2002年
12月31日、10時に買出しをしてきて、お昼で年取り。去年から我が家の大晦日は松代方式なのである。だいたい大晦日だと言うのに、夕方まで掃除なんてしていられるわけがない。昼から酒飲みである。そして紅白歌合戦の途中で寝て年を越すのである。
12月30日、漸く前の職場のダンボールを片付ける余裕ができたが、30箱近いのが片付けられるはずもない。ただ、長男は来年1年生になるので、4月までに何とかしなくてはいけない。ほとんどは、自分の部屋の脇の書庫に入れたが、まだ6箱残っている。
12月22日、5人で津川町のカタベラ山と三川村のホウキブナに登った。ホウキブナとは、ブナが箒のようだということで期待していたのだが、アガリコみたいなブナは一本もなかった。それよりも山頂の木々が1mの高さで刈り払っていたのは、なんだったんだろう。
12月19日、息子が通っている幼稚園のクリスマス会。年長組が聖誕劇をするので、年少組の時から楽しみにしていたのだが、1年で1番大事な日が昨日終わったので、仕事を休んで観に行った。息子はヒツジ飼い。長いセリフも何とかこなせたようだ。
12月14日、調整池は大雨の時しか水が溜まらないので、我が町内の遊び場となっている。息子と娘にソリを持たせて遊びに行ったら、近所の息子と同じ歳の女の子も来ていた。途中から私はクロカンと持ってきて、子供以上に雪と戯れた。
12月12日、高地肺水腫既往者は無呼吸症候群の確率が高いのではないかと検査を受けた。確かに呼吸が止まることはあるが、3、4人に1人いる程度で、病気ではないと言う。小林俊夫先生がどうしても私に逢いたいと8時に医局で逢った。常念が真っ白だった。
12月11日、松本市の信大病院に行く。高地肺水腫既往者が短時間に4000m程度の環境に置いた時の身体の変化を調べるためである。列車が遅れたが、何とか予定どおり接続でき、13時に信大病院に着いて、検査を受けた。夜は夜でまた検査が・・・。
12月10日、昼頃から窓の外が真っ白になってきた。仕事を終えたあと、新潟駅までのバスが遅れていたので、思わずタクシーに乗った。村上は降っていないと思っていたのに新潟と同じ10cmくらい雪が積もっていた。ただ、さすがに少し北なのだろう、新潟と比べ雪が乾いていた。
12月5日、7月下旬に相模尾根で人が亡くなったなんて全く知らなかった。家内は暑い日だったと言った。登山道の草刈を行っていた旧三面集落の人だ。レポートを一読して、蜂が原因だと思った。35歳という若さなのに・・・。
12月4日、種生物学会から『保全と復元の生物学』が送られてきた。鷲谷いづみさんの「2000年、サクラソウ自生地にて」を電車の中で読んだら、こちらこそ背筋が寒くなった。木を植えることが、どんどん自然を壊していく。一度だけ、逢ったんだよな、鷲谷さんに。
12月3日、会社にテレビカメラが5、6台来た。カメラが漸くいなくなったので、今日から勤め始めた女性に忘年会の話をしに行った(私は幹事なのだ)。そして顔を上げたら、カメラがこっちと向いていた。ゲッ、声は録音していなかっただろうな。
12月2日、先週金曜日に配布された『林業にいがた』で連載していた「ずい想」が終了した。そしたら、隣の係の同僚が一冊本を欲しいと言う。そして今日月曜日、「3日間、武田さんといるような感じでした」と言った。彼は大学時代、山岳部に所属していた。
12月1日、息子5歳、娘3歳の七五三。写真撮影で刀を持たされた息子は隣の獅子と戦おうとし、扇子を持たせて座らせれば落語を始める。神社で「交通事故にあわないように。病気にならないように」と神主から祝詞をあげてもらえば、続けて「おもちゃをかってもらえますように。(懸賞が)あたりますように」と言い、その後踊りはじめた。
11月30日、弟が野菜をもらいに村上まで来た。次男の駿平を連れてきたのだが、同い年の娘は仲良く遊んでいた。昼は焼き肉にして、帰りに鮮魚センターに寄って帰って行った。久しぶりに「筋肉番付」を見た息子は興奮していた。
11月27日、石井スポーツから、「輪カンジキとガスバーナーが直った」という電話が来た。ガスバーナーの修理代は無料だった。当たり前だよな、プリムス。『テレマーカーになる本』と買った。ヒデが冒頭に出ていたからだが、それ以外に読むところのない本だった。
11月24日、三額山に登って帰ろうと思っていたが、虚空蔵山まで行こうという話になり、5人で三額山に向かう。山頂は刈り払われていて、朝日連峰、村上市街、粟島が見えるようになっていた。虚空蔵山までは5年前に歩いたことがあるのだが、だんだんと踏み跡が消えて行くのがわかった。15時に家に戻り、神林村大池でハクチョウに餌をやる。
11月23日、床屋に行き、それから幼稚園で父親参観。歩いて家まで息子と帰り、午後から朝日村まほろば温泉でいわふねクラブの忘年会。10人以上が集まり、深夜までたわいのない話が続く。
11月22日、気がつくと、職場の窓から飯豊が見えていた。前の職場は見ようとしなくても飯豊が見えたのだが、今の職場は窓の外を見る余裕もない。相変わらず戦いは続く。こんな奴らをなんで相手にしなければいけないのか?というか、どうしてそういう考え方しかできなくなるのか、もっと考えたらどうなんだい。
11月17日、羽田さんにニ王子岳に誘われていたのだが、午前中に娘と父親なんとかがあり出かける。午後から家族全員で小国町の樽口峠に行く。タイヤは替えてあったが、道路が少し凍っていて怖かった。真っ白な飯豊を見ながら、雪で遊んだ。
11月16日、雨の休日で一歩も家から出なかった。部屋の片付けをして、髪の毛を家内から染めてもらっていると(父親ゆずりで白髪が多いのだ)、娘が「パパ、何してるの?」と訊く。考えてみれば、自分も同じように母が父の髪を染めているのを見ていたのだった。
11月13日、もう10年以上も前に退官された大学の先生が来て、先生から話を聞いた。この先生は研究室は違うが、私の論文の審査をしていただいた先生だ。私の名前は覚えていないようだったが、顔だけは覚えてくれたようで嬉しかった。
11月10日、実家の冬囲いのため、日帰りで松代に行く。朝の電話では、「新たに30cmも積もった」と母から脅されていたが、雨で木曜日よりも若干多い程度となっていた。見附から弟もかけつけ、三人で冬囲いをした。母の実家によると、祖母が悲しそうに送ってくれた。
11月9日、11時頃、買い物に出て15時頃、家に帰ってきた。昼飯は・・・?それから家内の車のタイヤを替えた。替えたとたんに大荒れになった。メジャー対巨人をテレビで見た。メジャーのパワーを見て、松井が通じるだろうか不安になったのは、私だけだろうか。
11月7日、タイヤを替えて、母と一緒に松代に向かう。家のまわりは10cmの雪。20cm積もったというのは本当だった。それから美人林に行った。被害は予想したほどではなかったが、自分の予言(私ではない他の二人の言葉)が当たったのは、「それ見たことか」(これも他の二人の言葉)である。
11月6日、何かとんでもないことが起きる時というのは、やっぱりこうなのかもしれない。1週間ほど前に、私のところに「やっぱり何かしなければいけないと思うけど」という電話が来たのである。それで資料を送ったばかりなのだ。そして「武田さんの言う通りになりました」という電話が今日来たのだ。
11月5日、昨日雪で遊んで来たばかりだと言うのに、家の前が真っ白になった。積雪は3〜5cmだろう。電車は当然遅れて、会社に着くのは1時間近く遅れた。会社の人達は、私が長靴で来たことを驚いていた。
11月4日、家族で笹川流れに行き、国道7号の大毎集落から朝日村高根集落に向かう道路を進んでいたら、雪に阻まれた。でも子供は長靴だったので、思わぬ雪合戦、雪だるま・・・。プラスチックのケースに入れて、雪を持ち帰って、お風呂でも遊んだ。でも、娘は雪が解けて無くなるのが悲しいようで、「お外に出して」と言うので、半分に減った雪は玄関の外に出された。
11月1日、新潟までの電車の中から真っ白になった飯豊が見えた。でも職場に着いたら、窓から飯豊を見ようと思いもつかなかった。すぐに仕事しなきゃなんないからね。副社長がやっと納得してくれた。でも本心ではない。技術屋と事務屋との壁は厚いというより、お互いが理解する努力をするべきだろう。
10月28日、東京から『越後百山』3冊の注文があり、佐藤レイ子さんに職場の玄関まで本を持ってきてもらった。今年はこうして我が職場の玄関で会うだけで終わってしまうのだろうか。そう言えば、昨年の今頃は新雪の大樽山を二人で登ったっけ。今、外は雨、山は雪だろう。
10月27日、先日出張で食べた中条町のラーメンがおいしかったので、家族全員で食べに行く事にした。その後、ボーリングをして、家に帰る。白山書房から『人はなぜ山へ』が届く。巻末に「好評の読み物」として、すごい人達に混じって自分の本の広告があった。
10月26日、予想以上の天気だったので、午後から家族全員で神林村の要害山に向かう。ところが20分も歩くと雲行きが怪しくなり、馬洗場で引き返そうと休んでいると突然雨が降り出した。急いで下り、他の4人を家内の実家に置いて、私は村上に洗濯物を片付けに向かった。
10月24日、職場の消防防災訓練があった。社長は、「7年前よりも避難が1分早かった」と喜んでいた。でもね、非常階段を使わない避難訓練なんだよ。あれは、開かずの扉かよ。「最近は何が起こるかわからない」と言いながら、全く危機管理意識のない我が職場である。でも、本心は非常階段を歩いてみたかったのだよ。
10月20日、昨日参加しなかった人も含めて、50人以上で馬ノ髪山に登った。それから13人で俎倉山へ向かった。天然スギが立派な籔を歩いていると、大佐渡を歩いているような気持ちになった。俎倉山は5回目だが、天狗の庭は22年ぶりだった。
10月19日、県山協(新潟県山岳協会)自然保護委員の集まりがあり、講演をした。40人以上の人が聞いてくれて、質問も多くあって、嬉しかった。その後で、懇親会があり、いつものようにわけがわからないうちに寝ていた。
10月14日、ものすごい筋肉痛だ。登山を始めて、こんな筋肉痛は初めてだ。今日が休みで、本当に良かった。家を建てたとき、階段に手すりをつけたのだが、子供がまず使い、今日は自分が使っている。登山者は歳をとる前に、バリアフリーの家を心がけねばならない。
10月13日、南俣出合から3時間で会津丸山岳山頂。誰もいない山頂で、至福の1時間を過ごす。しかし、今日中に車まで戻らなければならない。下り始めると、追い越した4人パーティが登ってきた。テントを回収し、16時半に車に戻る。
10月12日、羽田さんと会津丸山岳に向かう。倉谷川大幽沢出合に車を停め、大幽沢に入渓。窪ノ沢出合手前の淵で、腹まで水につかっている状態で、左ふくらはぎが痙攣。右岸の岩にしがみついたまま、しばらく動けなかった。それでも南俣出合まで歩いて、テントを張る。
10月5日、24時半まで職場にいたので、当然家には帰れず、朝8時過ぎに村上駅着。急いで前職場に行って、樹木名当てクイズの設営をする。15時半からは記念式典、そして祝賀会。それにしても現役がいない祝賀会とは・・・。
9月30日、9月最後の日。今日で新年度になって半年が過ぎた。やっとという感じだ。15年ぶりに変わった職場。わからない仕事。今までと違ったうるさい環境。係長のすぐ下という立場。長距離通勤。残業・・・。山に行きてえ。今年の渓流釣りは1回だけだった。
9月29日、にいがた貝友会の採集会で、新発田市の五十公野の豊田神社と菅谷不動尊へ行く。その後、来週土曜日の樹木名当てクイズのルートを再検討する。そして今日山に登らなければ、今月の山行は0になってしまうと、お城山に登る。
9月22日、佐藤レイ子さんの『越後百山』を読んで、私の名前を見つけ、それ以降何回か電話してくる山北町浜新保の女性(78歳)が、今度は私の本が出たということを知って電話してきた。ドライブがてら、家内、子供を連れて、本を届けた。
9月21日、幼稚園の運動会。息子は借り物競争で、借りる人を選んでいた。「帽子をかぶっている人」か「ビールが好きな人」だが。私は「肩車をしてくれる人」で子供を肩車したが、なぜか「肩車してくれる人」の借り物は、それ以降なかった。
9月19日、渡辺明美さんが職場に来た。別の階に来たついでに、寄ってくれたようだ。「展望の良さそうな職場でいいですね」と言われて、はじめて今日は飯豊が見えていたと気づいた。毎日外を見る余裕がないんだよ。
9月17日、佐藤レイ子さんと17時30分に職場の玄関で待ち合わせる。『山の本41』に化穴山の紀行文が掲載されて、4冊送られてきたので、登場人物に渡すためだ。レイ子さんは、梨を持ってきてくれた。私が好物だということを知っているからである。わずか数分のことだったが、一緒に山に登っているような気になれた。
9月16日、雨が降っているので、出かけるのを躊躇う。昼ご飯を食べてから、胎内フラワーガーデンに行き、胎内ロイヤルホテルで温泉に入る。息子は風呂をプールと勘違いして、泳ぎまくる。胎内ハムを買って、胎内高原ビールを買って、家に帰る。
9月15日、庭でテントを張っていたら、息子が外でご飯を食べたいと言う。テープルとイスを出して、焼きうどんを食べる。夕方になって、野潟へ行って魚釣りを見て、帰ってきて、外で焼き肉。こんなに涼しくなってから、外で食事をしているのは、我が家だけだろう。
9月14日、午前様になって家に帰ってきて(4時間残業すると、村上行きは最終しかなく、24時をまわってしまうのだ)、メールを書いていたら、3時過ぎまで起きていてしまった。午前は先週のブロックを並べ替えて、家とブロックが平行になるように直した。
9月8日、芝が花壇に侵入してきたので、レンガでも積んで境にしようと思ってホームセンターへ行ったら、色着きのブロックが安かったので、16個買ってくる。2時間かけて、漸くできたと思ったら、ブロックと家の間の幅(5m)が端と端で、5cm狂っていた。つまり平行でなかったということ。
9月7日、午前にイヨボヤ会館へ行き、鯉に餌をやりに行く。そしたら、クリが落ちていたので、去年のことを思い出し、午後から前職場に行き、クリを拾う。10月5日には、50周年記念一般公開があるので、樹木名当てクイズの構想をねりながら、構内を見て歩く。
9月1日、子供を連れて、イヨボヤ会館の鯉に餌をやりに行く。その後、三面川河口にハゼ釣りを見に行くが、全然連れていない様子。午後から、子供と連れて三面川にメダカ採りに行くつもりだったが、昼寝をしてしまった。残暑の厳しさに、クーラー効かせての昼寝は正解だったか。
8月31日、家族で新潟に電車で行く。大学の恩師が個展を開いているからだ。退職して、仕事を離れ、趣味に生きている姿には賛否両論あるだろうけど、まあいいじゃないですか。残りの人生をどう生きようと本人の勝手だからね。
8月25日、朝から昨日の後片付け。雨で濡れていたけど、幸いいい天気で、短時間のうちに乾いてくれた。終わってから、また反省会だというけど(昨日もやったのにねえ)、時間がもったいないので、子供を連れてプールに行く。
8月24日、町内の夏祭り。天気が不安な状態で、朝から準備。17時に「さあ開始」という段階になって、断続的な土砂降り。それでも去年くらい売上があったというのだから。今年もチケット売り係。ゆっくり飲めたのは、反省会になってから。
8月23日、なんだかよくわからないけど、新発田市で線路が陥没して、職場に着いたのが11時だった。電車の中では、村上市の山・無線仲間が偶然一緒だったので、退屈しないですんだが、おかげでその分遅くまで職場に残ることになった。
8月22日、県山協(新潟県山岳協会?)の集まりで講演をしてほしいという依頼があった。いろいろな山好き(この集まりは特に有名人が多いと思う)と知り合うのはいいことだし、春の関川村山の会と中条山の会の合同研修会での講演と同じでいいのなら、と引きうけることにした。
8月19日、10日ぶりの職場。まだ人も少なく、夏休みって感じ。とりあえず、島の人が全部帰るのを見送って、ヨドバシカメラで腕時計の電池を替えて、電車に乗る。疲れたので特急に乗ったが、帰りの特急料金は通勤手当には含まれていないのだよ。だって、17時15分きっかりに帰る計算しかしてないんだから。19時15分に村上に着いたが、すっかり暗くなっていて、冬が近づいて来たって感じ。
8月18日、ニ王子岳に登ろうと新発田市を走っていると、新発田の長谷川さんと無線がつながり、一緒に登ることにする。暑いせいか、思ったよりも人が少なく、11時半頃は二人だけの山頂になった。今日の登山者は20人もいなかったのではないだろうか。
8月17日、樽ケ橋遊園に行く。以前一度来たことがあったのだが、全部を見ていなかったようだ。お昼を食べて、神林プールに行く。娘は休みながら浮き輪を使って25m泳ぐ。息子はなまじ足が付くので、疲れてすぐに浮き輪を投げてしまう。夕食のガストでは、娘が寝てしまった。
8月16日、朝ご飯を食べて、村上に向かう。12時過ぎに村上に着いて、ご飯を食べて、息子と荒川町のプールへ行く。プールには同じ一丁目ののニ家族がいた(荒川町は村上から二つ離れた町なのに)。夜は家内が同級会なので、息子と娘とご飯を食べて、21時に迎えに行く。
8月15日、弟家族と菖蒲放牧場で11時に待ち合わせるために、美人林、大厳寺牧場、山伏山、野々海を回って目的地へ。一緒に墓参りをして、お昼を食べて、母の妹の家と、母の実家へ行く。ご先祖様は子供達の大騒ぎに、さぞ驚いたころだろう。
8月14日、家内、息子、娘を連れて、松代へ向かう。子供は車の中で朝飯を食べ、二回休んで松代へ。お昼を食べて、どこかへ出かけようとしたら、お客さんが来て、結局16時過ぎに津南のひまわり畑に向かう。
8月13日、午前にプールに行こうと思って、プールの前まで来たら、「そう言えば、火曜日は休みだ」って気づいた。それから店で買い物をして、家内の実家に帰ってお昼をいただく。家に戻って、遅い昼寝。9連休の4日目が終わってしまった。
8月12日、母を実家まで送る。実家に着いたら、ツバメの雛が巣から落ちたのだろうか死んで干からびていた。そしたら近所の人が、「トラバサミをつけたイタチを追いかけてきたら、お宅の縁の下に入ってしまった」と言ってやって来た。母が縁の下を覗いていたら、何やら変な物体がある。二人で引っ張り出すと、何と猫のミイラ。喉によく通らない、昼ごはんを食べ、村上に戻る。
8月11日、午前中は荒川の温水プール。午後から母と息子3人で、胎内川が水無川になっているのを見に行く。沢登りや渓流釣りをしている人が「胎内川は水が涸れる」と聞けば、ビックリするのではないだろうか。水が涸れる箇所と水が復活する箇所の写真を撮った。
8月10日、昨日のギギギリの折衝で(何の?)、今日から夏休み。午前は三面川にメダカを採りに行く。午後はプールと胎内川の水が涸れている様子を見に行く予定だったが、寝過ごしてしまい、夕方になってから海に行く。夜はいわふねクラブの飲み会。
8月9日、3階上の二人の課長補佐と三人で飲む。この三人、これまで面識はなかったのに、それぞれの知人をかいしてトライアングルのように繋がっていたのだ。仕事とは全く違う山談義。こういう人を知ったことだけが、異動して(されて)良かったことか?。
8月8日、高田で飲む。「武田さんもこんな仕事が増えると大変だね」とは前任者の言葉。増えるのはかまわないけど、その分通常業務を減らしてよって感じ。「家庭不和を作るなよ」と先輩に言われ、18時44分の電車に乗り、22時過ぎに家に帰る。
8月2日、息子が参加しているスポーツクラブの水泳教室3日目(最終日)を見に行く。初日は顔をつける度に、「タオル」って言っていたらしいが、3日目の今日は先生の話も聞かないで、顔をつけるのと出している時間が同じくらい潜っていた。夜は岩船港に行き、遠くに荒川の花火を見ながら、近くの岩船の花火を見た。
7月27日、家族で鳥海ブルーラインの鉾立から賽の河原まで歩く。母はそれからひとりで御浜まで(実際は扇子森まで)登った。真夏の雪投げをして息子と娘は楽しんでいた。家に帰ってから、息子に訊いた。「今日は楽しかったね。こうやって(手で握るしぐさをする)、丸くて白いの、何だっけ?」「せんべい」「お前は大平山荘の鹿せんべいしか覚えていないのか(確かに鹿せんべいは丸くて白かったが)」すると娘が「ゆき」と言った。
7月20日、あまりに暑いので、プールを出した。水を入れていたら、息子と娘は水が温まる前から入って遊んでいた。そう言えば、今日は海の日だと気づき、午後5時になって瀬波の海岸に行く。
7月17日、白山書房に行き、蓑浦さんと飲む。あらかじめ〆張鶴を1本送っておいたのだが、ほとんど二人で飲んでしまった。だけどそれ以上に本をもらってきた。10周年記念マグカップは羽田さんの分もいただいてきた。いやいや感激。〆張鶴は翌日にあまり残らない酒なので、それも良かった。
7月14日、心配していた雨もあたらず、能化山に登って訓練。今日は一周せずに、往復した。一般参加していた神林村の女性が私の本を誰かから借りて読んだらしいのだが、「おもしろかったから、もう一度読みたい」と言って、本を買ってくれた。
7月13日、午前中に買い物を終えて、昼寝をして、岩船地方山岳遭難救助訓練の会場(村上市・旧吉浦小学校)に行った。体育館に入ったら、もう大六さんはじめ集まった人達が飲んでいた。遅れてはならないとビールを飲み、打ち合わせの後、懇親会。
7月12日、我が家の兄妹の会話。「きえみちゃん、おしりふいて」、「わかった」・・・「ありがとう」・・・お前ら逆だろう。ちなみに娘はまだオムツがとれていない。朝またも大六さんに特急いなほで逢った。グリーンシグマの社長の話をしていたら、なんと17時前に我が職場に社長が来た。これって偶然。それとも平田の縁か・・・。
7月10日、信州大学医学部付属病院からモルモットの案内が来た。「短時間で3000mの環境へ・・・」、おお、いいねえ。それに「ポリソムノグラフィー」、それって俺のいびきも調べてくれるのかなあ。まあ、とにかく申し込むことにしよう。
7月8日、ISO取得を目指しているらいしが、我が職場28度を過ぎても冷房をいれない。でも社長の部屋には冷房が入っているらしい。それで我が島は扇風機を回している。午後から冷房が入ったらしいが、相変わらず扇風機とウチワの職場。となりの島よ、扇風機回して、両手で仕事しろよと言いたいが、本音は暖房いれなくてもいいから、冷房いれてくれだな。
7月7日、村上大祭本番。だけど雨・・・。まあ、梅雨の時期の祭りだからしょうがないと言えばしょうがないのだけど。午後からテレビで日下ファミリーを応援する。しゅんぺいくんは家内が幼稚園で年中組の時教えた子供、奥さんは息子と娘のにこにこ親子の先生だもの。優勝おめでとう。
7月6日、朝から蒸し暑い。能化山に登ったが、粟島はぼんやり霞んだ状態。ニ王子岳にいた長谷川さんとQSO。午後から村上大祭の屋台を見に出かける。息子が金魚すくいで取ってきたきた金魚は、夜に1匹死亡する。だいたいそんなものなのだ。
7月4日、通勤の特急いなほで、大六さん(関川村長)に会った。5月25日の講演のお礼に戴いた色紙の話をすると(その時は、大六さんは出席しなかった)、鞄の中から原稿用紙を取り出し、その意味を書いくれた。「此従り東に行きて大流沙に入る・・・・」と続く文章である。
7月3日、ふと思い出して飼育箱を覗いたら、カブトムシが2匹成虫になっていた。幼虫から飼育していたものだ。あれはある小学校でカブトムシの幼虫のオスとメスの見分け方を説明したものだった。ところが、なんと2匹ともオスだった。もちろんメスだと思っていたのは、ホンマカブトだった。
7月2日、『林業にいがた』の「ずい想」を書いていた人とトラぶったらしく、9月号から12月号までまかされることになった。一箇月、1200字と写真1枚。これで本が10冊以上は売れるだろう。いや、売らねばならぬ・・・。
6月30日、母と二人で高坪山に登る。飯豊は見えないものと期待していなかったのだが、何とか見えた。午後から家内、息子、娘と白鳥公園を下見した後で(子供が車の中で寝てしまったのだ)、荒川運動公園に行き、アスレチックで遊ぶ。
6月29日、8時に床屋に行き、10時前にはミミリン(娘がキティちゃんのことをこう呼ぶ)のタンクトップを買うために店の前に並ぶ。5月にメガネを買えてから、どうも耳の裏に違和感があると思ったら、イボだった。11時半には病院に行き、そのイボを取ってもらった。
6月28日、職場で「ボヨバ」が何という意味なのか話題になった。何となくわかったが、それを確かめようと家に電話したが、何度かけても誰も出ない。家に帰って、母に訊いたら、やっぱり思ったとおり。でもなんで、こんな質問するの?末端はそれがわからない。
6月23日、亀山さんの奥さんから日本画の展示会の案内が来たので、午後から都合をつけて行ってきた。帰りはボーリングをしたりして家に着いたら亀山さんが家に来た。そうだ、中条に行くのなら、わざわざ亀山さんに本を取りに来てもらわなくても、奥さんに渡せば良かったのだ。
6月17日、渡辺明美さんとのホットラインで羽田寿志さんから『山の本40』が届いた。静山紀行の「人による」は全くそのとおりだ。山小屋に泊るつもりだったのに、寝袋を持って行かないのだから、雨具だけで野宿も当然だろう。まあ、どうでもいい人なのである。
6月16日、午前母、息子、娘を連れて岩船港と野潟をまわる。夕方になって母と息子と岩船港に再び行って竿を出す。ところが、全く連れない。新聞情報は釣具屋のデマのような気がしてくる。でも、夕暮れをのんびりできただけでもいいか。
6月15日、左肘の滑液包炎の水を抜いてもらって家に戻るとクロイワマイマイが発見された。なんとホットプレートのダンボール箱の中にいたのだった。これでエチゴマイマイとクロイワマイマイの同居が始まった。さて、バカ騒ぎのツケがまわってくるのはこれからだ。
6月10日、渡辺明美さんとのお互いの会社をつなぐホットラインができた。なんてことはない、渡辺さんの会社の支社が、私の会社の建物の中にあるのだ。いただいたカタツムリは大蛇山のエチゴマイマイ。いよいよ菱ケ岳で調査しなければならなくなってきた。
6月8日、いわふねクラブの定期飲み会。いつもは無線、パソコン、山の話に終始するのに、なぜか最後は教育?でも親が子供をたたくから、子供が友達をたたくようになるって本当かな。情報提供した石転び沢の不明者が見つかったけど、我が家ではクロイワマイマイが行方不明になった。どこへ行ったのだー。
6月5日、昨日から久しぶりに3月までいた職場に行く。今日は20mくらいのスギを倒した。これまで10mくらいのスギや広葉樹は切ったことがあったけど。職場から定時に帰って、整形外科に行ったら、「滑液包炎」と診断された。ほおっておいてもいいのだけど、水を抜かれた。
6月2日、石転び沢を登り、北股岳に登って門内小屋で宴会して梶川尾根を下る。疲れた、疲れた。8人で行って、俺が一番若いのに。それにしても今ごろの石転び沢でもこんなに人が多いんだね。夏だけだと思っていたのに。久しぶりのコルリクワガタに逢えず。
5月30日、研修最後の夜で打ち上げ。今だけを考えれば打ち上げに参加するのだが、自分の一生を考えて、高尾山夜間登山を選ぶ。ところが、途中で雨に叩かれ、引き返すことに。今度は絶対に山頂から夜景を見ながらビールを飲むぞ。
5月29日、自分の部屋に鍵をして寝ている警備員を叩き起こし(誰を警備してるんじゃ)、5時40分に研修所を出発。コンビニで朝飯を買い、表参道を登って、高尾山山頂で30分。それから稲荷山コースを下って、研修所7時40分着。残念ながら視界はきかず。
5月28日、昨日から高尾で研修。早朝自転車で白山書房を探し出し、さらに高尾山登山口を確認。夜に白山書房を訪れ、蓑浦さんと一杯。嫌々ながらの研修も白山書房の近くということで気が楽になる。家に電話したら、島本達夫さんから手紙が来ているとか。
5月25日、関川村山の会と中条山の会の合同研修会で、「登山者のための森林学 −ブナ林を中心に−」という講演をした。懇親会では、「高山植物を知っている人はたくさんいるけど、木を知っている人は少ない、参考になった」とありがたい言葉をいただいた。
5月19日、羽田寿志さんによる私の本の書評が日報に載った。「まじめな山岳会代表」とは、日報社に勤める友人Wさんが付けたのだろう。原稿と若干違うところは、いい所もあるが、逆に悪くなったところもある。しばらく原稿をそのままアップしておこう。
5月18日、庭のナナカマドの花が終わった。一昨年は一つ(何という単位かわからないが、一塊ということだ)、去年は三つ、そして今年は二十三も咲いた。来年はいくつ花をつけるのか楽しみだが、ほとんど成長しないのが悲しい。
5月15日、東京の猪俣恵美子さんが『新ハイキング』に私の本を紹介してくれることになっていたが、今日その雑誌が届いた。羽田さんの本を通して知り合ったとはいえ、こうして遠くの人が私の本を紹介してくれるとは嬉しい限りだ。これも、ありがとう。
5月12日、父の恩師・西潟哲雄先生が湯之谷村から来た。「幽谷大滝有声呼 梅鉢草一華香凛(幽谷の大滝に呼ぶ声有り 梅鉢草一華凛として香し」の色紙が土産である。私の本の「ウメバチソウ咲く谷」を読んだ感想だ。
5月10日、今日は水原町の女性からハガキが来た。佐藤レイ子さんの本も読んでいるようだ。メールアドレスではなく、住所にしたのはこうやってペンを持ってまで返事を書いてくれる人がどれだけいるか確かめたかったからだ。ありがとう。本当にお礼を言いたい。
5月9日、さいたま市の読者からハガキが来た。自分と同じように生物部から林学科へ進み、藪山を歩いている人からであった。全国で、自分と同じ生き方をしてきた人から手紙が来るなんて、すごく嬉しい。
5月8日、職場の歓迎会から帰ると小林俊夫先生からお礼の手紙と高地肺水腫の文献が届いていた。そのなかでも、「登山中の中高年者突然死9症例について」は、40歳を過ぎ「中高年登山者」の領域に足を踏み入れた自分にとって考えさせるものであった。
5月6日、今度は東北電力監視小屋を改めて確認するために、摩耶山に登った。中尾根を登ろうと思ったが、途中まで行くとデブリがあり、引き返して関川登山口から登る。ブナの写真を撮りながら歩き、5回目の山頂に立った。
5月5日、光兎山で車上荒らしにあったと新潟日報の投書欄に載っていた。私は10年近く前から新潟県北の他の山や山形県の朝日連峰登山口でも車上荒らしがあることを知っていたので、車には絶対財布を置いて行かないことにしている。
5月3日、摩耶山に登る度に気になっていた東北電力監視小屋へ行って、少し藪をこいで長根ノ峰に登った。管理道は立派だし、長根ノ峰からは月山、以東岳など山々がよく見えた。ゴールデンウイークでどこも人がいっぱいだろうが、静かな一人だけの山を楽しめた。
5月2日、ついにやってしまった。職場以外の人からの歓迎会2回目。この前と同じ特急に乗ったのだが、府屋まで乗り越してしまった。タクシーで村上に戻ったが、思わぬ出費。家内には黙っていよう。乗るなら飲むな、飲んだら乗るな、特急に。
4月29日、マリンピア日本海に行く。毎年この頃行っていたのだが、これまではゴールデンウイーク中じゃなかったようだ。すごい人で、30分前からイルカスタンドで場所を取った。ひととおり見て、ケヤキの木陰でサンドイッチを食べ、職場の展望台に上がって帰る。
4月28日、祖母と母を車に乗せて、松代に行く。沢のあちこちに残雪がある。ブナの新緑がきれいだ。畑のウドはまだ顔を出していない。母と家を明け、スキー場のリフト降り場に座って、松代を眺めながら、オニギリを食べる。駒ガ岳放送局を話ながら村上に帰る。
4月27日、明日、21日から泊っている祖母を松代に送るので、不在者投票に行く。その後、祖母がもう一度見たいと言う阿弥陀様がある浄念寺に行く。村上に15年もいたけど、こんなすごいのがあるなんて知らなかった。
4月26日、まずは職場以外の人からの歓迎会1回目。「こんなことやってちゃダメだよ」、「木の名前も知らない人間がやってんだからさ」と酒を交わす。21時46分発のいなほに乗ったが、うっかり寝てしまった。でも、坂町で起きて、ラッキー。
4月25日、会社の書店で、『週刊 続日本百名山』を立ち読みした(だって、そのうち羽田さんから買うんだもの)。羽田寿志さんが、杁差岳と二王子岳を執筆するというので、楽しみにしていたものだ。二王子岳を読んでいたら、須藤さんは当然だが、突然自分の名前まで出てきて、びっくりした。
4月24日、朝会社に着くと、さらまわしの唄が全館に流れていた。2、3年前からこの会社に勤めている私の机の近くの同僚は、こんなのは初めてだと言う。一体何を考えているのだろう。「私は木を植えない。そして森を守る」、今はこんなところだろう。
4月21日、10時過ぎに松代から伯父夫婦と祖母が来た。祖母は以前一度来ているので、急いで伯父夫婦とお城山に登り、村上市街の展望を楽しんだ後、おしゃぎり会館を見た。家で昼を食べ、母の畑を見て、堆珠工芸館を見て帰った。
4月20日、明日松代から伯父夫婦と祖母が来るので、朝から家の掃除。時々息子と娘の自転車乗りを監視する。息子は補助輪付きで娘は三輪車。夕方になってから、林道木原木線でのいわふねクラブの移動運用ならぬ移動飲み会に参加する。
4月17日、家内の伯母さんの葬式で、昼から夜まで飲みっぱなし。だって、家内の従兄弟と逢うのは、ほとんど初めてなのだ。結婚式は旅行先で二人でしたし、披露宴もお互いの実家の近くで親しい親戚を呼んだだけだから、従兄弟と逢う機会なんてなかったのだ。
4月16日、山遊亀さんから『県北探訪 山の遊学道 上巻』が届いた。楽しみにしていた本だ。岩船郡の山の地域研究と言えるだろう。仕事の岩石をちらりちらりと覗かせながら、市町村史を目を通して、できたすばらしい本だ。下巻も今から楽しみだ。
4月14日、弟と一緒に東京の親戚に行っていた母を見附に住む弟が家族全員で連れてきた。弟の子供2人と息子、娘で大騒ぎになる。母も4人の孫が揃う時が一番幸せのようだ。弟の義父が採って来た山菜が夕ご飯のおかずになる。
4月13日、羽田寿志さんと山形県の高安山に登る。重蔵山と化穴山に登った時見えた形のいい山だ。登りでは兜岩にも登った。朝日連峰、蒲萄山塊、粟島、月山、鳥海山・・・。やっぱりいい山だった。でもこの山に登った記録はあるのかなあ?下りは雪と雨になる。
4月7日、午後から南大平キャンプ場に行く。毎年この頃フキノトウを採りに行くのだが、今年は雪が少なかったので、大きくなりすぎていた。息子と娘はキャンプ場を走りまわっていた。キクザキイチリンソウやオオバキスミレが咲いていた。
4月4日、毎月の病院通いのため、1日休む。午前は旧職場に行き、後任に引継ぎをする。それから家族でファミレスに行き、私は病院へ。雪割草の「福寿」が咲いている。純白の千重咲きだ。戴いた去年は葉だけだったが、うまく育てたのか、花をつけてくれた。
4月1日、「パパ、仕事変わったんだよ」と言ってもわからないくせに、息子も娘も6時前に起きて、出勤する自分を見送ってくれた。言葉ではわからなくても、様子でわかるのだろうか。改めて子供に生かされている、そんな感じがする。
3月31日、能化山登山口のカタクリは去年より一週間早く行ったのに、盛りを過ぎていた。それから母、息子、娘と神林村要害山に行く。捕虫網を持った下山者にギフチョウを見せてもらった息子は、「ボクの虫も見て」と虫かごを見せた。おいおい、お前の虫かごの中は、去年から入っている蝉の抜け殻だけだよ。
3月29日、4月からの新しい職場に引き継ぎに行く。ほとんどわからないことだらけ。おいおい、こんなんで大丈夫なの?とにかく、新しい職場では自分の能力の範囲で出来る限りやるだけ。出されたのか、引っ張られたのか、わからないけど・・・。
3月26日、職場の送別会。勤めて2回目の送り出される席に座った。瀬波温泉に泊りで、もうしばらくこの風呂に入ることはないだろうと、朝二つの風呂に入った。露天風呂は雨だった。
3月23日、4月からの勤務のため、背広、ワイシャツ、ネクタイ、ハンカチ、靴下等を新たに買う。まあ、こんな職業についたのだから、1回くらいあんな建物に勤めてもいいものだと気持ちを切り変える。毎日展望はいいだろうな・・・。
3月21日、母、息子、娘と山北町板貝の林道を歩く。キクザキイチリンソウ、ショウジョウバカマ、カタクリ・・・。春の花が咲いている。終点でご飯を食べ、引き返す。山菜採り、昆虫採集、何をしに来たのか分らない人、たくさんの車とすれ違う。
3月17日、午前は町内会の総会。午後から母、息子、娘と今シーズン最後の大池での白鳥。それから中条町地本のミズバショウを見に行く。まだ小さいのに人がたくさんいるのに驚いた。
3月15日、蓑浦さんに逢う。メールはたくさん、電話は2、3回だけだったのに、楽に話せる。出版社というのは、こんな小さな部屋でできるのか。羽田さん達に見せるために、写真を撮る。玄関でも蓑浦さんと一緒の写真を撮ってもらう。
3月14日、幸ちゃんとマダムの家に泊まる。〆張鶴がおいしい。翌日の1時半まで話し込む。趣味の仲間は本当に楽しい。ウソがないからだ。酔っ払ってテレマークスキーの仲間にメールを送る。
3月12日、息子と家内が風邪でダウンし、午後から休む。天気が良く、庭の雪割草が半分ほど咲いている。義父が入院したが、たいしたことがないと家内に言われ、職場の飲み会に参加する。
3月10日、山北町高倉山から蒲萄山まで歩く。今川から登り始め、高倉山を過ぎたところで、ガスと雨。5年前の嫌な記憶が甦ってくる。朝日村との境の778m峰で、蒲萄山へ向かう尾根がわからなくなる。わからなければこのまま引き返すことにしようか、と迷っていたが、なんとか尾根を見つけ蒲萄山にたどり着く。
3月9日、にいがた貝友会の総会で長岡に行った。本当に趣味の仲間は楽しい。13時半で懇親会を切り上げ、皆川タクシーに乗って、互尊文庫で久しぶりに安藤さんと逢う。さらにパーマークに行く。
3月6日、浦和浪漫の高桑さんからメールが来た。「戴いたその日に、書きかけの原稿を放り出して半分近くも読んでしまいました。武田さんの文もさることながら、お母様の文に泣かされました。そしてお父さんの遭難の文もです。いい構成になっています。(40歳の)節目の出版として大成功ではないですか?」高桑さんに「大成功ではないですか?」と言っていただいてすごく嬉しい。
3月4日、あごの腫れがほぼなくなり、平熱なので仕事に行く。私がおたふく風邪のウイルスを職場に持ち込むより、杉花粉を家に持って帰る方が多いはずだ。白山書房からカバーの1600円の前に「本体」という文字を落としたため、発売が送れると電話があった。
3月3日、昨日SLに乗れなかったので、初めて走る姿を見た。だって、小学校1年の修学旅行が十日町の駅という田舎だったのだから、汽車が走る姿など知らないのだ。でも昨日母に乗ってもらって良かった。母は出稼ぎに行っていた頃を思い出したと言っていた。
3月2日、午前はSL、午後は山と無線の飲み会と、ワンデーフリーキップで新潟2往復、本も売って丸儲け?の予定だったが、おたふく風邪で全て狂った。それでも次々と我が家に友人が来てくれて、本を持って行った。友人とはありがたいものだ。
3月1日、当然会社を休んだ。15時過ぎに本が100冊届いた。カバーはかなり案に近いものに戻っていた。しかし、表紙が全く何かわからない。森をイメージできる人は、ほとんどいないだろう。でも、とにかく本ができたのはめでたい。でもビールが飲めない・・・。
2月28日、おたふく風邪になった。2週間前に長男がなったものをもらったようだ。最高38.4度の熱が出た時は、15年前の白馬岳の高地肺水腫を思い出した。あごの腫れはまあこんなものだろう。左右のあごに熱さまシートを貼った顔はかなり笑える。
2月24日、鉢の雪割草が咲いた。おそらく祖母が15年以上前に松代のどこからか採って来たのだろう。プランターに無造作に植えられていたものを、一昨年株分けして鉢に移したものだ。フキノトウを採って来た。まだ松代には雪が2m以上も積もっているというのに。
2月23日、以前から気になっていた朝日村の石黒山に登った。村上市の大栗田集落から登ったのだが、冬期に大栗田集落に行くには、神林村と関川村を経由して行かねばならない。2時間もかからずに山頂に至ると鷲ケ巣山が正面に構えていた。
2月20日、カバーの色校正が送られてきた。案があまりにも明るい感じだったので、自分が撮った写真なのに「ウワッ」という感じだったが、少し落ち付いてしまったようだ。案に近づけるよう、赤を濃くし、よりコントラストを強くするのだが、どこまでできるか不安だ。
2月16日、羽田さんの会社の山仲間とこりないめんめんの一部の合同新年会。最終の電車で帰ってきたので、家に着いたのは24時過ぎ。息子のおたふく風邪がそんなに重くならず完治。俺はおたふくになったことがあったかなあ。
2月15日、東京の藪山ネットの女性会員から、8冊の本の注文があった。ありがたいことだ。表紙のデザインが送られてきた。森の遠くでをイメージする深黄緑の森の表紙になった。購入してくれた人は、ぜひカバーをとって、表紙も見て欲しい。
2月13日、「定価を1600〜1800円で決めてください」とメールが来た。予告どおり1800円だと思っていたが、「一人でも多くの人に読んでもらうのが一番の目的なら1600円、赤字を最小限にしたい考えであれば1800円」というのだ。悩んだ末、1600円に決めた。
2月12日、カバーのデザインが送られてきた。自分の撮った写真を最大限うまく利用したカバーにできあがった。おまけに帯までついていた。契約にはなかったが、サービスとのこと。さあ、あとは地図の再校を送るだけ。
2月11日、ザックを背負って家から出ると、区長に「仕事?」と訊かれる。仕事も遊びも同じ格好というわけだ。下渡山に向かうが、財布を忘れて、酒屋でビールが買えない。下渡山を一周して家に帰る。ネコヤナギとマルバマンサクの枝が土産だ。
2月10日、『渓流 春号』を買う。1993年夏から買っているが、自分にとって一番充実している雑誌だと思う。それほど渓流釣りをするわけでもないし、沢登りなんてほとんどしない。でも内容がいいし、1800円だけど、年2回だし。
2月9日、息子の5歳の誕生日。トミーのプラレールじゃなくて、タカラのポケトレインのJR貨物が欲しいと言う。しかし村上にはないので、新発田まで探しに行って買ってきた。せっかく土日に時間の余裕がでてきたのに、冬型で雪が降る。
2月8日、父の誕生日。生きていれば67歳か。本の書店販売が3月9〜11日になるようだ。あと1箇月。自分自身としては、10年以上もの間に書き溜めてきたものだし、いくつかは投稿した文章もあるので、大変だとは思わなかったが、とにかくこれで40歳の区切りだ。
2月7日、ムーンライダーズの「ダイア・モロンズ・トリビューン」を買った。なんといっても3年ぶりのアルバムだ。少しずつ変わりながら、でもまわりに迎合しないでやっているのがいい。誰だってこうやって生きていきたいと思っているのだが・・・。
2月4日、タイムショックに水谷さんが出場した。4チームのトーナメントの決勝で、相手チームが先に10問答えた後に、10問答えたのはさすが。でも延長戦は、1対4と圧倒的に有利だったのに、最後まで波に乗れず残念。今度会った時の楽しみにしています。朝、ニ校を送る。
2月2日、家内が1月からパートに行っているので、幼稚園の自由参観に行く。いやー、母親ばっかで恥ずかしいの。相変わらず息子は他人にはかかわれない。他の子は絵を描いているのに、青いクレヨンをぬっただけの手紙を出すのかよ。
1月30日、5年前はアメリカンチャーチだけだったのに、今では6つも7つもあるのか。マッハのパンフも50ページに満たなかったのに、今は100ページを越えている。息子のことばの教室に行く。
1月29日、『フォールナンバー』から。町田有恒さん「ヤブ山は技術もいらないし、根性さえあればやれることですからね。気力の勝負です。気力の」、笠原藤七さん「川内はこのままでいい。登山道も山小屋もいらない。川内はこのままでいいんです」
1月28日、TAJニュースが届いた。八木さんにメール送ったのに返事がなかったので、ちゃんと行ったかなと心配していたのだけど、やっぱり八木さんだ。ありがとう。文章は下手だけど、そこらに氾濫している「山は楽しい」で終始する本じゃないよ。
1月27日、大池に行ったら、いつもよりハクチョウが少なかった。でも、田んぼでたくさんのハクチョウを見かけた。白山書房から『フォールナンバー』のバックナンバーが届いた。みんな若すぎて笑える。弘山よく頑張った。でも最後のインタビューは見なかった(見ることができなかった)。
1月25日、同一人物なのに、掲示板によって名前を違えている人がいるんですね。何故でしょうか?総合学習、学校五日制のトバッチリで余計な仕事が増えそうだ。でも仕事ならまだ我慢するけど、ボランティアというなら、「お前ら・・・・・」と言いたい。
1月20日、不本意だったけど、胎内スキー場にソリ遊びに出かけた。本当は山のなかで、本当のソリ遊びを子供に教えたかった。家に帰って、野潟の海を見に行く。クロダイ釣りが数人いた。子供と一緒に貝殻を拾っていたら、ブナの殻斗が砂浜に落ちていた。ニ校が来る。
1月19日、リンク集を追加しようと思って、前にワードで作ったファイルをそのまま利用したら、うまくリンクしているようだ。作り直そうと思ったけど、時間がないので、とりあえずこのままでいこう。
1月15日、半年ほど前にできた焼き肉屋がつぶれそうなので、飲みに行く。たらふく食べて飲んで、駅前で二次会。まあ、いろいろあるけど、楽しく生きていこうや。
1月14日、職場の同僚と胎内スキー場に行く。放射冷却でガチガチの斜面での滑り始めは辛い。15時頃になって、やっと一人のテレマーカーを見つける。するとその人は以前同じ妙高スキーラリーに参加していたとか。
1月13日、午前に子供を連れて大池に行って白鳥にパンをあげる。夜に家内と息子と3人で「千と千尋の神隠し」を観に行く。息子は2時間の映画に絶えられなくなったのか、それとも怖いのか、終わりの頃には「おうちにかえりたい」と小声で言っていた。
1月12日、息子が幼稚園で「しらゆきひめごっこ」(毒りんごごっこらしい)をしているようなので、「しらゆきひめ」の紙芝居を買ってきた。娘も一緒に連れて行ったので、「さるかにがっせん」の紙芝居も買ってきた。
1月11日、ブナは平均して5〜7年に一度豊作になるが、翌春以降の種子の保存ができないため、計画的な苗木生産ができなかった。最近になって液体窒素を用いて6年ほど保存する技術が開発されたが、一般人に液体窒素など持てるわけがない。ところがなんと水洗し2日間風乾した後冷凍することで少なくても3年保存できることがわかった。
1月8日、ホームページビルダーとクールのカウンターの相性が悪いのか、しばらくするとカウンターを設置したページがホームページビルダーで開けなくなってしまう。もっともカウンターなんてを気にしているのがいけないのだから、カウンターを外したページにした。
1月7日、浦和浪漫山岳会から月報12月号が届いた。11月に行われた30周年記念パーティの様子が記録されている。記念品はナイフと手ぬぐいだったとか。手ぬぐい集めが趣味の私としてはぜひ手に入れたかった。ちなみに村上市中央商店街の「新宮様御誕生記念」手ぬぐいはある。
1月5日、無線の新年会。これまで会場にしていた店が去年の夏頃閉店したたので、それから隣の店にしていたが、なんとその店が閉店した店を改築していた。建物は変わったが、以前と同じ場所で、いつもより無線の話をした。最近は山とパソコンの話ばかりだったから。
1月3日、家内の実家に年始のあいさつに行く。娘は伯父さんにお昼を食べる暇を与えず、遊んでくれと手を引っ張って行く。年末年始の6連休がこれで終わる。
1月2日、一ノ瀬さんの家に行き、朝日村岩崩に向かう。前の岳避難小屋を目指し、8時10分出発。予想以上に手間取り、10時45分に着。積雪は約150cm。風はほとんどなく戸を開けたまま、ビールを飲む。
1月1日 6時半に起き、メールをチェックして、ビールをザックに入れて、下渡山に向かう。家から約1時間で下渡山山頂。飯豊本山は見えたり隠れたりだが、杁差、ニ王子岳などが見え、いい天気の元旦だ。