23日、村上は昨日から雪模様になっているが、まだ2、3cmというところだ。母の投書が新潟日報に出た。「不明な部分があるのですが」という窓担当者から電話があってから、出るのなら休日だと思っていたが、天皇誕生日の今日だった。雪の中、新発田に買い物に行く。
12月21日、幼稚園のクリスマス会。来年、娘が聖誕劇でどんな役をするか楽しみだ。『山の本50号』を買う。亀山さんと羽田さんの文章が出ている。亀山さんの本を「山に登らない人ほど、いい本だと言ってくれる」とあるが、山に登る人は声も出ないというのが本当のところだろう。
12月20日、土曜日に新しい道路が開通したので、通勤に使ってみた。まず、新しい道路に入る前に三面川の土手を走る。新しい道路は広く気持ちがいいが、接続地点がちょっと狭い。帰りは真っ暗だ。三面川土手との交差点は、また事故が起きてから点滅信号を設置するのだろう。
12月19日、上川村のたきがしら湿原を訪れた後に、ペレットストーブが燃えているところを見るために七福荘に行った。国産のペレットストーブは新製品になっていた。地元の人ばかりなのか、ペレットストーブには興味はないらしく、休憩所で休んでいる人が多かった。
12月18日、図書館に行って、『つり人12月号』を借りた。高桑さんの連載をコピーするだけなので、すぐ返すのだが、貸し出しになった時にすぐ借りないと他の人が借りてしまって、何度も図書館に足を運ばなければいけなくなるのである。〆張鶴しぼりたてを3本買い占める。
12月17日、山古志村に行った。地震の夜は車で過ごした人が多かったと思うが、あんなに崩れている山肌に囲まれては、眠れない夜だっただろう。家に中にもいられず、外に出ても落ち着かない状況では、全村避難はやむを得ない判断だったと現場に行ってわかった。
12月13日、丸山先生の個展を観に行った。その後バスに乗って、青山セレモニーホールでの豊島先生の通夜に参列した。2年前の研究会の懇親会で会っていたのだが、豪放磊落な豊島先生の静かな姿を見ることはできなかった。研究室以外では一番親しい先生だった。
12月12日、以前から気になっていた朝日村千縄集落背後の伐採跡地に行った。チップとして出したそうだが、どうやって集落の中を運んだのだろう。伐採跡地だから景色は良かった。そのまま藪をこいで、キュウゾウ山に登った。数年前に登った鹿森山の尾根がよく見えた。
12月11日、ペレットストーブが届いた。注文した記憶はないのだが、「気に入ってくれたらお金をください」と言って設置していった。リビングは12畳だから、大きさも気にならない・・・。というところで目が覚めた。あまりに現実に起きそうな夢だったので、目が覚めたのだろう。
12月9日、『森の花を愛でる101のヒント』の校正がやっと来たのだが、遅れた原因はどうやらまだ原稿を出していない人がいることもあるようだ。その人から、「ひとつ書いてくれないか」と依頼された。雪国育ちの私にピッタリの樹木だが、最新の研究成果などない樹木なのだ。
12月5日、朝風呂に入って、会場を片付け、10時に家に戻った。母と三面川に行くと、テンカラ漁の人が多くいた。テンカラ漁を見るのは初めてだが、かなりの頻度で鮭が上がっていた。今年は豊漁だというが、おもしろいように釣れていた。『鮭の一生』(新潮社)を探して読んだ。
12月4日、野潟に行って、海で子供と遊び、無線仲間の忘年会の材料を買って、テレビでサッカーを観ていた。が、忘年会の集合時間を1時間間違えて、慌てて15時半に家を出た。17時を過ぎると次々に仲間が集まって、24時過ぎまで宴会は続いた。
12月3日、午後から牟礼山に登った。地震以来、やっと山に登る気持ちが沸いてきたからだ。以前と違う巻き道もあり、雪の杁差岳もきれいだった。それからロイヤル胎内パークホテルの忘年会に突入した。一次会が終わり、同僚がやっているビリヤードを見ていた。
12月2日、川口町の田麦山集落に行った。最初に入った家のおじいさんは、来年は築100年だし、結婚からも50年だから、お祝いをしようと思って障子を貼り替えたばかりなのに、しかも壊さなければいけないなんて先祖に申し訳ない、と言っていた。
11月28日、紛失したと思っていた『たった一人の生還』を2階の書庫(高さ1.4mの4畳の大きさ)を掃除していて見つけた。10年ぶりに一気に読んだ。テレビアンテナは倒れた方向が良かったのか、何とかテレビは映るようだ。ただ、NSTの映りが少し悪い。
11月27日、真冬にもないような凄い風で、未明にガラスが割れるような音がした。明るくなって庭を見ても植木鉢が割れているような形跡はない。道路を挟んだ家も何も変化なし。もしかしたら、と屋根を見たらアンテナが倒れていた。被害は6mのアンテナだけか。
11月21日、家内が14時過ぎに仕事を終えて帰ってきたので、神林村の大池に行った。16時近くなると次々にハクチョウが帰ってきた。大勢の人で冬の観光地となっている。ハクチョウやカモにパンをやっていた息子は最後は飽きてきたのか、カラスにパンをやると言った。
11月18日、6月28日に行った虚空蔵山の裏へ行った。虚空蔵山から青溝に向かい、青溝の西側をトラバースして、西尾根に到着。虚空蔵山に戻って東屋でお昼。飯豊と朝日が白い。地震があってから山に登るような気分でなかったが、久しぶりに気持ちのいい山に浸った。
11月14日、家内と子供が実家に行ったので、母とドライブ。小枕山トンネルに向かおうとしたら、入り口で通行止め、木地山ダムに行こうとしたら、また入り口で通行止め。飯豊町の図書館に入ろうとしたら、日曜日なのに休み。樽口峠で白い飯豊連峰を見て、村上に戻ってきた。
11月13日、天気予報がはずれて雨が降らないようなので、家族で山形へドライブに行った。113号の小国町の森林組合の店(通るたびに寄るのだが、名前がわからない)で蕎麦を食べて、飯豊町の白川ダムで休んで、九才峠を越えて戻ってきた。飯豊と朝日が雪で白かった。
11月7日、母と実家の冬支度のために松代に帰った。十日町方向から行けないことはないが、渋滞が予想されるので柏崎から入った。途中で見附から来た弟がすぐ後ろになった。天気も良く、弟と二人で戸締りをして、きれいな紅葉を見て、村上に戻った。
11月3日、採集した山地型のエムラマイマイをカタツムリを飼育している容器に入れた。容器を洗い、トイレットペーパーを敷いて水で少し濡らし、種類ごとに綺麗に並べて外に置いたまま娘の作品展を観に行った。11時頃家に戻るとなんと勝木産のエムラとトビシマが交接していた。
11月1日、朝日スーパーラインを走った。山に行けないので、その分紅葉を楽しんだ。山地型のエムラマイマイを発見した。少し大きいが、トビシママイマイにそっくりだ。ブナ林には2002年秋に落ちたブナの種子から芽生えた稚樹が目だった。夜はいわふねクラブの飲み会。
10月31日、村上の無線仲間と長岡にボランティアに行った。救援物資の仕分けをした。新潟県の登山を趣味とする者は山に行く時間と体力があるのなら、まずボランティアに行ったらいいのではないか。汗をかき、手に痣をつくり、家に帰ればビールが美味しいのは登山と同じである。
10月27日、土日のイベントの中止を決定した。参加者は下越と関東の人間だけだが、こんな状況のなか実施するわけにはいかなかった。出版祝い、連載終了祝い、出版前祝いを兼ね、こんな時だからこそ、「便利と不便」、「安全と安心」について語りあえるのではないかと最後まで逡巡していたのだが、断念した。
10月25日、0時を回ると、30分おきに余震がきた。とても眠っていられない。朝食を食べて、実家に戻り、冬支度をして村上に戻る。渋滞もなく、4時間くらいで村上に着く。村上が近づくと、凄い雨になった。地震が起きた地域は全国有数の地すべり地帯なので、今後の被害が心配だ。
10月24日、朝早く村上に戻って、母と二人で松代に向かう。十日町方向からは入れないとわかっていたので、海沿いに柏崎を目指す。しかし柏崎が近くなると渋滞になったので、主要道を避けて松代を目指す。15時過ぎに実家に着いたが、被害はないと言っていいほどだった。母と二人で母の実家に泊まる。10年目の父の命日だった。
10月23日、亀山さんの出版祝賀会の途中で地震があった。家には母と息子と娘の3人がいた。母は地震の度に、「地震が来た」と言って、二人の子供を布団にくるんでテーブルの下にもぐったが、何回もやっていると娘はかくれんぼと勘違いしたらしく、「じしんさん、どこにいるの?」と訊いたらしい。
10月17日、東北サファリパークに行った。朝早く入ったので、あまり人はいなかったが、それでも人の入りは少ない方だろう。それから吾妻スカイラインを走ったが、浄土平はすごい込みようだった。吾妻小富士など富士山並みの登山者の列だ。やはり安い方が勝ちである。
10月16日、病院に行く途中、冠雪している飯豊を見た。さらに病院から病院へ。帰りに書店で福島県のロードマップを買って明日の準備。午後から期日前投票をして明日の準備。今日は娘の5歳の誕生日。今日で我が家の女性3人の誕生日が続いた1週間が終わった。
10月15日、会議が17時半過ぎまであり、紀伊国屋でアマチュア局再免許用紙を買って、石井スポーツで岳人11月号を買って、山小屋で飲んで村上に戻った。11月号は岩城さんの企画らしく、高桑さんの他に亀山さんの文章もある。さらに、個性派登山者図録がおもしろい。
10月11日、亀山さんと十貫平に行った。西俣川沿いにはどうも良い泊まり場がなく、結局ブナ林の中で泊まることになりそうだ。考えてみたら、亀山さんと二人だけで山を歩いたのは初めてである。しかも山へ行った回数よりも、酒を飲んだ回数の方が多い。早く逆転させたいものだ。
10月10日、家内と子供を連れて加茂水族館に行った。5月の時は家内は行かなかったからだ。ラッコのカモちゃんはソラちゃんに代わっていた。それから庄内空港に行って、飛行機を子供に見せた。近くの公園は飛行機の発着陸が見れて面白そうだ。ただ1時間に1回しか飛行機が飛ばない。
10月9日、亀山さんと十貫平へ行こうと思ったが、「台風が来ていて、こんな日に出かけると何を言われるかわからないので、中止にしましょう」とメールが来た。普段出かけても何も言われないのだろうか。11時半から亀山さんが出演したテレビを見た。自然観察指導員でも活躍しているらしい。
10月8日、学校であまりいい話を聞かない息子だが、長距離(600mだが)では練習で3位や5位らしい。そこで、本番の小学校マラソン大会を観に行った。ところが、息子は15位の中位。他の子供は練習では本気で走っていなかったようだ。おまえら子供のうちからそんな態度でどうする。
10月7日、中条インターから中之島見附インターまで高速を利用するので、一旦三条燕インターで下りて乗り直した。なぜなら中条から三条燕間が半額だからだ。通して乗ると2250円だが、一旦下りると950円+550円で1500円と750円も安い。帰りも同じことをして1500円安くあげた。
10月3日、木曜日から松代に帰っている母を迎えに行った。家内は仕事なので、後部座席に息子と娘を乗せて、朝食は黒崎パーキングのモスバーガー、松代で母を乗せて、帰りに小千谷のヒグマでチャーシューメン。15時過ぎに村上に戻り、雑誌を図書館に返しに行く。
9月29日、一ノ瀬さんとイワナ釣りに行った。小雨の中、タープを張りイワナの刺身と味噌汁でお昼にした。家に戻ったら、「親戚の人が亡くなった」と母が言い、明日母が松代に戻ることになった。数年前、胎内尾根を登り足の松尾根を1日で下った時も、家に戻ったら親戚の人が亡くなったのだ。
9月28日、亀山さんの『山の遊学道』の紹介が新潟日報に載った。「武田さんの本を読んで、心友が山で亡くなったことを書く自信が持てました」と以前メールをくれたが、すばらしい鎮魂の書である。預かった40冊も今日で無くなるだろう。無線仲間の三本さんの投書もあった。
9月26日、例の生き物を探しに二王子岳に登った。しかし、私には一生見つけられないものらしい。山頂で休んでいたら、私の本を読んで手紙をくれた水原町(今は阿賀野市)の女性に逢った。さらに、山頂で八木アンテナ立てて無線をしていた人も私の本を読んでいると言っていた。
9月25日、村上は今新緑になっている樹木が多い。8月の台風の塩害で葉が枯れて、新しい葉が出てきたのである。街路樹のナナカマドや庭のケヤキなど。よく見たら、我が家の庭の30cmのブナも芽吹いているではないか。今から伸びて、ちゃんと冬芽を作ってくれるのか心配である。
9月23日、幼稚園の運動会。障害リレーのアンカーは娘である。練習ではいつも相手チームが早いので、娘は一人で走っていたらしい。本番では娘の二人前で相手チームがゴールしてしまった。「みんなに注目されていいじゃん」とはまわりの人。午後からはサッカーを観ていた。
9月20日、朝、母と息子とハゼ釣りに行くがいつものように釣れない。気のせいか、釣り人もいない。三連休でほとんど釣り上げられてしまったのか。『山の遊学道』を読んでいるが、なかなか進まない。これでも100ページ減らしたと言うのだから、さすが夢職のなせるわざか。「あとがき」の「他人(ひと)」とは私のことだろう。
9月18日、締め切りまで10日と迫ったので、原稿を書き始めた。ガマズミは何とかなるが、リョウブは資料が少なくて書き様がない。このままでは完全なエッセイになってしまう。なんとか、リョウブに関することを増やさなければならないが、かといって仕事中には書く気になれないのである。
9月14日、亀山東剛さんが『山の遊学道』を届けてくれた。『山の遊学道・上巻』の後に『下巻』を出版するつもりでいたが、上下まとめて新たに出版したのである。『上巻』では「Tさん」であったのが、本名になっていた。しかも「藪山の先輩」とまで書いてある。おい、おい、先輩はないでしょう。
9月12日、朝も5時半からトビシママイマイの調査である。多くのトビシママイマイを確認し、満足気分で酒田港に戻る。帰りは温海町でオオタキマイマイを確認し、さらに新潟県に入ってからもエムラマイマイを確認した。1日にオオタキマイマイと2亜種を確認するとはすごい。
9月11日、9年ぶり3回目の飛島行きである。にいがた貝友会の陸淡水産調査だ。総勢9名が酒田港に集まり、飛島に渡った。宿に荷物を下ろして、タブノキ林に行くと目的のトビシママイマイをすぐに確認できた。昼ごはんの後も調査を続けたが、夕食前にもまたたくさん確認できた。
9月4日、朝早く起きて母と息子と三面川河口にハゼ釣りに行く。青イソメは苦手なので今年はミミズを餌にした。最初は釣れなかったが、釣り方がわかると釣れはじめた。何とか30匹程度釣ったが、隣の人は場所がわかるのか、50匹以上釣っている。今度はあの場所であの釣り方だ。
8月31日、20時に会社に戻り、真っ直ぐに家に帰ればいいものの、8月に1回も山へ行っていなかったので、お城山に登る。当然誰も登っていない。山頂から見た村上市の夜景は予想以上に綺麗だった。これで何とか毎月登山を途切れないですませたのである。
8月29日、高桑さんから『つり人』に連載している「只見の山小屋から」に「武田さんの母上を登場させていただいた」というメールが来た。『つり人』は毎月図書館で借りているのだが、10月号はまだ目にしていなかった。そこで図書館で確認して、初めて『つり人』を書店で買った。
8月28日、先日小国町役場へ行った時に、「小国町の管内図はない」と言われたので、しかたなく5万図を3枚買ってきて合わせてトイレの壁に貼った。まだ10分の1程度しか歩いていないが、10年計画なのでそれはそれでいいペースとトイレでニタニタしている。
8月27日、息子が合宿から帰ってくるので、娘と新潟駅まで迎えに行ったが、2時間半も時間がある。マクドナルドから石井スポーツ経由で不二家でパフェを食べる。そして紀伊国屋経由でミスタードーナッツへ行ってから待ち合わせ場所へ向かった。息子は疲れたのか列車で寝ていた。
8月26日、モスキートネットを買った。これとツェルトのフライシートで泊まろうという算段だ。しかし、山での一泊ができない。ここ数年は1年間で1回泊まりの山行ができる程度だ。とりあえず庭で張ってみたが、少し長さが足りなく、紐で調節しなければいけないようだ。
8月22日、木金と息子のスポーツクラブの合宿があるので、練習で三面川に行き遊んだ。浅瀬には小さい魚が一杯いたが、ウグイの子供だった。午後はプールに行った。先日よりも水は冷たくなかったが、息子はより早くあがりたいと言い出した。
8月21日、松代へ行き、母を連れて村上に戻る。新潟でモービル機の調子を見てもらった。なにしろ2年間通勤で使わなかったものだから、粗末に扱っていたつけがたまったのだ。ケーブル、アンテナの取替え、外部スピーカーの追加で15000円かかった。
8月20日、村上市吉浦の鍋倉山登山道を歩いた。5年前と比べ、マツ枯れに加えてナラ枯れが進み、登山道は藪化が激しい。林の中には、タブノキが0.1haに数本見られた。数十年後にはタブノキ林になるのだろうが、その頃には再びこの木を使う時代が来るのか。
8月17日、家内は仕事、娘は午前中幼稚園なので、午前は息子の宿題を見たり、自転車の練習をさせた。午後から息子と娘を連れて小国町に行き、『小国の信仰』を買ってくる。母がまだ帰ってこないので、神林の義母を村上に連れてくる。
8月16日、午後から息子と娘を連れてプールに行くが、水が冷たい。結局息子は2回目のウォータースライダーまで我慢できず、プールをあがりたいと言い出した。夜は家内が同級会なので、子供とご飯を食べた後、朝日村の花火を見た。
8月15日、母の実家に行く。祖母のひ孫の4人は大騒ぎだ。家に戻って、化石探しに行くが、子供の頃のポイントが変わっていて見つからなかった。甥はトカゲを捕まえて喜んでいた。弟家族よりも一足早く松代を離れ、村上に戻る。
8月14日、甥は宿題があるので、家内と子供だけでアルプの里に行く。一度行ってみたかったのだが、当然のことながら花期は完全に過ぎていた。それから松代に戻り、アート遊園地で遊び、松之山のキョロロに行く。甥と息子は木工工作に夢中になっていた。
8月13日、家内と子供を連れて松代に帰る。弟と甥は昨日から帰っていた。お昼を食べて、菖蒲高原に行き、線香をあげる。リョウブの花は終わっていたが、野々海に行くとわずかに咲いていた。さて、これだけで『森の花を愛でる101のヒント』の文章が書けるのか?
8月11日、家内が仕事なので子供を連れて、母を松代の実家まで送った。朝食はいつもの黒崎パーキングのモスバーガー。10時半頃松代に着いて、戸を開け放ち布団を干した。13時に松代を出発し、16時前には村上に戻ってきた。
8月10日、朝日村高根に行くとサルがいっぱいいた。全部で50頭以上だったろうか。水田の回りを網で囲っているのだが、完全じゃないので、サルも今の状態だったら、米を食べ放題だ。これから全部囲うのだろうが、大変な労力だと思う。
8月8日、午前はいよぼや会館へコイに餌をやりに行き、午後から息子とプール。娘は蕁麻疹で1週間くらいプールどころか風呂にも入れないのだ。プールには同じクラスの「みぶきちゃん」がいて、息子は大喜び。一緒に飛び込んだりして遊んでいた。
8月7日、自転車の補助輪を外した。息子には遅すぎるが、娘には早すぎるので、今まで外せないでいたのだ。まだ娘は補助輪があっても不安定なのだが、「外してくれ」と言うので外すことになった。さてさて、補助輪なしの自転車に乗れるのはいつになるだろうか。
8月3日、日本森林技術協会(日本林業技術協会を改名)の101シリーズの最終刊として、『森の花を愛でる101のヒント』(仮題)を出版する計画があるそうで、執筆依頼が来た。植物はリョウブとイカリソウだが、イカリソウは書けそうにないので、ガマズミに変えてもらうことで了承した。
8月1日、瀬波地区のキックベーボール大会。決勝最終回表。1対0でリード。一死ランナー2塁息子(三角ベースである)。バッター、ピッチャーゴロで息子ホーム憤死と思われたが、ベースの上で手を腰に当てたままボーっとしていた。そして次のバッターで決定的な2点目を奪い優勝した。午後はプール。疲れた。
7月31日、4時から28度。4時47分から梶川尾根を登ると門内岳に9時に着いた。もったいないので北股岳まで行って1時間15分休み、丸森尾根を下って15時20分に飯豊温泉に下りた。台風の影響で山は風で涼しかったが、下界の暑いこと。ビール、ビール、ビールだ。
7月25日、町内のPTA主催の地引網。去年は参加しなかったのでわからないが、取れた魚は10分の1くらいらしい。朝から飲んでは1日何もできないので、飲まないでいたが、どう見ても飲む人には1人当たり10本程度のビールが用意されている。
7月19日、家内が仕事なので、母と子供を連れて見附市に住む弟の家に見舞いに行った。息子は「流される」、娘は「どろ、どろ」と言いながら見附市に着いたが、弟の家は縁の下に泥が入った程度だった。しかし、周辺にはゴミの塀ができていて、石灰が撒かれていた。
7月18日、三面川を見に行くとやはり気になるのか何人か様子を見に来ていた。義母を家まで送りに行き、荒川の様子を見る。残された流木が増水を物語っているが、流木と同じ高さにあるキャンプ場では早くもバーベキューを始めている若者がいた。
7月17日、断続的に大雨が降った。荒川で警戒水位を超えたので、義母を村上に連れてきた。方々で水田に水があふれ、国道7号も1箇所3分の1くらいが冠水していたため交互通行で、20分で行けるところ1時間くらいかかった。義母は近くの自分の実家に非難していた。
7月16日、「根がかりクラブ」から『根がかりの釣り』(20周年記念誌)が届いた。とても2000円を切るとは思えない本だ。こんな本を見ていると外に出ることができない時も楽しくなる。見附市ではまた非難勧告が出たらしい。弟の家に行くのは月曜日になるかもしれない。
7月14日、なんとか弟の家は床上浸水にならずすんだらしいが、両隣と前の家は床上浸水になったようだ。弟は家を建てるときに土を捨てなかったのでブロック1枚半高かったのだ。弟の長男は他所の家から戻れず、その家の子供も前の家に遊びに行ったまま戻れず、一夜を過ごしたらしい。車も止めた場所が良かったのか、周辺の車が流された中、なんとかエンジンがかかったようだ。運のいい弟である。
7月13日、見附市に住む弟の家が床上浸水直前だと言う。刈谷田川を挟んだ義理の両親の家も同じような状態で、当然橋は行き来きできない。家内の実家は荒川近くにあり、羽越水害で床上浸水になり、赤ちゃんの頃の写真がないと言っていたが、そんな状態なのだろうか。
7月12日、『日本(千渋山之内)百渋山』が届いた。とりあえず東北日本に偏っていることや登山道がある山が選ばれていることなど難点もあるが、個人的な趣味で作った素晴らしい内容だ。今後はこうした自分だけの百山選びが流行って、日本百名山離れが進んでいってほしいものだ。
7月10日、玄関から道路への通路にノリウツギが花を伸ばして狭くなったので、剪定してやった。するとノリウツギの下で快適な環境だった雪割草には少し明るくなりすぎたようだ。予報がはずれて夕方まで天気がいいので、釣りに出かけたら雷が鳴って引き返した。
7月7日、今日も暑い日だった。今年で8年目になる職場の半分以上が参加する行事。私は2年間欠けていたが、今までの中で最高に暑い日になった。一人平均2リットルの水分補給。最初はショッパかった汗が最後は味がしなくなった。夜は村上大祭でおしゃぎりを観に行く。
7月5日、ヒルノック、ヤマビルファイター、ヤマビルジェットにキンカンと万全の防備で仕事に出かけた。見つけたヤマビルは約10匹で、これらの薬剤でやっつけた。しかし、仕事を終えると2箇所も被害を受けていた。血を吸うとかなりの卵を産むことができるようになるので、完全に私の敗北であった。
7月4日、朝早く岩ケ崎にアジ釣りに出かける。母と息子は昨日の疲れで抜けないようなので起こさなかった。短時間で20匹ほどの小アジが釣れた。6時前には家に戻ってきて、午前中は買い物。昼寝をして、夕方瀬波温泉に行った。夕食はアジのから揚げだ。
7月3日、5時20分に村上を出発し、蔵王の御釜の駐車場に8時頃着く。朝食をとり、御釜を見ながら熊野岳に登る。以前は10月に登っていたので、確認できなかったコマクサを見る。駐車場まで下って刈田岳を登り直す。夜は庭で焼肉。ガスランタンの灯がいい。
6月28日、虚空蔵山に登り、北を目指す。次のピークは右を巻き、三角点のある青溝の登りで左の斜面を行く。青溝から西に派生する尾根に到達すると北側の沢に下りる道を新たに発見。尾根を西側に200m下ったところで、雨のためブルーシートで小屋がけ。仕事のことである。
6月27日、母と昨日採って来たミズナの皮を剥きながら、手で数センチに折る。固くなったミズナはこう下ごしらえするのだ。長井市のあやめを観に行く。だいたい想像通りだったが、セットで買った飯豊町のユリ園が良かった。まだ8分咲きだが、来週くらいにはさらに見ごろになるだろう。
6月26日、猿田野営場から猿田川を遡行し、戸立沢に入ろうとしたが、増水で無理。アカイ沢も無理。フスベ沢には人が入っている。そこで白目沢で25cmのイワナを釣って、ミズナを一掴み採って、7時半に家に戻り朝食にした。4代目のパソコンを知人に譲った。
6月24日、『渓流夏号』を買う。1800円と高いが、年2回なので10年以上買っている雑誌だ。去年泥又川から帰って、高桑さんと亀山さんが我が家に泊まった翌日、イワナの産卵の取材で高桑さんが栗駒へ行った。高桑さんの「情熱大陸」でも登場した数又さんが載っている。
6月20日、朝から雨・・・。と思っていたら止んだり。それじゃどこかへ出かけようと考えているとまた雨。しかたないので、渓流シューズのフェルトを張り替えた。有名な店のオリジナルだが何回も履いてないのに磨り減ってしまったのだ。庭にタープを張って、子供とお茶を飲んだ。
6月19日、新発田市にアヤメを見に行こうと思っていたら、娘が熱を出した。そこで息子と二人でザリガニ釣りに行った。来週小学校でザリガニ釣りがあるからだ。しかし私は初めてなのである。なぜなら私が生まれ育った所はアメリカザリガニがいないのだ。それでも10匹以上釣れた。
6月18日、『山の本夏号』と『岳人7月号』を買った。羽田さんの文章は相変わらずうまい。が、羽田さん周辺の人間を知っていなければわからない内容かも。『岳人』は高桑さんと岩城さんが取材の帰りに我が家に泊まっていったので内容が気になっていたが、まあまあの特集だった。
6月14日、春先に渓流の釣竿の先が収まらなくなってから、ほおっておいたままだった。そろそろ渓流釣りを始めようと釣り屋へ持っていったところ、底の蓋を外して、トントンとやったら簡単に収まったのだ。今までの苦労はなんだったのかと思ったが、新しい発見だった。
6月13日、猿田野営場に泊まっている山仲間が堀切峰に登ると言うので、アカイ沢イモ沢出合まで同行した。その後アカイ沢の「ひとまたぎ」を見て下っていたら、バッチリ格好のいい三人組みが登ってきた。ミズナを採り、猿田川を野営場まで下る途中で猿の群れを見た。
6月12日、伊南川でユビソヤナギを確認したあとで、黒谷川に移動し、林道を往復2時間歩いた。サワグルミを主体とした渓畔林で、新潟と大きく変わるところがない。違いはオヒョウがあったくらいか。一昨年の会津丸山岳を登った時を思い出しながら歩いた。
6月11日、只見にある高桑さんの山荘を訪ねた。『つり人』の地図だけが頼りだったが、何とか土地の人に訊いたりして探し当てた。わずかな時間であったが、コーヒーをいただきながら話をした。今度は酒でも飲みながら、ゆっくりしていきたい。
6月10日、お幕場を南北に縦断するようにアスファルト道路が開設されていることを知った。なぜこのように海岸防災林を分断するようなことをするのだろうか。中条町荒井浜の同様の道路が不法投棄が原因でわずか数年で閉鎖されたことを忘れたのか。一応管理車道の名目だが、絶対に一般車を通してはならない。
6月9日、息子を歯医者に連れて行ったが、前回乳歯を抜いた時よりも大騒ぎをし、4人がかりで押さえつけ、先生が虫歯になりにくいように処置をした。隣に我が家と同じメーカーが家を建て始め、1階部分ができた。明日には屋根まで完成するだろう。
6月7日、高桑さんから『渓をわたる風』が届いた。「今度の本は、武田さんにも差し上げますよ」と言われていたので楽しみだった。8割がたは既に雑誌で読んでいた文章だが、あらためて『渓流』などを開き、カラー写真を見ながら読むとまた新鮮な感動が蘇るのである。
6月6日、瀬波の国有林の整備にボランティアとして参加する。さらに森林管理署がマツを植えられるように整備し、春に小学校の6年生が植栽するのだという。午後はおにぎりを持って、小国町から蕨峠を越えて、三面に出て帰ってきた。フキとミズナをわずかに採った。
6月5日、大樽山から銀明ノ池に向かったが、いつもの痙攣になった。十分休んでさらに進もうとしたのだが、無理だった。引き返して、スターリン尾根を下る。道路に出たら、バードウォッチャーの多いこと。作業ズボンがズタズタで、パンツ丸見えの私の格好悪いこと。
6月4日、先日買ったピンソールを初めて渓流シューズに装着してみた。その存在は以前から知っていたのだが、現実に見たのは昨年の10月に高桑さんと一緒にアカイ沢から泥又川へ歩いた時だった。四本爪アイゼンは、締め方が悪いとすぐに外れてしまうのである。
6月1日、坂本俊亮さんの『月山無限の山スキー』を買った。坂本さんの本はだいたい持っているが(これで9冊目だけど)、地元に住み地元の山を研究する姿はすごい。でも新潟でこんな人がいたら、山に登る楽しみがなくなってしまうかも・・・なんて考えてしまう。
5月30日、小学校の運動会。暑くなりそうだったので、半ズボンで行ったら、山へ行ったように顔や足が焼けた。息子は一位以外の全てのリボンを着けていた。ピストルの音が怖くて、スタートラインで耳を塞ぎ、さらに後ろ向きになっているのだから、当たり前か。
5月29日、雨の予報だったが、起きたら曇っている。そこで母と二人で海に行くが、全く釣れない。海には魚がいないのだろうか、などと考えていたら水溜りに40cmオーバーのボラがいた。釣り人が海に返さず、入れておいたのだろう。網を持ってくる時まで生きているだろうか。
5月26日、高桑さんにウドの漬け方をメールで教えていたのだが、よくわからないようで質問が来た。母に訊くと、細かい注意点があるようなのだが、母は長年の経験で漬けているので、うまく言葉になっていなかったらしい。来年は母と高桑さんの雪月花に泊まりに行こうか。
5月23日、加茂水族館に行く。規模はマリンピアの数分の一だけど、どうせ2時間くらいいるだけだから、こっちの方がリーズナブルだし、村上からの距離だって同じくらいだし。それにアシカショーはマリンピアのイルカショーよりも面白かった。ラッコショーもあったし。
5月22日、小枕山トンネルを越えた所で行き止りだった。母は残雪脇の大きくなったフキを採っていた。道路わきでおにぎりを食べ、長井市の白つつじ公園に行く。4月の桜、5月のツツジ、来月はアヤメだ。村上市とそんなに人口は違わないと思うのだが、山形はおもしろい。
5月21日、中静透さんの『森のスケッチ』を読んだ。本当に「細切れの時間」でこれだけのことをまとめたと思う。しかし、同業者としてみれば、物足りなかったというのが本音である。ただ、これから森を知ろうという人には入門書になるのは間違いない。
5月16日、母と一緒に祖母を松代まで車で送る。実家を片付けたり、畑のウドを採ったりした。数年前に廃刊になった『Outdoor』の創刊号(創刊号は『Outdoor sports』だった)をやっと見つけた。もう30年近く前にもなるが、心躍らせて読んだのが懐かしい。
5月15日、職場の同僚と月山スキー場に行く。女性二人をスキー場に残し、金子さんと月山山頂へ。さらに弥陀ヶ原方面に下り、オオシラビソ林を見る。偽高山帯に残っている常緑針葉樹林帯に感激する。しかし、月山までの登り返しはスキー場よりも時間がかかった。
5月9日、マリンピア日本海に行く。開館9時に行ったので、すいている。トドの飼育係の野村さんによれば、連休中はすごい込みようで酸欠状態だったとか。しかし、早く起きすぎたようで眠い。駐車場で仮眠しながら何とか村上まで戻る。
5月8日、『日本山名事典』が届いた。収録数は倍になったが、値段も倍になった。午前はタケノコ掘り、午後は胎内観音、フラワーパーク、大石ダムに行く。行く先々から飯豊が望まれる。杁爺やが出るのはこれからか。今年は定点観測ができそうだ。
5月5日、母と祖母を迎えに松代へ日帰り。途中で電話すると娘が出て、「パパだよ」と言うと「だれのパパ?」と答えた。畑のウドが一部採り頃なので、30分ほどかけて採った。ウドは鎌などで採るのではなく、手で引っ張って採る。そうしないと千本ウドになりやすいのだと母は言う。
5月4日、3日の新潟日報9面の「田舎姉妹」の「ウルイ寿し」とは、私の母が約15年前に考案したもので、今回妹達に伝授したものです。ただ電話でしゃべっただけなので、試食した母は「ウルイを一晩塩漬けしていないし、ご飯もやわらかかった」と言っていました。
5月3日、一ノ瀬さんと頭布山に登ろうとしたが、数年前の記憶が思い出せず、崩壊も進んでいて諦める。それならば、湯蔵山だと小和田集落から登り始めるが、入り口付近で藪こぎをした疲れで、結局三角点で宴会・昼寝で4時間を過ごす。帰りはまた恐怖のへつり道。
5月2日、子供ふたりが「おかあさん、ママ」と煩い夜が明け、美人林に行ってから、母を松代に残し村上に向かう。長岡のパーマークに寄って、子供の山の服を買ったまでは良かったが、渋滞につかまり15時前にやっと村上の家に着く。家内は子供を連れて実家に帰る。
5月1日、家内が仕事なので、母と子供を連れて松代に帰る。冬囲いを外し、窓を開けて、布団を干す。母が15年前に考えたウルイ葉寿しを義妹が作った作品が並んでいた。美人林に行き、キョロロの職員と美人林の間伐について打ち合わせをする。
4月30日、東京の従兄弟が奥さんの実家の秋田に向かう途中、村上に来た。従兄弟の妹は双子だが、従兄弟の子供も双子である。従兄弟の妹の子供も双子である。「息子も娘もこんな小さい時があったんだなあ」と代わる代わるに双子を抱いた。
4月29日、小国町と飯豊町の境にある宇津峠を訪ねたついでに出ケ峰まで歩いてみた。山頂で新潟県北に取材に来ていた高桑さんと連絡がつき、夕方我が家に来てもらう。結局、山菜料理で酒を飲むことになり、高桑さんと岩城史枝さんが泊まっていった。
4月25日、息子と娘を連れてマクドナルドへ行って、ハッピィセットを頼むと娘は28種類の犬の一番欲しい犬をもらうことができた。中条のチューリップまつりは345を外して正解だったが、あまりに屋台が多くてますます興ざめだ。帰りに寄った畑の方がのんびりできた。
4月24日、母と息子、娘を連れて、山形へ桜を見に行く。久保桜、草岡の大明神桜、白兎のしだれ桜、釜の越桜、薬師桜、十二の桜、子守堂の桜、と桜の鑑賞スポットめぐりをした。一番標高の高い道路では雪になったが、なんとか傘をささず見ることができた。
4月22日、今日は作業服を着ての出張である。娘は、「パパ、そのふく、どうしたの?」と訊いた。2歳から4歳の間、背広姿で出勤する私を見ていたので、不思議なのだろう。しかしその後、「わかった!おばあちゃんのはたけにてつだいにいくんだ」と言った。
4月21日、浦和浪漫山岳会が解散することになった。月報購読者なので年末あたりからゴタゴタがあったことは知っていたので、心配していたが、先日高桑さんが来られた時も、あえてそのことにはこちらから訊かなかったのである。菅井猛さん、頑張れ!
4月18日、家内と子供を連れて、神林村の要害山に登った。登山口には10台近い車が駐っていたが、山菜取りもいるらしく山頂は20人くらいだった。それから岩ケ崎に行き、釣りの真似をした。娘はかなり疲れたらしく、家に帰って「もう登らない、疲れるから」と言った。
4月19日、今泉吉晴さんが訳された『ウォールデン』を買った。これまで訳されている神吉三郎、真崎義博、飯田実、佐渡谷重信、神原栄一は、文学者かそれに近い人たちだった。動物学者が訳した『ウォールデン』はソローの世界をどのように表現しているのだろうか。
4月11日、亀山さんが用意してくれた色紙にサインをしていただいた。色紙には「夢の山 一夜の宿り」と書いていただいた。昨日の牟礼山がよほど良かったのだろう。いずれあの山頂風景は高桑さんによって素敵な文章になり紙面に表現されるだろう。
4月10日、高桑さん、『岳人』の岩城さん、亀山さんと4人で牟礼山に登る。一般ルートではなく、胎内スキー場の先から一周コースを歩く。誰も来ない山頂で3時間ビールを飲みながら話をする。高桑さんの「最高っすね」の言葉が胸に沁みる。
4月9日、高桑さんが熊捕りの取材で来ることになっていたが、案内してくれる人の親戚に不幸があり、熊捕りに行けなくなった。しかし、虚空蔵山荘で案内してくれる人から話を訊くことになったので、仕事を終わってから虚空蔵山荘に行く。
4月8日、職場(2階)の歓迎会。新人は採用試験で私が業務内容の説明をした時に真ん前で聞いていた人なのだ。隣に座った新人は、「あの時、武田さんはとても楽しそうに話していましたね」と言った。うーん、それだけでも自分が説明した意味があったのかと思った。
4月5日、2年ぶりに昼休みに走った。前の職場は通勤の疲れから、昼休みは寝ていたのだ。職場から国道に向かう少し下り気味の道の先に見える真っ白な飯豊がいい。1周約1.5kmのコースを3周した。徐々に身体をならし、6kmくらいは走れるようにしよう。
4月1日、今日から新しい職場になった。もともと朝が早いので起きる時刻は変わりないのだが、出勤時刻が1時間半も遅い。庭の草木に水をやったり、部屋を片付けたり、長男と一緒にご飯を食べたり・・・。それでも出勤1時間前には準備ができてしまう。
3月31日、最後に机のまわりを片付けていたら、結局荷物が多く出てしまった。あの建物から3月31日に寝袋と銀マットのお昼寝セットを運び出したのは私だけだろうか。荷物が多くてとても駅まで歩いていく気にもなれないでいたが、係の人から送ってもらうことになった。
3月30日、昨日の送別会で一緒に異動することになった人が、「もう一度武田さんと一緒に仕事をしたいですね」と言った。「おー、泣かせること言ってくれるじゃないか」と思っていたが、今日職場に来て、「私、昨日一次会の途中から記憶がないんです」と言った。
3月29日、ホテル日航新潟で係の送別会。展望室でしばらく新潟市の景色を眺めた後で、1人15000円の宴。さらに31日の昼食は1人5000円の寿司だ。これも幹事が正月から何も企画しなかったからである。というか、忙しくて何もする気が起きなかったのである。
3月28日、3月はどこにも登っていなかったので、海側から新保岳に登ることにした。7時頃家を出たにもかかわらず、11時過ぎには下山してしまったので、桑川小学校裏の三角点を訪ねる。家に戻って、家族を連れて能化山登山道脇のカタクリの群落を見に行く。
3月27日、義父の見舞いに行こうとしたら、息子と娘は車の中で寝てしまい、家内と母だけが病院に入った。ついでに中条のミズバショウを見に行くと大勢に人がいた。ちょっと早いかもと思ったが、今が見ごろかもしれない。お幕場の大池を横切るとまだたくさんのハクチョウがいた。
3月26日、同じ建物に勤める人に送別会をしてもらった。私の本を読んで感想をくれた人で、たまたま同じ建物にいるということがわかって2年間お世話になった人だ。「送別会ならば、もっと良いところですればいいのに」と会計の女性に言われたが、我々には山小屋が似合うのである。
3月24日、「武田さんの娘さんって、○○○にいるんですか?」と職場の送別会で訊かれた。○○○とは、私が4月から勤める職場である。どうもこの人は誰かから聞いた噂を信じているらしい。確かに○○○には武田はいるが、私の娘はまだ4歳である。誰だ、そんな噂を流したのは。
3月20日、一ノ瀬さんと村上市の雪割草の群落を見に行く。尾根にあるのは知っていたが、実は斜面にいっぱいあったのだ。白と青紫が多い。帰りにサンショウウオの写真を撮る。クロかもしれないし、トウホクかもしれない。卵がクロじゃないみたいだ。明後日訊いて見よう。
3月19日、2年前まで勤めていた職場に復帰することになった。2年前に「ご栄転おめでとうございます」と言った山仲間は、今度は「ますますご栄転おめでとうございます」と言った。「いろいろと教えていただいてありがとうございました」と隣の課の人に言われて嬉しかった。
3月18日、43歳の誕生日。義母の手術の日でもある。仙台から義弟が看病にきたが、具合が悪くなり、我が家に泊まる。病院には家内が泊まる。喜んだのは、義弟(おじさん)が好きな娘だ。昨日から花粉症がひどい。でも、職場でくしゃみをしているのは自分だけだ。
3月14日、にいがた貝友会の総会があり、去年菱ケ岳で採集したカタツムリを持っていった。山頂近くで採集したカタツムリはエムラだが、わずか2、300mしか離れていない場所で発見したカタツムリがエチゴかもしれないというのだ。確かに違うといえば違うけれど・・・。
3月12日、朝日村にはヤマビルが生息する集落がいくつかある。その集落に住むある人の車にはヤマビルがびっしり付いていたそうだ。きっと排気ガスに誘われたのだろうが、固まって死んでいたという。しかし、その車に付いて職場にまで分布を広げているのだ。
3月7日、今日も雪。でも、新雪が積もり、気持ちよく滑る。最近はずっとザラメばかりだったからな。昼を過ぎて、好きなところを滑って、先に宿にもどり風呂に入った。帰りに土産を買って、安田まで車に乗せてもらい、それから村上まで帰る。新潟はそれほど降っていなかったようだ。
3月6日、職場の仲間でアルツ磐梯に行った。安田から車に乗せてもらい、11時から滑り出す。12時過ぎに休んでいたら、風が強くなり、リフトが次々と止まる。15時前に宿に戻り、夕食の後でナイター。今日もカーニバルらしく、頭上の花火を初めて見る。近くで見るとでかい。
3月5日、最近暖かくて、近所でも庭のツゲの囲いを取った人もいたが、「まだ降るだろう」と思っていたら、やっぱり降った。今日の降雪量は20cmくらいか。腹をすかせたスズメが「餌をくれ」と餌台に集まってきた。しかし、餌がきれていたので、一握りの米をあげた。
3月4日、娘の幼稚園の生活発表会。ミュージカル「ももたろう」で娘は桃太郎役。丸い顔で選ばれたのかと思っていたら、桃太郎は5人もいた。猿、雉、犬はそれぞれ1人ずつ、鬼は女の子だけが7、8人。さらに隣の組が加わり、桃太郎は10人以上になった。
2月29日、飲み会翌日は関川村の丸山に登ることになり、7人で登山口に向かう。途中で林道が出てきて戸惑ったが、雨の中山頂にフライシートを張り、小宴会。帰りは下山家(登山家の反対で下りを重視する人)らしく、わざとルートを間違え、ルートファインディングの練習。
2月28日、これまで藪山ネットの飲み会を新潟駅前でやっていたが、今年は高坪山山麓の虚空蔵山荘でやることになった。14時から集まり始めたが、15時から練習開始。18時過ぎには全員が集合し、寝たのは翌日になっていた。15人中県外参加者3名だった。
2月22日、朝からハクチョウが北へ帰っていく。家内が新潟に出かけたので、母と子供を連れて野潟へ行き、お昼を食べる。あまりに暑すぎる。異常だ。家に帰って、住宅展示場を見学した後で昼寝をする。夜もハクチョウが北へ帰る声がする。天気がいいからなのか。
2月21日、午前は横根スキー場へ行き、息子にボーゲンを教える。なんとかできるようになったので、夜は二ノックスに行き、初リフト。カーニバルで18時半から20時までリフトを止めるというので、回数券で家内と3人で3回滑ったところでおしまい。日報に名前が出たらしい。
2月20日、仕事を終えて、係の太田さんと太田さんのアパートに行き、三人で飲む。太田さんと二人で太田さんの部屋に驚く。サンショウウオはいいけど、カメはどうするんだ、カメは。帰りのいなほで寝てしまったが、坂町で起きたので乗り越さずにすんだ。我が係には太田さんが二人いる。
2月14日、息子を連れて、胎内スキー場へ行く。端のスキーヤーの少ないところで、歩いたり滑ったり練習させる。怖がらず、何とか2時間の練習を終える。しきりに、「リフトに乗りたい」と言うが、ボーゲンができなけれダメである。次回はニノックススキー場か?
2月11日、家族を連れて、わかぶな高原スキー場に行く。午前券で滑り、息子と娘はソリで遊んだ。息子にスキーをさせるためだったが、思惑通り「スキーが欲しい」と言い出し(しかし、リフトに乗りたいだけなのだ)、午後からスキーを買いに行く。腰痛が始まる。
2月9日、息子の7歳の誕生日。しかし、来週2回も人前でしゃべる仕事があり残業で家に着いたのは、いつもの22時過ぎ。白山書房から『山の本47号』の「静山紀行」に投稿していた文章を掲載するという連絡があった。急いで写真を探さなければ・・・。
2月8日、今朝も10cmほどの新雪が積もり、降ったり止んだりしている。。とても出かける気にはなれない。VX−7は何時試せるのだろう。息子の誕生日は明日だが、誕生日のプレゼントを買う。それから、神林の義母を呼んで、7歳の誕生日を祝う。
2月7日、新雪が20cm以上積もった。除雪をして、なんとか車を出す。フィルムスキャナーを使ってネガをパソコンに取り込んでいるが、時々色あせたネガがある。でも「退色復元機能」で、ほとんどクリアに画像が元通りになる。しかし、まだ90年代までとどかない。
2月4日、いなほへの接続が12分。それで新幹線のドアで待っていると、変な停車。12両のうち4両がホームに入った状態で、落雷で停車したのだった。誰もJRの復旧作業などなど信じていない。乗客は前の4両に集まり、10分以上経過してホームに下りたのだった。
2月1日、蒲萄山地の北端、寒川集落から蒲萄山まで歩く。右手でスギの枯れ枝を叩き落し、左手で藪をかきわけるという藪こぎを続け、4時間かかって漸く400m峰で昼食。その後藪は薄くなるものの、雪が深くなり、蒲萄山までさらに4時間かかった。
1月31日、天気予報に反して雪がちらついている。やっぱり山に行くのを変更して良かった。母と息子と海岸線を北上し、山北町で写真を撮る。家に戻ってお昼を食べて、ちょっと寝るつもりが15時半まで。早く家に帰って早く寝ても睡眠時間は変わらないのだから。
1月30日、2箇月おきの診察で「左腕が痛む」と言ったら、整形外科に回され、レントゲンを撮られた。確かに先生が言うとおり、頚椎の並びがおかしい。「机に座って下を向く姿勢はできるだけしないように」と言われる。早くそうなってほしいのだが・・・・。
1月24日、やはり今日も雪模様。午前は息子と娘を連れて、調整池で雪遊び。息子は雪を転がすのがおっくうなので、適当に大きくなったところで斜面から転がして大きくしていた。夜ろくに寝ていなかったので昼寝をして、夕方瀬波温泉の汐美荘へ行き、温泉に入る。
1月18日、一ノ瀬さんと村松白山へ向かう。8時半に駐車場を出発すると9時過ぎになんと新潟からの先発隊の遅れ組と合流。山頂の山小屋1階をほぼ独占して宴会。小屋を出ると太陽も覗いていて、最高の冬山。帰りは田村線を使い、慈光寺へ下りた。
1月17日、天気がいいので、ぶどうスキー場にでも行こうと思っていたら、家内から「明日も山へ行くんでしょ」と言われ、子供と調整池でソリ遊びになった。家に戻ると高田ハイキングクラブの知り合いから会報『なんば14号 40周年特集』が送られてきた。
1月15日、『岳人2月号』が送られてきた。大峠には同行できなかったが、その後訪れた大峠を思い出しながら、高桑さんの文章を読んだ。漸く冬モードになり、行き帰りの列車が遅れる。行きは遅れてもいいが?、帰りはどうせ遅いのだから、遅れては困るのである。
1月11日、一ノ瀬さんと光兎山の観音峰まで登った。千刈登山口までなんとか車を入れて、歩き出す。観音峰で積雪は1m弱。吹雪の中、ツェルトのフライシートを張って、缶ビールを飲む。下山しようと思ったら、光兎山がガスの中から浮かび上がってきた。
1月5日、夜中にまたいつもの変な夢を見た。ハシゴ酒を続けているうちに、靴を店に忘れてしまったのだ。朝起きたら、ちゃんと靴は家の玄関にあったのだが。仕事始め。年末の仕事を鞄に入れたまま、9連休は何もしなかった。1日中、休み疲れで頭がボケていた。
1月4日、娘と二人で神林村南大平へフキノトウを採りに行く。しかし足りないので、さらに母と息子を連れて村上市吉浦へフキノトウを採り、下渡へマルバマンサクの花芽のついた枝を。さらに畑へニンジン掘りへ。長いと思っていた9連休があっという間に終わってしまった。
1月3日、「さあ、今年もまた運命のハガキがやってきました!1月18日の抽選日をお楽しみに!!」バカモノ!2年も続けてお前からもらった年賀状が当たるわけがないだろ。家族全員で瀬波温泉はまなす荘へお風呂に入りに行く。新年から身体がポカポカ温まった。
1月2日、一ノ瀬さんとどこへ行こうか車の中で話ながら結局山形県小国町の倉手山へ行く。当然こんな雨降りに(山頂では雪)に他に誰も登りに来るものはいない。家に戻ってQSOパーティー。やっぱり人にサービスするよりも自分でCQ出す方が楽しい。
1月1日、みんな寝ているのでどこかの山へ行こうと思ったが、まだ身体の中に「〆張鶴しぼりたて」が残っているので、止めた。家内が買い物に出るついでにお城山の登山口まで送ってもらい、息子と娘の3人で元旦登山。風が冷たかったが、天気のいい元旦だった。