2003年

 12月31日、ここ数年のしきたりを行う。つまり、お昼から正月なのだ。「〆張鶴しぼりたて」を飲み、午後はもう動けないようにしてしまう。車を運転できないようにしてしまうのだ。松代では雪があって、当然のことなのだが、村上には雪がないのである。紅白を見ながら、寝てしまう。

 12月29日、今日は無線の飲み会。なぜか村上女子校バレー部の顧問だった近藤先生も最近山に登り始めたらしく仲間に加わった。家内が高校生だった頃もいた先生で、村上女子高を全国大会へ導いた人である。卒業生はその後二人NECで日立を破り、日本一にもなっているのだ。

 12月26日、仕事納め。16時からでも休もうと思っていたら、年始早々の仕事ができ、係長と二人だけで残業となった。仕事を終わって会社を出ると当然いつもよりは灯りが少ない。しかし、机の中を掃除していたら、『越後三山・只見集成図』を見付けたのはラッキーだった。

 12月20日、亀山さんが桝形山の大池の写真を国土地理院に送ったところ、国土地理院も漸く本気になって(以前は「夏は干上がってしまうのではないか」と答えていた)地形図に載せたいという話だ。ついでに山頂近くにある池を削除してくれないかなあ。どう見ても小さいのだけど。

 12月18日、午前は娘の幼稚園のクリスマス会。クリスマス会も4年連続で行けば、賛美歌も覚えてしまいそうだ。午後は下越森林管理所村上支署に行って、桝形山の大池の写真を見ようとしたが、6月13日に撮影された航空写真ではまだ雪の下だった。

 12月14日、松代から伯父(母の弟)と伯母が日帰りで村上に来た。これで村上に来るのは3度目くらいで、途中で寄り道もできるようになったらしい。米の検査をしている伯父は手巻き寿司を食べながら、「名前だけで売れている米は米作りにあんまり努力をしていない」と言った。

 12月12日、朝テレビを見て思った。「あの教会って、いつから日本語で誓えるようになったんだ。自分の時は神父の言葉のあとをなぞって言うだけだったのに・・・」当然神父は違う。有名人だからできることなのか・・・。とにかく同じ教会なのだ。最近、息子は、「田けだまなと」と書いているらいしい。

 12月7日、朝キャベツのせん切りをしていると、息子が「お好み焼き作るの?」と訊いた。それで、昼は家内が坂町病院に行っているので、息子と娘の3人でお好み焼きを作って食べた。夕方には子供を連れて、村上病院へ母の見舞いに行く。

 12月6日、『岳人2月号』の「道−その光芒」(高桑信一さん)に大峠が決まっている。自分自身も取材協力したのだが、実際には大峠を歩いていないので、午前中に歩いてきた。大峠からの帰りは旧道を探しながら下って、三角点(点名山毛欅沢)も確認した。

 12月4日、息子は最近漢字を習っているらしい。「武田息子」で最も簡単な漢字は「田」である。そこで、「たけ田まなと」と書こうとしたのだが、「田」に「てんてん」を付けて書いたらしい。「もっとも」と思ったが、子供の考えることは、大人の想像できないことなのでおもしろい。

 12月2日、家内が息子と娘を連れて母の見舞いに行った。病院の駐車場は30分までは無料だが、30分以上では駐車料金がかかる。30分直前で病院を出ようとしたら、娘が「ウンチ」と言った。駐車料金は娘のトイレ代となった。

 11月30日、瀬波小学校の終日参観日。つまり一日中、いつ参観しようが勝手なのだ。薬のせいで息子はかなり眠そうである。午後からは瀬波小学校130周年記念で、家内が出かけた。そこで娘を連れて母の見舞いに行ったり、夕ご飯の買い物をしたりした。

 11月29日、高桑信一さんから大峠の原稿が来た。「いつも思うことだが、山はピークだけではない。いずれは藪に埋もれていく定めだとしても、消え行く古道や鉈目を辿ろうとするひとがいる。そのことがただ嬉しくて杯を重ね、私はやがて酔いの闇に落ちていったのである」

 11月28日、手術室から出てきた母は寝ているように見えた。命に関わる手術ではないから心配してはいなかったが、頑強な母が手術するのはやはり不安だった。「膝が痛い」と言い出したのは、冬頃だったろうか。最近ではかなり膝を曲げられないほど痛んでいたのであった。

 11月24日、庭のツゲ囲いをしている間に、製塩作業終了。1リットル強の海水から約30グラムの塩を得る。それから幼稚園に父親参観。午後からは息子と娘を連れてお城山に登った。お城山は工事中で登山道が迂回していた。飯豊・朝日が真っ白だった。

 11月23日、家内が坂町病院に行っているので、母と子供二人を連れて、吉浦で海水を4リットルすくい、天蓋大橋付近でわずかに残っていた雪で遊んでいたら、あられが降ってきた。家に戻って海水を煮詰めながら、アルビレックスの最終戦を観た。

 11月22日、ウオロクに瀬波小学校の児童の絵が飾られているので観に行った。息子の絵は茶色のテーブルのような物を囲んでいる二人の男の子だった。タイトルは「かせきとり」。お盆に実家に帰った時に、従兄弟と一緒に探した貝の化石採りを描いたのだった。

 11月21日、一昨日から息子の身体にブツブツが出てきた。また、水疱瘡にでもなったかと昨日病院に連れていったら、そういう風邪の一種なのだという。今日は顔が腫れて別人のようだったので、「今日も休むか?」と訊いたら、「給食が食べたい」と言って小学校に行った。

 11月17日、注文していた小田隆則さんの『海岸林をつくった人々 白砂青松の誕生』が届いた。前の職場にいた時、付き合いがあったのだが、去年亡くなったとは知らなかった。これはまさに遺書だ。都道府県の研究者としては海岸林の第一人者だった。ご冥福を心からお祈りする。

 11月16日、亀山東剛さんと二人で大場喜代司先生の家に取材に行く。さすがに村上の歴史には詳しく、なんでも知っている。訊けばすぐに答える。こういう人と知り合えて良かった。関係する文献を借りて帰る。雨の1日だったが、気持ちのいい充実した日になった。

 11月15日、母が弟の家に行っているので、家族4人で中条町の麺友にラーメンを食べに行く。その後、乙宝寺に行って母の膝の手術のお守りを買う。さらにお幕場の大池に行ってハクチョウにパンをやる。家に戻って、おしゃぎり会館に行って、先日あずけた本を取ってくる。

 11月11日、『無責任の構造』を買おうと思ったら、池田清彦さんの『やぶにらみ科学論』が目についたので一緒に買う。「巨大技術(とその具体化である巨大建造物)はひとたび設置が決定されると、拒否できないという点で暴力的な装置なのだ」とは、我が県のことだと思ってしまう。

 11月9日、朝から小雨模様。選挙の後、家内が子供を連れて実家に行ったので、母と二人で耕雲寺、大栗田集落、女川のゲート、丸山大橋でお昼、小国町、大石ダムとドライブをした。14時半に家に戻ってきたら、家内もちょうど帰ってきた。夜はうたた寝をしながら選挙速報を見る。

 11月8日、おしゃぎり会館へ本間館長を訪ねて行ったが、村上市の歴史の集まりがあり、留守だった。しかし、「この辺りの道の事といえば、大場先生の方が詳しい」と職員に教わり、今度会う機会を設定してもらえるよう職員に頼んだ。久しぶりにのんびりすごした休日だった。

 11月3日、松代へ冬支度に帰った。弟と二人で冬囲いをし、母は家の中を片付けた。毎年のこととはいえ、寂しい行事である。特に雨の中の作業は辛いものがあるが、今年はなんとか雨の前に作業を終えた。母の実家でお昼をごちそうになり、母を連れて夕方村上に帰る。

 11月2日、渡辺明美さんと桝形山に登った。9月28日に登った時は、小雨まじりのガスで何も見えなかったので、胸のつっかえが取れた感じがした。桝形の大池(仮称)ではサンショウウオの子供を確認。その後のカメラは接写モードのままだったが、帰りだったのが助かった。

 11月1日、7時に家に帰り、長谷川先生の都合を訊いたところ、旅行中とのこと。そこで、高桑さんらは塩釜神社などを見て、黒部に向かったらしい。私は娘の作品展で午前中を過ごし、午後から家族でいつもの野潟へ遊びに出かけた。アジは少し大きくなっているようだ。

 10月31日、恒例の趣味の欄に毎年「登山」と書いていたところを、今年は「藪山登山」と書いたのは私の意地である(高桑さん調に)。22時帰宅し、虚空蔵山荘に向かう。私が着くと、高桑さんは選手交代というばかりに寝てしまった。しかし、『岳人』の岩城さんと楽しい会話ができた。

 10月30日、母が松代に冬支度に帰ったため、神林の義母が子供の子守りにやって来ている(22時過ぎに帰ってきたので、もう寝ているのである)。さて、明日また高桑さんがやって来る。残念ながら、日中はおつきあいできないが、夜の虚空蔵山荘には行きたいと思う。

 10月27日、寝ている高桑さんと亀山さんに挨拶をして、家を出る。前の職場なら当然休暇をとっていたことだが、今の仕事は今が一番忙しいので、休むわけにはいかないのだ。結局、高桑さんと亀山さんは10時頃帰って行ったらしい。さて、栗駒のイワナの産卵に間に合うだろうか。

 10月26日、堀切峰に登るつもりが、朝から飲んでしまい、結局昼過ぎまで泥又川で過ごしてしまう。まほろば温泉に入って、羽田さん、レイ子さんと別れ、我が家へ。一ノ瀬さんも誘って、また飲み会。新潟の人間は山は知らないのに、酒はよく飲むと思われたことだろう。

 10月25日、朝7時に亀山さんが迎えに来られ、古渡路のセブンイレブンで高桑信一さん、羽田寿志さん、佐藤レイ子さんと落ち合う。アカイ沢出合から泥又川に行って、河原にブルーシートを張る。焚き火を囲んで酒を飲み、高桑さんと焚き火を挟んで寝た。泥又川まで1mのところで。

 10月24日、実はもう25日である。眠れないのだ。子供の頃は次ぎの日に何があろうと眠れた。ただ、翌朝は早く目が覚めたけれど・・・。しかし、今日は23時半に帰って来て、明日の用意をして、ビールを飲んで、そして今は〆張鶴を飲んでいる。結局、睡眠時間は3時間になるだろう。

 10月23日、いよいよ土日の山行が決まった。自分の人生で、最高の出会い、そして山行になるに違いない。仕事は一番忙しい時期だ。去年とトップが替わり、去年のとおりにしたら、今年は反対のことを言われた。理想か現実か・・・。しかし、理想も見極めなければならないのだ。

 10月16日、娘の4歳の誕生日。家内が9日、母が11日と我が家の女性陣は約1週間の間に誕生日が集中している。さて、体育の日から娘が起きている姿を見ていない。寝ている娘に「4歳の誕生日おめでとう」と言ったら、「うるさいなあ」と寝ながら答えた。悲しいパパ。

 10月12日、藪山へ登るつもりが、車に乗ったら雨があたって来たので、草水〜宝珠山〜菱ケ岳へ変更。菱ケ岳でエムラマイマイを発見する。これでエチゴマイマイとの距離は大蛇山と菱ケ岳までに縮まった。帰りの石戸集落からの車道歩きが辛かった。

 10月11日、家族でリナワールドに行く。娘はミミリン(娘はなぜかキティのことを「ミミリン」と呼ぶ)の遊園地なので、興奮していた。しかしリナワールドへいなり寿司とゼンマイの煮物を持って行ったのは我が家族がはじめてか。しかも、クリ拾いまで・・・。

 10月5日、アゴク沢左岸尾根から銀明ノ池に登る。飯豊も何箇所か気に入った場所があるが、またひとつ増えた感じだ。大樽山への下りが難しいが、リーダーの判断でなんとか到着し、スターリン尾根を下る。銀明ノ池にはミズスマシの仲間がいたが、捕まえてくるべきだった。

 10月4日、朝からはっきりしない天気でどこへ行こうか悩んでいたが、結局山形県川西町のダリア園に行く。ダリアが品種ごとに植えられていて、それぞれを鑑賞するが、子供は遊具に熱中していた。小国町付近で冠雪している飯豊を見て、母と二人でため息をつく。

 9月28日、アル中山岳会(歩く中年山岳会の略)3人、こりないめんめん4人、村上から2人の合計9人で桝形山に登った。晴れる予定で、小雨まじりの天候でも雨具を着ないで登ったが、最後まで晴れないどころか、最後まで雨降り。結局、雨具も着ずに12時間行動になってしまった。

 9月27日、朝早く起きて、息子を起こして母とハゼ釣りに行く。しかし、餌の青イソメが1週間ももたなかった。それでも、死んでいる太い青イソメを選んで、なんとか22匹釣って帰る。2時に寝て、5時半に起きたのだから、当然昼寝が必要。明日のためにも・・・。

 9月24日、「今後のためには専門家による医療や矯正が必要だ・・・」しかし、本人だけの今後のためでは何にもならないのである。家族ができるだけ早くそれに気づくこと。そしてそれを受け入れる気持ちを持つことが大切だ。子供は変わらない。親が変わらねばならない。

 9月23日、娘の幼稚園の運動会で、車を駐車場に停めると、白いムラサキツユクサを発見した。娘は競争では、フライングをして1着でゴールインする要領の良さを見せた。一方卒園時レースで息子は、女の子がめくるピンクのカードをめくってしまい、ビリでゴールした。

 9月21日、朝、母と三面川河口に行ってハゼを釣る。9時を過ぎたら人が多くなってきたので帰る。夜は21時過ぎに寝て、22時30分に起き、23時からの「情熱大陸」を見る。釣り人社のビデオを持っているから、だいたいわかっていたけど、来月下旬の山行が楽しみだ。

 9月20日、予定通り午前様で帰宅。しかし朝は早い。ぼーっとした頭でネガを読み込んでいる。新婚旅行を適当なところで止めて、学生時代の山のネガを読み込み始めた。風景写真はほとんど省き、主に人間が写っている記念写真を読み込むことにした。

 9月15日、先週買ったスキャナーでネガを読み込んでいる。いつからスキャナーにフィルムスキャナーが付いたのか。ずっとどちらを買おうか悩んでいたのがバカみたいだ。とりあえず新婚旅行からと思ったが、結局3日間かかっても半分しか終わらなかった。

 9月14日、母、息子と松代へ米を取りに行く。車の中でホウセンカとコスモスを指差して、「あの花何ていう名前だ?」と息子に訊いたら、「うーん、チゴユリかなあ、フデリンドウかなあ」と言った。どこで覚えたのか、キノコの話をすると、「ナラタケかなあ、クリタケかなあ」とも言うのである。

 9月13日、本当に今年の夏といったら・・・。土日に雨が降る。雨が降らなければ子供が熱を出す。この3連休も天気が良さそうなので楽しみにしていたのだが、娘が40度を越える熱を出した。なんとか病院で診てもらったが、これで残りの休みはどこにも出かけられないことになった。

 9月12日、とうとう金曜日は「明日がない」状態になってきた。つまり、金曜日は毎週家に戻るのが24時になるのだ。さらに来週は2日半も自分の仕事ができない。このツケは10月の3連休にまわされることになるのが目に見えている。他の人のように断れないのが辛いところだ。

 9月7日、一ノ瀬さんと猿田川支流アカイ沢から山越えで、泥又川へ行った。しかし日曜日のため、テント場には先客が。それでも釣り竿を出してみたものの、全く釣れない。しかたないので、テント場で土嚢袋で缶3袋、ビン2袋片付けた。
 
 9月4日、仕事を終えてから、「ゆきみ山の会」の集まりで講演をした。去年の2回とほとんど同じ内容なのだが、若干最初と最後を変えてみた。笑いもあって何とか無事に終えた。本当は山を歩きながら、ブナ林の話ができればいいのだけれど・・・。

 8月31日、はじめて「大したもん蛇まつり」を見に行く。出発が遅れ、公園に着いた時は、出発直後だった。それで車をまわし、近くで見ることができた。家に戻って昼寝をしたあと、8月は1度も山に登っていなかったので、お城山に登った。低いけれど、やっぱり山はいいと思った。

 8月25日、15時15分から休んでタクシーで病院に向かう。先生は「去年の今ごろはこのガンコな親をどう説得しようと思っていたけど、いい方向に向かってきたから良かったわ」と言ったが、こっちにすれば「このキツイ先生をどう言いくるめようか一年間一生懸命だったのだ」。

 8月21日、息子がスポーツクラブの1泊2日の合宿から帰ってきた。何とか騒ぎを起こさずにすんだらしい。アルインコのAF6300(無線機ではない)を買う。店員に「5%で5年保証にしますか?」と訊かれたが、「1年もつかわからないのでいいです」と答えたら笑っていた。

 8月18日、家内と一緒に松代の街並みの芸術を2時間ほど観、さらに子供を連れて、松之山から松代の芸術を観る。駅前で蕎麦を食べて、雨の中村上まで帰る。2泊3日の荷物を玄関に投げ入れたが、これが片付くのはいつになるのやら。

 8月17日、天気が良ければキャンプの予定だったが、生憎の雨で家の中にテントを張って、また従兄弟4人が大騒ぎ。大地の芸術祭を少し見て、昼には義妹も来るが、弟家族は夕方見附に帰る。夜は母の実家から祖母が来て泊る。

 8月16日、やっとお盆休みとなり、松代の実家に帰る。弟と甥2人が既に来ていて、実家は大騒ぎとなる。約30年ぶりに松代のプールに行く。その後、墓参りをすませ、貝の化石探しをする。夕方は従兄弟4人が風呂に入り、また大騒ぎ。夜は弟と酒を飲む。

 8月13日、村上ジャスコの宝くじ売り場でジャンボの二等が出た。この売り場は数年前にもジャンボの一等が出ている場所である。しかし、どちらも同じ売り場で買っているのに、当然のことながら当たらなかった。前のジャンボでは組違いの10番違いまで近づいていたのに・・・。

 8月10日、朝、山北町へ行く途中に笹川流れで、カシワが枯れているのを見た。全国的にもカシノナガキクイムシでカシワが枯れたという報告はないだろう。勝木で「きらら」の仲間と逢い、スイカ割りなどで楽しむ。夕方、息子と釣りに行き、多数のマメアジの他にサヨリを1匹釣った。

 8月8日、息子の薬を受け取って、タクシーで自分のかかり付けの病院へ。さらに歩いて職場へ。そしたら高1の担任に逢った。「どうしてわかったの?」と訊いたら、「格好でわかった」と。確かにTシャツ、半ズボン、大きなザック。そして午後からタダ働きをした。夏休みはこれで終わりか・・・。
 
 8月5日、今日から夏休みだが、8時半前に職場から電話。それから3日間続けて職場から電話があった。当たり前と言えば当たり前だが、休む時期は今しかなかったのだ。しかし、相手が早すぎた。息子はヘルペスを発症したが、この3日間で何とか食べられるようになってきた。

 8月1日、とうとう8月になってしまった。昨夜から息子が39度を越える熱を出したため、土日の登山&キャンプが中止になる。自分もいつもの風邪の徴候だが、扁桃腺が痛い。高桑信一さんから暑中見舞いが来たのが、せめてもの救いか。

 7月27日、母、息子、娘の4人で月山ドライブに出かける。月山道の駅でひとしきり遊んだ後で、志津キャンプ場でオニギリとシャボン玉。雨が上がったのを見計らって、月山スキー場へ。しかし、雪ははるかかなた。持ってきたシャベルがむなしい。

 7月26日、家内、子供を連れて、瀬波温泉はまなす荘へ温泉に入りに行った。割引券を使って900円。きれいなお風呂とあまり他の人がいなかったので、のんびりできた。夜中に息子が、「ぼく全然釣れなかったよ」と寝言。その声に、自分も釣りの夢を見ていたのでビックリ。

 7月25日、BSNラジオ「かぎとみ徹の熱烈ラジオSHOW」の「もちはもち屋に伺いましょう」のコーナーに生出演した。鍵冨さんのリードでなんとか終えることができた。夕方から幼稚園の「夕べのつどい」に行く。息子は久しぶりに幼稚園の先生に会えて嬉しそうだった。

 7月21日、 ここ2、3年梅雨明け気分で夏山が盛りだった海の日なのに、今年はいったい何時明けるのだろうか。せっかくの3連休なのに、野外には出られなかった。今日はニ王子岳でも登るつもりだったが止めた。家内と子供は土砂降りの中、神林村塩谷へ地引網に行った。

 7月20日、「梅雨明け前の青空は ひと足早く心を躍らせる 今年ももうすぐ夏が来る 街も人も浮かれ気分でざわめきだす・・・」(親愛なる人へ)。ユニクロでクールマックスのTシャツを790円で買った。こんなの山の店で買えば、3000円もするだろうね。

 7月14日、午前はヤマメを1匹釣って、午後は息子の授業参観。それから今日開通した瀬波温泉トンネルを往復した後、野潟へ釣りに行った。マメアジが群れていて、1時間半で合計162匹釣った。息子は最後まで興奮状態だったが、娘は途中で飽きて、ブランコに乗りたいと言った。

 7月13日、研修の帰りに石井スポーツに寄って、家内の登山靴を買ってあげた。毎年の家族登山のためである。子供のTシャツなども買ったので、合計2万以上の出費になる。帰りの「いなほ」では、二人でビールを飲みながら、たこ焼きをつまんだ。

 7月12日、6月7、8日、そして今日明日の4日間で2万円の研修である。家内と二人で4万円。さらに4日間の新潟への往復で1万円以上。講師が書いた本も購入した。安いか高いか、これからの自分の生き方が決めることである。

 7月10日、先日、ある新聞社から問い合わせがあった記事が出ていた。「東京で新潟のブナが育っているのだが、役場の人は、『大変珍しいことだ』と言っている。専門家?としてどう思うか?」という内容だった。とりあえず、「珍しい」と書かれてなくて、安心した。

 7月9日、家内が所用で出かけたので、息子と娘を居間に残して風呂に入って、そっと覗いて見ると二人でカルタ取りをしていた。しかし、娘は字が読めなく絵で探すしかないので、息子はハッキリと読まなければいけないのである。これはいい音読の練習である。

 7月8日、久しぶりに仕事で藪をこいだら、タムシバとコブシの特徴をもった葉の木があった。とりあえず、コブシにしておいたが、あとから典型的なタムシバとコブシが出てきた。これってタムシバとコブシの雑種なの?そんなの図鑑にないよね。

 7月6日、午前中に光兎山に登って、昼までに家に着く。下山中に会った登山者はちょうど50人だった。「とんでもない時代になった」とは友人の言葉。夕方から村上大祭を見に行く。明日のおしゃぎりがあちこちで準備している。息子はちょうど1000円使って満足そうだ。

 7月5日、夕方になって息子と魚釣りに出かける。野潟は波が高く、いつも釣る場所に人がたくさんいたので、馬下まで行って釣る。フグが4匹釣れただけだったが、息子は喜んでいた。これでアジが何十匹も釣れたらどうなるのだろうか。

 7月1日、「野ネズミにとってドングリは本当に良い餌か?」という文章を読んだ。ドングリにはタンニンという成分が含まれているが、ミズナラはコナラよりも約3倍もあるらしい。ドングリだけを餌にしてアカネズミを育てたところ、ミズナラでは8匹中、5匹が1週間以内に死んだと言うのだ。

 6月29日、簡易書留とは知らずに投函したら、「切手が足りない」と郵便局から電話が来た。帰りに図書館に寄ると、「越後奥三面」の映写会をやっているので会場に入ったら、なんと渡辺さんと神田さんがいた。渡辺さん曰く、「武田さんも来ると思っていた」。こっちは偶然なのである。

 6月28日、午前は小学校へ「こけし作り」に行く。午後に別冊太陽『山の版画家畔地梅太郎』を買いに行く。なんと村上で3軒目の書店でやっと見つけたのであった。今まで何度も雑誌で見ていた版画だったのだが、作者の名前を知らなかったとは恥ずかしいことである。

 6月25日、ある山岳会から講師の依頼があった。しかし、今度は藪山登山というテーマらしい。去年も二回山岳会から依頼があったが、「藪山登山」という内容では、これまでの仕事で使っていたOHPなど使えないのである。さて、どうするか。しかし、秘策があったのだ。

 6月22日、新保岳に登って10時までに家に戻る。家族を連れて奥三面ダムを見に行く。メモリアルパークでお昼を食べ、登山口まで往復する。帰りは旧茎太小学校の奥三面歴史館に立ち寄る。息子は「銀座のいちご」をひらがなしか読めないので、「のいちご」と言う。「ぎんざのいちご」と教えると、「ぎんざの、のいちご」と言って食べている。

 6月21日、息子を連れて、野潟に釣りに行く。ウグイが3匹釣れて、あとは10匹くらいフグが釣れた。最後に30cmオーバーのボラが釣れたが、釣り上げてもしょうがないのでバラした。ウグイも海に放し、結局何も持たずに家に帰る。でも息子は「楽しかった」と言っていた。

 6月20日、黄色の『ちさこ』を買った。誤字を直しただけのものだが、飯島代表と同じように「今の自分を何とかしたい」からだ。17日(火曜日)の新聞を見てビックリした(月曜日からいなかったのだ)。どのような影響を及ぼすのか、全くわかっていない人間の投書と思う。

 6月14日、息子の釣り竿を買いに行ったら、娘も欲しいと言うので、結局6000円の出費。さらに娘がお昼を食べないで釣りに行くと言い出し、パンを持って岩船港へ。結局何も釣れずに片付けていると、「パパ、イカがつれたよ」と娘が言った。イカは餌なんだけど・・・。

 6月12日、娘と息子の参観ダブルヘッタ−。午前の娘は何とかこなしたが、問題は息子である。混乱を起こす寸前でおさまって、家内共々胸をなでおろす。教室の後ろの運動会の絵は、「スタート、ドン、ワー」の解説付き。それを絵にするんだよと思ったが、さらに白いクレヨンで「35でしろのかち」とも書いてあった。

 6月11日、娘が幼稚園で父の日のために父親の顔を書いたらしく、「ようちえんでパパのかおかいたよ」と言った。母の日の家内の顔は鼻と耳がない顔だったので、「ちゃんとはなとみみをかいたの?」と訊いたら、「へんなかお」と答えた。

 6月7日、東京の猪俣さんから枡形山の県境尾根からメールが来た。女二人で宴会中とのこと。なんと横山さんも日帰りしたらしい。こちらは親のトレーニングで土日と新潟通いなのだ。子供のトレーニングよりも、親のトレーニングがまず必要なのである。

 6月6日、村上市の境川を遡った。二俣から左に入ると3m滝があり、その上の淵でやめた。無理すれば先に行けないことはないが、行ったからといって何があるわけでもない。二俣に戻ると以前発見した朝日村への道型は全くなかったが、祠を発見した。ヤマメ2匹見る。ミズナをひとつかみ採って帰る。

 6月1日、雨で小学校の運動会が中止になる。写真をCDに焼いて友人に届ける。『雪崩遭難』を読み始める。改めて、冬山にはビーコン、ゾンデ、スコップが必携だと認識する。TAJではずっと前から常識なんだけど、未だに持っていない人が多いのだ。

 5月31日、もち米を精米しに行く。最初の100gくらいは、前に精米した米が入ると知っていたので、最初の200gくらい除いたのだが、500gを越えても前のうる米が入っているのに驚いた。これじゃ、とても餅をつけない。クボタの精米機よ、なんとかしてくれ。

 5月25日、中条町の亀山さん、皆川さんと3人で掘切峰に登った。泥又川の東俣と西俣の合流点までゼンマイ道を利用し、対岸の急斜面にとりついた。対岸の尾根にも古い踏み跡があり、切り付けも多かった。掘切峰は大雪原で、中央に窪みが続いていて、まさに掘切状だった。

 5月24日、来週運動会があるので、小学校のグランドの草刈をした。午後に娘と買い物に行ったら、「おしっこ」と言う。それで、トイレに連れて行ったら、「女の子のトイレじゃなきゃいやだ」と言う。幸い母がいたので事無きを得たが、これじゃ二人だけで買い物に行けないじゃないか。

 5月19日、通勤の列車の中で10年前の月山での遭難記録を読み返した。何故その時そういう行動をしたのか、何故その時こういう行動をしなかったのか、今読んでも疑問だらけだ。「ぞくぞく入ってくる」という文章に、その答えがあるような気がするだが・・・。

 5月18日、昨夜は仙台の刺身、秋田のきりたんぽ鍋、山形の手打ち蕎麦など、たくさん食べて、そして飲んだ。昨日、日焼け止めを塗るのを忘れたので、顔が真っ赤だ。お昼に村上に戻ると、息子と娘が庭でラーメンを食べていたので、一緒に食べて、昼寝をした。

 5月17日、日本テレマークスキー協会の月山キャンプなので、一ノ瀬さんを誘って、スキー場から月山に登った。村上は小雨まじりだったが、スキー場に着くと青空も見え始めた。ジョックンらは清川行人小屋まで下ったが、登り返す体力がないので、山頂からそのまま戻った。

 5月13日、ある小冊子の取材を受け、できあがった誌面を見てビックリ。「これ新潟の森林の写真じゃないですよ」と注文をつけたが、もう遅い(こっちに落ち度はないのに・・・)。結局、「写真はイメージです」って注釈入りになってしまった。普通の人はわかんないんだけどね。

 5月11日、母を迎えに松代日帰り。母の日なので、娘が幼稚園で描いて来た家内の顔の絵を見せた。「きえみ、おかあさんのかおに、はなとみみがないよ」と言うと、「だって、せんせいがかけっていわなかったもん」と答えた。3歳にして、既に最近の若者の受け答えをしている。

 5月5日、飯豊の市野々登山口が廃道状態になっているので、残雪を利用して登ってきた。登山口まで久しぶりの砂利道走行。ところどころ残雪を拾いながら歩くが、1000m付近までは比較的最近手入れされているようだ。何とか地蔵岳往復した。

 5月4日、よりによってこんな日に、マリンピア日本海に行くことになった。しかし、村上を7時過ぎに出て、8時半に到着すると、9時開場のはずが、運良く8時半開場。12時前にマリンピアを出ると、渋滞は県庁まで続いていた。娘は霊柩車を見つけて、「おまつり?」と訊いた。

 5月3日、母と実家に帰った。今年の積雪は少なく、最高で150cmくらいだったらしい。羽目板を外し、家の窓を開けて、去年と同じようにスキー場のリフト下り場でおにぎりを食べた。脇にはわずかに残雪があった。松代町の木、ブナの新緑がきれいだ。

 4月29日、山北町浜新保集落から新保岳に登った。天池ではクロサンショウウオの卵の他に、ニホンマメシジミを発見。その他、エムラマイマイの幼貝を2個体(色帯が違う)発見した。山頂で塩野町側から登ってきた中村さんと山崎さんに逢い、一緒に浜新保へ下った。

 4月28日、思わぬところでシラネアオイの群生地を発見した。車から10分たらずで、200株以上か。クルマユリもあったが、恐らくヒメサユリもあるだろうな。カタクリはもう無くなろうとしていたが、花の時期はかなりあるに違いない。

 4月27日、数年前植樹祭に行った同僚からもらったハナミズキがひとつ花をつけた。それどころか、ヤグルマソウやエゾアジサイも今年は花を咲かせそうだ。中条町のチューリップまつりは、チューリップよりも店が混雑していて、興ざめである。人が集まればいいってもんじゃない。

 4月26日、朝の雨でいわふねクラブの移動運用(移動飲み会?)が中止になる。図書館に行って自分の本を探したが、やっと見つけた。なんと郷土資料のコーナーに置いてあったのだ。これじゃ、見つけられるはずがない。本来の291の場所に置いてもらうよう頼んだ。

 4月22日、息子の授業参観があったので仕事を休んだが、息子があまりに咳がひどいので、病院に連れて行ったら、ぜんそくだと診断された。結局、庭の草取りに励んだ一日になってしまったが、娘をバスに送り迎えしたりのんびりできた。

 4月18日、朝、外に出たら、鳥の餌台に何か黒い物体があった。よく見ようとしたら、逃げて行った。猫だった。どうしてこんなところに猫がいるんだろう。しかもすぐに逃げなかったことから寝ていたに違いない。それにどうやって餌台まで上がったのだろうか。

 4月13日、母方の祖父の50回忌で松代に日帰り。伯父(母の弟)のあいさつでは、父を亡くしてからの苦労(『森の遠くで』123ページ参照)話が涙を誘った。初孫であった私の誕生など、会場に集まった人達全てが「金塚」の50年間を支えてくれたのだった。

 4月10日、娘の入園式で1日休んだので、その前に小学校へ行って息子の姿を見てきた。さんすうで、「兎はいくついますか?」と言う先生の問いに、「いち、にい、さん」と答える大勢の子供の中で、「いち、にい、スリー」と言っていた息子の声がした。

 4月7日、息子の入学式。とりあえず30分間何も起こらなくて良かった。午後から神林の義父母に息子の晴れ姿を見せに行った。その後、雪割草を見ようと沢からショートカットしたが、3月にあった場所にはなかった。さらに能化山登山口に行ったが、カタクリのピークは過ぎていた。

 4月6日、庭の芝がかなり弱ってきたので、更新することにした。とりあえず10枚買って来て、古い芝を剥がしたが、思いのほか簡単に剥がれた。新しい芝を設置し、目土を散布し、十分に潅水した。しかし、こんなしろうと作業で芝が甦るのだろうか。

 4月5日、神林村の義母が私の子供のために採って来たカワニナをメダカの水槽に移そうとしたら、石だと思っていたものが貝だとわかった。しかも3種類もいる。ドブガイ、マツカサガイ、マシジミ。前2種は初めて見る貝だ。夜は無線の飲み会。

 3月30日、さて、スキーラリーである。前日この1年で体力がものすごく落ちたと知った私は無理をしないでレースに臨んだ。最終チェックポイントまで、4位の好位置に着け、前を滑っていたチームが迷っている間に3位になった。理想タイムはぴったりだったが、板はもらえず。

 3月29日、ジョックン、お系と新赤倉スキー場で待ち合わせ、ゴンドラとリフトを乗り継いで、シールを貼って前山に登る。前山からは妙高山が真正面に見えた。そこから滝沢尾根を滑ったが、途中から悪雪で2年振りのツアーは足にきた。夜はスキーラリーのウエルカムパーティー。

 3月23日、東京の猪俣さんらが21日から蒲萄山から南下しているので、下渡山から鷹取山まで迎えに行った。しかし、猪俣さんらが鷹取山に着いたのが14時半過ぎで、下渡山まで歩くことができず、宮の下集落と寺尾集落の間に下りた。

 3月22日、娘を病院に連れて行ったら、りんご病(風邪の一種)と言われた。しかし、重症ではないので、予定通り家族で「きらきらうえつ」に乗って、酒田へ行った。酒田市美術館の「ハム太郎展」や本間美術館の人形を見てきた。

 3月21日、息子の卒園式。最後の卒園写真で2回目の撮影の時、フラッシュの後、息子は卒園証書の入った筒を放り投げた。午後から家内と息子は謝恩会に出席したので、母と娘を連れて、新発田に雪割草の展示会を見に行った。夜、娘に湿疹が出る。

 3月20日、この1年間、いろいろな物を拾った。コンビニのコピー機に置き忘れていた免許証。列車の座席に落ちていた定期。そして今日は村上駅のトイレで身体障害者手帳を拾った。自分もこれくらい落としているのだろうか。

 3月16日、鉢の雪割草が次々と咲きだし、餌台にはヒヨドリとスズメが絶えず来るようになった。カタクリは1cmほど顔を出しただけだ。長岡でにいがた貝友会の総会があり、参加した。村山先生は72歳でフランスへスキーに行ってきたと言う。自分がその年になったらどうなっているだろうか。

 3月8日、雪割草の展示即売会がふれあいセンターであり、子供を連れて見に行ったが、母は展示即売会においてあったホッケを買っていた。夜は「山と無線」の飲み会が新潟であり、3年ぶりに出席した。最終になるかと思っていたが、昨日と同じ列車で村上に帰る。

 3月3日、『森の遠くで』に挿入されているハガキが2通届いた。売れた冊数からすれば、これくらいのハガキの枚数だと納得したが、「大げさかも知れませんが、著者の本の印象が強かったのでしょうか、今は他の本を読む気が起こらないのです」とは、嬉しいではないか。

 3月1日、数年前からはじまった村上市の雛人形めぐりがしだいに大きくなってきた。昨年は新潟市からのSLだけだったが、さらに今年は駅前でイベントが。ハモネプ日本一の日下ファミリーも登場。午後はゆっくり昼寝をした一日だった。

 2月28日、2月最後の日。係の食事会が18時30分からオークラホテルであった。バイキング料理が次々と替わるので、つい食べすぎて、いつもと酒の量と料理の量が反対になってしまった。あんまりお腹がいっぱいなので、20時に切り上げ、いつもの快速で村上に帰った。

 2月27日、幼稚園の生活発表会。月、火と風邪で休み、火曜日の予行練習もできなかった息子。劇はなんとかこなしたが、歌はほとんど口を開かず、おまけにあくびまでしていた。子供は子供なりに疲れているんだろうが、親は親なりに子供の成長を見なければいけないのだ。

 2月26日、今度はヒヨドリがやってきた。2週間くらい前から置いてあった半分のミカンを2回に分けて、全部食べていった。もっともこのヒヨドリ、囲ってあるツゲの実は、これまで食べていたらしく、ツゲの実のと同じ糞を餌台にも置いていった。

 2月23日、暖かな1日で、庭にテントを張って、昼寝をした。雪割草が蕾をもたげていたので、日向に出しておいたら、花が開いていた。昨日、雪の間から、フキノトウを採ってきたので、いつも最初に採る場所に探しに行ったら、もう採られたあとで、あまりなかった。

 2月22日、山北町浜新保集落から新保岳に登った。これで新保岳は東西南北を歩いたが、今日歩いた西ルートが最高だった。途中のブナ林は何箇所も1泊したいような場所があった。最近山に登ると風邪をひくので、山頂に着いたらすぐに着替えた。夜はいわふねクラブの飲み会。

 2月21日、いつ作ったのかさえ忘れてしまったが、庭に鳥が来るように餌台を置いてからしばらく経った。昨日やっとスズメがその餌台を見付けたらしく、今日には米が全て無くなっていた。ヒマワリの種はスズメは食べないのかな。皮をむいておけば食べそうな気がするけど。

 2月15日、午前に息子の机が来る。午後から新潟に出かけ、藪山ネットの飲み会に出席する。県外からの参加者が2名もあり、合計13名だった。相変わらずの飲み会で、今年は足の爪をいくつツブしたか自慢し合う?変な会合だった。

 2月13日、高桑信一さんの『山の仕事 山の暮らし』が届いた。『渓流』に連載していたものだが、考えて見たら連載を始めた頃から私は『渓流』を買っていたのだった。どちらかといえば、地味に山と暮らしている人達が主人公である。それを高桑さんが炙り出す姿に感激する本である。

 2月10日、さて、「射的王」である。職場の近くにある大きいおもちゃ屋ならあるだろう行ってみたが、無い。ボウリング、テニス、ホッケー、卓球など似たような(?)おもちゃはあるのだが、無いというのだ。それで、ダイエーに行って、やっとひとつ見付けた。売れていないのだろうか?

 2月9日、息子6歳の誕生日。だけど、息子の欲しい「射的王」が無い。クリスマス、正月とあんなに並んでいたのに、どうして無いの?新発田に向かったが、薄暗くなって寂しくなったのか、息子は「家に帰りたい」と言って村上に帰る車の中で寝てしまった。

 2月2日、この1年ですっかり身体が弱ってしまったようだ。山に登って、少し汗をかいて、山頂で少しくらい寒くても、風邪などひかなかったのに、元旦登山に続いて、今日も調子が悪い。これからは冬山では、山頂についたらすぐに着かえるようにしよう。

 2月1日、午前は母と家具屋へ息子の机を見に行き、午後は一ノ瀬さんと山北町寒川集落へ向かった。小学校の脇から取り付き、352.6m峰(点名:松影)へ登る。40cmくらいの雪の下の三角点は発見できなかった。帰りは北東尾根を下った。

 1月31日、峡彩山岳会の会長の谷中さんから、峡彩山岳会の『山岳手帳』を昼休みにいただいた。谷中さんから言われたように、ザックの中に入れておくようにしよう。「藪こぎ」の項には、「鼻歌を口ずさみ、リズムを持って行動すれば、意外と楽しいものになる」などと書いてある。私はまだその域に達していない・・・。

 1月29日、本当によく当たる。県庁から家内当てに手紙が来ていた。きっとエノキタケの新品種の名前の応募で最後のいくつかに選ばれたのだろうと思っていたら、家内の書いた「雪ぼうし」を知事が選んだというのである。ちなみに、「雪ぼうし」は二人いたそうである。(30日新潟日報参照のこと)

 1月27日、家内、息子と新潟に行く。列車、バスで息子も疲れたようで、帰りの列車ではぐっすり。家内も二日続けて新潟に行って、私の苦労がはじめてわかったようで、家に戻ってから「お父さん、毎日お疲れ様」と言った。さて、また明日から仕事だ。

 1月20日、なんだか最近よく当たる。去年息子が七五三で神主の祝詞と一緒に「当たりますように」ってお祈りしたせいだろうか。18日に買った品物の処理をどうしようか悩んでいたが、ホントにビックリ。去年は厄年だったけど、今年は後厄か?年賀状の1等である。

 1月18日、羽田さん達の新年会で飲むので一旦新潟に出て、買い物をして会場に向かった。福島から人達や羽田さんの同僚と楽しく過ごした。新崎駅まで送ってもらったが、最終よりもひとつ前の列車に間に合い、24時前には家に戻った。「大好きな街」を買う。

 1月15日、降雪で路面がツルツル。新潟駅までのバスが、途中から歩く速度よりも遅くなった。北越高校前というバス停で下りるが、新潟駅までどれくらいの距離があるのかわからない。凍った歩道を走ってなんとか列車に間に合った。

 1月13日、ぶどうスキー場に行き、阿部さんと回数券で6回だけ滑る。あとは一ノ瀬さん、菊谷さんが合流して、道路と反対側の笹峯へ。1時間弱の山頂からはコナラ越しにぶどうスキー場が見えた。下りは長池(池というより、たぶんヨシ原だろう)を見て、道路を歩いて蒲萄に戻った。

 1月9日、隣の係の人に、「『キソゴボク』ってなーんだ?」って訊いてみた。「スギ、ヒノキ、クロマツ・・・」、「クロマツはキソにはないだろう。インターネットで調べて見たら」。ところが、彼は「基礎5木」と検索していた。どうりでクロマツが出てくるわけである。前職場にウケる笑い話。

 1月8日、佐藤レイ子さんのお義母さんの通夜に羽田さん、本名さんと出席した。母であり主婦であるのに、あれだけ山に登り、『越後百山』を上梓できたことは、ご主人はもちろんお義母さんの理解があったからだろう。謹んでご冥福をお祈りします。

 1月5日、有田さん、神田さん、渡辺さんが神林村の要害山に登るというメールが来たので、一緒に登ることにした。登山カードでは50分遅れで出発したが、先発3人はあちこち遊んでいたらしく山頂直下で追い付いた。こんな大荒れの日に山に登っている人って一体・・・。

 1月2日、一ノ瀬さんと鷲ケ巣山の前の岳に登る予定だったが、前日の登山で風邪をひいたらしく、喉と頭が痛い。一ノ瀬さんに酒の肴を届け、家でニューイヤーパーティーに参加した。あとはずっと寝ていた1月2日であった。

 1月1日、渡辺明美さんと大蔵岳に登り、菅名岳まで行って丸山尾根を下り、椿平からどっぱら清水経由で一周した。連日登山者が登っているようで、菅名岳まではスノーシューを履かずに歩けた。久しぶりの晴天の元旦登山だった。

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