2001年

 12月31日、午前中に掃除を終え、昼は手巻き寿司で一年を締めくくる。つまり昼から酒を飲んで、昼寝をして、夜にそばを食べて年を越すのだ。久しぶりにゆっくりした大晦日を過ごせた。

 12月29日、松代へ日帰り。先日実家の雪降ろしを頼んでいる家のおばあちゃんが亡くなったからだ。帰りに長岡のパーマークに久しぶりに行った。それから見附の弟の家に寄り、村上に戻った。

 12月27日、白山書房?から『山と渓谷1月号』が届いた。町田有恒さんの「毛猛山と矢筈岳に登山道が開かれたら日本の山も終わりだろうと思っている」には同感だ。しかし佐武流山に再び登山道が開設されたように、毛猛山と矢筈岳にも近い将来登山道が付けられてしまうような気がする。

 12月24日、大池に行ってハクチョウやカモにパンをやる。息子はパンをやる度に飛び上がって喜んでいた。娘は最初怖がっていたが、そのうち慣れたようでパンを投げていた。

 12月21日、片岡が阪神に行ってしまった。大島監督が披露宴で、「残留して欲しい」って言っていたのに。でもFA宣言して、他のチームに行く記者会見で、涙を流したのは片岡が初めてとか。来年は日本ハムと阪神で日本シリーズをやろうぜ。そんなこと生きている間には無理だけどな。

 12月20日、幼稚園のクリスマス会に行く。年中組で歌っていないのは、息子だけ。おいおい、昨夜はあんなに歌っていたのに。

 12月19日、幼稚園だよりから。バスのなかで、ゆうこちゃんがおでこをおさえながら、「こんぶ、いたい」。すかさず、息子「わかめだよ」。そしたら年長組みが、「たんこぶでしょう」とつっこむ。
 
 12月17日、職場の積雪は21cmだった。皆と同じように雪の中に入っていく。しばらくすると除雪していた同僚から、「マフラーが落ちているよ」と言われる。車屋を呼んで、針金でマフラーを吊り上げて、仕事が終わってから車屋へ持って行く。土日の出来事でなかったのは、本当に運が良かった。

 12月16日、実家の積雪は50cmだった。松之山に行き、しんこもちを買って、親戚に寄った。それから母と二人で小千谷のラーメン(金次郎)を食べ、高速で村上に向かう。

 12月15日、以前勤めていた職場が無くなる(名前が変わる)ので、これまでこの職場に勤めていた人達の懇談会が松之山温泉であった。実家からバスを乗り継いで会場に向かう。ところが、帰りは乗り継ぎのバスが遅れたため、乗り継ぎの場所から雪道を30分歩いた。

 12月13日、職場の忘年会が瀬波温泉で行われる。飲み会が終わった後、同僚がしていたマージャンを見ていたが、そのまま寝てしまったようで、マージャンが終わりになる4時頃起きて、風呂に入りに行った。

 12月8日、「となりのトトロ」の主題歌を歌っている井上あずみさんのコンサートに行った。すると井上さんの前のクリスマスコンサートで、先日授業をした小学校の先生がピアノを弾き始めるではないか。顔がわかる子供たちも歌っていた。

 12月4日、ウイルスが蔓延している。何でもそうだが、永くやっているとプライドが高くなる。しかし、パソコンが感染しても、自分の心まで感染してはいけない。

 12月1日、新潟で藪山ネットの忘年会があった。しかしほとんど寝ていなかったのと、飲みすぎで寝てしまったようだ。保坂さんに親切にしてもらい、なんとか村上までたどり着いた。

 11月28日、秋の小学校の授業。半分を夏の授業の質問に対する回答に費やしたのだが、子供に説明するのは難しい。ほとんど理解できなかっただろう。だって質問が難しいんだもん。でも「ブナは木偏に無と昔は書いた」と説明したら、その理由を知っている四年生がいたのには驚いた。

 11月24日、母は畑に行き、家内は息子を連れて病院に行ったので、娘と一緒に午前中を過ごす。午後から職場に行き、土を袋に詰め、それからある小学校に行って、授業の作戦をねる。粟島の後藤さんから朝捕りサザエが届く。

 11月23日、幼稚園の父親参観。なるみちゃんという女の子を見た。息子は面食いである。家に帰ると弟家族が来ていて、手巻き寿司を食べる。食べた後は従兄弟4人が大騒ぎになり、疲れて駅伝を見ながら寝てしまう。

 11月22日、白山書房から初校が届いた。いよいよという感じがする。これから厳密にチェックをしよう。提出は1箇月後なのだから。

 11月16日、幼稚園の先生によると、どうも息子はなるみちゃんという女の子とラブラブらしい。お風呂で息子に訊くと、おもちゃをお酒にして「おさけやさんごっこ」をしているらしい。ビールは900円だそうだ。しらゆきひめごっこは二人で毒りんごを食べて寝ているらしい。

 11月15日、校正原稿が届いた。なんと『冬号』の特集のトップらしい。こんな文章でトップになっていいのかなあ。そう言えば、「静山紀行」が始まった時もトップだった。あれは北から紹介するから、トップだったのはわかったけど。

 11月14日、職場へ向かって車を走らせていると雪を積んだ車と何台かすれ違った。蒲萄辺りで雪が降ったのかなと思いながら職場に着いたら、職場でも2、3cm積もっていた。いよいよ冬がやってきた。タイアの交換時期が迫っている。

 11月13日、朝日新聞社の『週刊日本百名山』の「会津駒ケ岳・平ケ岳」を買った。中ノ岐川からの登山道は一般道ではないとする文章があるのに、なんで有名人が中ノ岐川から登った文章を載せるのか。

 11月11日、朝日村の喜助峰に登った。三面小屋経由で登る羽田さん達とは別ルートの泥又川経由を選んだ。11時20分に山頂に着き、12時半下山予定だったが、無線で「俺達が着くまで、待ってくれ」と連絡が入る。結局我々より2時間遅れで山頂に着いた羽田さん達と下山を開始したのは13時40分だった。なんとか17時前に車に着いて、羽田さん達を登山口まで送った。我々が登っていなかったら、またビバークになっていただろう。本当にこりない人だ。

 11月10日、6日から松代の実家に帰っていた母を迎えに松代まで日帰りした。実家に帰ると弟が既に冬囲いをしていた。母の実家でお昼を食べて、集落の人にあいさつをし、村上に戻ってきた。

 11月5日、息子が作品展の代休なので、自分も休んで家族全員で喜多方へ行った。車窓からは雪化粧した飯豊が見えた。スタートの紅葉は始まったばかりだったが、大峠トンネル付近では既に落葉していた。平日だから混まないだろうと思ったが、さすがに人気のある店は行列ができていた。

 11月4日、大樽山から鳥坂峰を歩こうと最近知った新ルートを登る。ブナ林でナメコを発見し、比較的新しいものを隣の課の仕事を増やすために採ってくる。山頂はあられで白くなっていてガスで目指す方向がわからない。少し尾根を下ったものの、鉈目が全くないので、引き返し左の道を下る。2年前の道とはかなり違うのでこれで間違いないと思っていたが、やっぱり胎内ヒュッテへの登山道だった。2年間で登山道がかなり変わったことに驚きながらも、新ルートを登っただけでも良しとし、胎内ヒュッテに下りた。

 11月3日、幼稚園の作品展を見に行く。やっぱりクラスで一番下手だが、それでも去年よりは進歩した跡がわかる。それからJAの祭りに行く。おにぎりコンテストは、味もみない観客の投票方式だったので、見た目のいいおにぎりだけが入賞した。母のおにぎりは普通のおにぎりなので、当然入賞しないが、おにぎりの説明が良かったのか、特別賞をいただいた。

 11月1日、出張先で著者から贈呈されたという飯豊の写真集を見た。「2、3植物名が間違ってますよ」とある人からメールが来ていたが・・・。おそらく著者は植物に自信がないのが、出版の打ち合わせで植物を入れることになったのだろう。買うのやめよっかな。

 10月29日、朝から雨。かなり寒い。飯豊朝日は雪が降っているのだろうか。お盆過ぎから伸び始めた庭のノリウツギの枝先に花芽がついたのだが、もうすぐ花が終わる。本来は7月に咲くのに、なんで今ごろ咲いたのだろう。天気がいいと、ハチがうれしそうにやってくる。

 10月27日、母が日本国に登りたいと言うので、家族全員で登る。息子はほとんど歩いて登り、娘はほとんど大人に背負われた。それでも1時間50分で山頂に着いた。職場の元上司や無線で話したことのある人が山頂にいた。日本国山頂でウンチオムツをかえたのは、私がはじめてか?

 10月24日、妙高高原町に行き、笹ケ峰まであと4kmという場所で仕事。昼過ぎに仕事が終わって、食堂ミサでニンニクたっぷりの味噌ラーメンを食べる。

 10月21日、娘が1歳の時、記念写真が撮れなかったので、写真屋に行くが家族全員はなんとか撮れたものの、娘ひとりは無理だった。それから温海町早田のオハツキイチョウを見に行くが、それと思う実はわからなかった。ダイゴへ行けば、パンは売り切れ状態で、予約をして温泉で時間をつぶして、何とか買って家に帰った。

 10月20日、森林野生動物研究会が新潟であり参加した。大学時代にお世話になった豊島先生に酒をつぐことができ嬉しかった。それに一緒にカモシカ調査をした林知己夫さんや林文さんとも会うことができた。白山書房から原稿が返って来る。

 10月19日、明後日に家族の記念写真を撮るので、風呂に入る前に髪の毛を染めていたら、娘が「なに、なに」と訊いてくる。お前のおじいちゃんと言われないように、白髪を染めているんだよ。白髪は父親からの遺伝なんだからしょうがないじゃないか。

 10月18日、5年おきに同じ場所で仕事をしているが、今日津南町の現場に行ったら、明らかに5年前にはなかった植物が生えていた。この植物が生えている場所は、小千谷の自分の現場しか知らない。つまり5年前小千谷で仕事をして、翌日津南へ行った時にズボンについていた種が落ちたのだ。名前をトウササクサという。うるさいほどズボンに種がくっつく植物である。

 10月16日、娘の2歳の誕生日。最近娘は風呂で象や馬の絵を指しても、以前のように「ぞうさん」、「おうまさん」ではなく、「知らない」などと時々言うようになった。息子は「父さんと寝ないとオチンチン取っちゃうよ」と言うと、「じゃうるさいの(私のいびき)はどうするの」と口答えするようになった。

 10月14日、母と息子と3人で岩船から諸上寺山に登ろうと畑を歩くが、畑が終わったところがススキの凄い藪で引き返す。それから大池に行くと、オナガガモ、ハシビロガモ、マガモに混じって、キンクロハジロとホシハジロが近くで餌をもらっていた。

 10月13日、初めてビッグスワンに行った。ゲートでチケットの半券袋を確認したところ、入場した2割以下しかの人しか金を払って入っていない。これで2万、3万入ったって喜んでいいのかよ。ワールドカップが終わったらどうなるんだ。

 10月9日、ついに来た。万代島にブナを植えたいという相談。先日の「県民だより」がその伏線か。誰か何とか言ってやれよ。基本的なことをさ。こんなことが100年続くのかよう。

 10月8日、羽田さんらと光明山に登った。光明山は1992年以来だ。その間に登った矢筈や毛無、中の又がどのように見えるか確認するためだった。山頂で「あの尾根を歩いたんだ」と感慨深くなる。しかし風が冷たい。

 10月7日、『県民だより』の冒頭にあった、おじいちゃんのおじいちゃんがブナ林を開いて桑畑にしたというのに、おじいちゃんのおじいちゃんの頃からその桑畑にブナを植えたというおかしな話。「林が荒れる」、「ブナを植える」・・・。止めてくれ。

 9月30日、高橋尚子さんがベルリンマラソンで世界最高記録で優勝した。息子と娘はマラソンの間、家の中をグルグルを走りまわっていた。ゴールはシドニーオリンピックと同様、なわとびのゴール。

 9月27日、職場の一般公開。予定がくるって、構内案内でテレビカメラが自分のところについてきてしまった。もともと構内のことはよくわからないのに加えて、テレビカメラが顔に近づくと緊張してしまう。でも家に帰ってからテレビを見ると、何とかまともなことをしゃべっていたようだ。

 9月24日、娘が生まれた時にもらったサティの商品券がまだあったので、新潟まで買い物に行った。でも商品券の倍以上の買い物をしてしまうのは無理がないか。娘はウルトラマンを見て、泣いていた。

 9月23日、岩船港の魚祭りに行き、家に戻って、村上トライアスロンの応援。午後は雪割草の植え替え。春に杉原さんからもらった「小梅」だけ、2株に分けることができた。松代から持ってきたものは、一部地植えにした。

 9月22日、幼稚園の運動会。今年も息子はやってくれた。紅白対抗の「おいもゴロゴロ」のリレー。父兄が横になって、園児がその上をゴロゴロと転がるという大玉送りを園児にしたようなもの。横になっていたので、よくわからなかったが、第一走者は赤組がリードしているようだ。次ぎは息子だと思っていたのだが、いつまで経っても息子が来ない。首を上げると、白組の父兄の上をゴロゴロしている。白組に絶対リードを許さない作戦だった?。

 9月21日、菊谷さん、有田さんと3人で泥又川に行く。石黒沢の駐車場に車を停め、1時間で泥又川に入渓。いつもどおりの穏やかな泥又川だ。菊谷さんが下流に向かい、有田さんとふたりで大明神滝に向かう。最大で26cmのイワナを釣って、下って菊谷さんと落ち合う。焚き火をしながら、イワナをつまんで、アルコールを飲む。今度こそ1泊したい。

 9月20日、幼稚園の運動会のプログラムが来た。すると年少組みに「息子」という園児がいる。どうして同じ名前の子がいるの?だいたい誰がこんな名前つけるの?でもショックなのは、年中組みに同じ名前の園児がいることを発見した方の親だろうな。ちなみに「まさと」と読むそうで、「まなと」ではなかった。当たり前か。

 9月15日、母が電話で息子より一歳年上の弟の子供に、「今日は何の日だ」と訊いた。息子と従兄弟になる祥泰は「敬老の日」と答えたそうだ。そこで息子に「今日は何の日だ」と訊くと、「夏休み」「違うだろ」「筋肉番付」そうだよ、今日は筋肉番付のある日だよ。

 9月14日、新潟日報にナラ枯れの記事が載った。一昨年枯れたのは2、30本じゃなかったけ。それから少し増やしたのかな。弥彦、角田のナラが枯れて、やっとナラ枯れが新潟県民に知れ渡ると思っていたけど、その時が来たようだ。

 9月13日、白山書房から速達が来た。指摘されたことやアイデアは自分がどうしようか迷っていたことと同じだ。ただ自分にはそれをどうしていいかかわからなかったのである。うーん、どうしよう。

 9月12日、まるで映画のような映像がニュ−スから流れてきた。自分の目を疑いたくなる。明日は都心の22階で3時間の会議だ。飛行機は突っ込んで来ないだろうな。家内に遺言を言う?

 9月9日、交通安全の集いが、ふれあいセンターであり、家族全員で行く。式典があるのだが、子供を連れた親は式典よりも、スーパーボールすくい、わたあめ、かき氷・・・の列に並ぶ。暑い午前中だったが、祝瓶山に登っていた仲間がうらやましい。

 9月8日、家族全員で栗拾いに行く。わずか20分程度で50個以上の栗を拾う。拾い終えてジュースを飲んだら、息子と娘はコンクリートの道路で缶を転がし始めて、止めさせるのに一苦労した。

 9月5日、新潟日報の投書欄に母の文章が載っていた。数えで65歳は納得したが、3年前の投書では63歳とはどういうことだ。投書についての解説は、姉妹ホームページ「よしやのツェルト」の掲示板をご覧ください。

 9月4日、瀬波祭りのため、早めに休んで、家族で見に行った。スーパーボールすくいに行っても、店のおじさんがいない。30分ぶらぶらして、やっと息子と娘を遊ばせることができた。ぽっぽ焼きを買って帰る。

 9月3日、9月1日から配布されるはずの整理券を母が朝一番でもらいに行ったら、村上市役所にはもうなかったらしい。どうやら、村上市役所は土日も職員が働いているようだ。4月4日に申し込んだマイラインを登録したとやっと今日案内が着た。

 9月2日、朝早くニ王子岳に登り、8時20分に山頂に着く。山頂には小屋に泊った人と先に登った人の2人だけしかいなかった。10時になって人が多くなってきたので下山。17時から母、息子と野潟へ行き、小アジを80匹くらい釣る。

 9月1日、家内が新潟へ演劇を観に行ったので、子供と留守番。昼寝のあと、コマセを買いに行き、海の様子を見に行く。少し波が高いようだが、明日の夕方釣りに来ることにした。

 8月29日、8月も終わろうとしているのに、やっと職場の暑気払い。海そうめんが出てきたが、誰もその正体を知らない。おいおい、一番山のなかで生まれ育った私が知っているのに・・・。私は今から10年近く前、粟島の民宿後藤で食べたのが最初だった。

 8月28日、この夏休みの期間中に、近所に住む息子と同じ小学校で同級生になる家族3人から、ディズニーランドに行ったと土産をもらった。一方息子はこの夏休みにどこに行ったかと言えば、月山に登ったくらい。ディズニーランドと月山。どっちが子供の夏休みにふさわしかったか・・・。

 8月27日、職場にツチアケビが届けられた。図鑑でおなじみだったのですぐにツチアケビだとわかったが、実物を見るのははじめてだった。インターネットで検索すると399件も引っかかり、子供の頃食べていたというHPもあり、ビックリした。でもススキの穂が出る前にガムだと言って噛んでいた自分とかわらないか・・・。

 8月26日、昨夜スカットボールの赤いボールが1個見つからなかったことが気になり、6時前に探しに行ったら、何のことはないすぐに見つかった。区長は既に来ていて、生ゴミなどの片付けをしていた。区長の苦労を知っている人も少ない。

 8月25日、町内の夏祭り。9時からテントややぐらを建て、午後から出店の準備。17時から祭りが始まったが、去年と同じでチケット売り係は、ほとんど動くことができない。それでもそれをわかっていてくれる人は、ビールを持ってきてくれる。ありがたい。

 8月22日、書店に入ったら、「里川」という言葉をタイトルに使っている本を見つけた。「里山」という言葉は四手井綱英さんが、「山里」をひっくり返して作った言葉だが、それをマネして安易に「里川」なんて言葉を作っていいものか。もっとも里山ほど一般的にはならないと思うけどね。

 8月21日、職場に小学6年生から総合学習で「川はどこからはじまるのか」調べていて、木が水をためると知った。とくにブナが水をためるたしいので、ブナについて教えて欲しいとメールがきた。誰だよ、そんなこと言ってるの。

 8月20日、自分にとって夏休み最後の日。家族で神林プールに行く。ウォータースライダーで綿100%の海パンが滑らなく、35%も滑らなく、結局ナイロン100%にしたのだが、それでもうまく滑るにはコツがいる。やはり重すぎるのだろうか。70キロちょっとしかないのだけどな。

 8月19日、9時から16時まで、図書館の学習室で缶詰になる。自分を除けばほぼ100%高校生だが、約7割は女子高生だ。男は受験勉強をしないのか?その後子供を連れて郵便局のふれあい祭に行ったのだが、遅かったのでスーパーボールすくいは、いくらすくっても1個しかもらえなかった。

 8月18日、家内、息子、娘で神林のプールに行く。娘はプール2回目だが、少し慣れてきたようだ。息子はウォータースライダーに夢中。帰りにスーパーによると、「愛は地球を救う」の募金をしていたので、息子に百円を渡すとガチャガチャに向かって走って行った。まだ一度もさせたことないのに。捕まえて募金をさせた。

 8月17日、9時に美人林に行く。お盆が過ぎたせいか、それとも朝早いせいか、人は思っていたよりも少ない。しかし、増加する観光客のためか、林内はかなり踏圧で堅くなっている。家内、息子、娘をまつだい駅から十日町駅までほくほく線に乗せて、十日町駅から神林経由で村上に戻る。

 8月16日、墓参りに行き、そのまま大島村の菖蒲、長野県村の野々海、松之山町の大厳寺高原のいつものコースを回って実家に戻る。午後から母の実家に行く。

 8月15日、10時に家を出るが、すぐに強烈な腹痛になり、家に戻る。15時になって再び家を出発。神林の家内の実家によって、松代に帰る。夜は息子と従兄弟の祥泰が四寸の柱に競い合って登るのを見て笑った。

 8月12日、朝から雨模様。母が明日松代に帰るので土産を買いに車を走らせる。昼寝をして、息子と買い物に行き、夜はいわふねクラブの飲み会に参加する。お盆近いのか集まる人間が少ない。
 
 8月11日、イヨボヤ会館の公園に行き、子供と一緒に鯉に餌をやる。16時半を過ぎて海に行くが、波が少し高くて、ほとんど人が海に入っていない。少しだけ息子と海につかって帰る。

 8月10日、おそらく高校野球史上最も雪が多い土地である十日町高校は高知県の明徳義塾に完敗した。明徳義塾も以前新潟南高校に負けたことがあるので、新潟県相手だろうと手を抜かなかったのだろう。レギュラーのうち5人が2年生なので、来年も頑張ってほしい。

 8月7日、あとは大日杉まで下るだけ。雨模様でもあり、母は慎重に歩いていたので、6時間かかって登山口に着いた。それから白川ダム温泉に入り、16時に家に着く。

 8月6日、母を空荷にし、5時前に出発。飯豊本山、御西岳を通過し、大日岳の登りで岩崎元郎さんとすれ違う。大日岳山頂で東京の中学の先生がアンケートをしていたが、「登山の楽しみを3つあげてください」の回答に真っ先に「ビール」と書いてしまった。大日岳から引き返し、切合に17時過ぎに着いた。もうすぐ65歳になる母を12時間以上も行動させたことになる。

 8月5日、母と大日杉から切合に登り、テントを張る。最初はガスで被われていたが、夕方になってガスがはれ、大日岳が見えてきた。明日は大日岳まで行けるだろうか。母は「膝が痛い」と弱気になっている。

 8月4日、今日から母と飯豊に入ろうと思っていたが、前線通過が気になり、中止にした。家内と息子、娘を連れてワンワン動物園に行く。2年前に行った時、息子は半狂乱になったが、今回は比較的おとなしかった。

 8月1日、夕方から幼稚園で夕涼み会があり、薄暗くなりかけた頃、お化け屋敷のお化けになった。浴衣を着て、黒いストッキングで作ったカツラをかぶり、最初は「ヒュー」とか言っていたものの、途中からは「暑いよう−」になってしまった。

 7月31日、東京電力柏崎刈羽原子力発電所構内に入り、立ち入り禁止の場所を2箇所造る。その後5、6、7号機をバックに怪しいスタイルをした写真を撮り、構内を立ち去った。

 7月29日、午後から息子を連れてパネルシアターを観にいった。「三枚のおふだ」では、あらかじめトイレにおふだが貼ってあり、それから小僧は三枚のおふだで山、川、火を出した。でもトイレのおふだも持っていた三枚から使ったんじゃなかったけ?

 7月28日、息子、娘を連れて、神林村のプールに行った。ウォータースライダーで海水パンツが滑らず、またも苦労した。滑る海水パンツを買ってもらおう。16時を過ぎて、不在者投票に行く。29日に投票するのが、面倒なだけ。

 7月27日、母、息子と月山に登った。息子がもう少し登ってくれるのだろうと思っていたが、考えて見ればこのルートを登ったのは12年前のことだった。1時間歩いて、2時間背負って、30分歩いて山頂に着いた。下りはもちろん全て背負った。

 7月22日、新発田市の杉原さんが三面川にアユ釣りに来ると無線でわかったので、11時頃家族全員で見に行く。三面川には1cmに満たない小さい魚からエビまでたくさんの生き物がいた。午後にはプールを出して、庭で娘を遊ばせた。

 7月21日、母と二人で石転び沢の入門内沢出合まで行った。駐車場に車を停めることができず、少し手前の橋の付近に停めた。こんなに混んでいるのは初めてだ。三連休で登山者が集中したためである。出合までは迂回路が1箇所あったが、2週間もすれば雪がなくなるだろう。

 7月20日、海の日なので、娘の水着を買って、17時を過ぎてから海に行った。息子は浮き袋に乗って、遊んでいる。娘は「こわい、こわい」と言って、砂で遊んでいたが、最後には海のなかに入れた。

 7月15日、早朝、先日の授業をした子供のひとりと一緒にカブトムシを採った。私はサナギを採集して家に持ち帰ったら、ちょうど成虫になった。totoがまた3つはずれた。いつも400円(ダブル2つ)しか買わないことにしているから、しかたないのかもしれないが、2週連続で柏に裏切られた。

 7月14日、村山先生と一緒にニ王子岳の鴨池まで登る。雨のなかオオタキマイマイを探したが、死殻の破片も見つからなかった。下りになって雨もあがり、一王子避難小屋でお昼を食べた。誰か鴨池付近で白い左巻きのカタツムリを見つけたら、連絡してほしい。

 7月13日、ヤマビルのいる場所で3時間の仕事。その間、4匹のヤマビルを見つけて、ヤマビルファイターというヤマビルがなおさら元気になりそうな忌避剤で殺したが、一緒に仕事をしていた一人が血を吸われてしまった。ヤマビルは血を吸うと卵を産むことができるようになるので、結局ヤマビルを増やす結果となった。

 7月12日、小学校で90分の授業をした。最初の樹木の話ではつまらなそうな顔をしているので、「これは失敗かな」と思ったが、外に出て樹木の観察を始めると意外とウケている様子。その後部屋に戻って、昆虫とカタツムリの話をした。自己採点では70点というところか。
 
 7月11日、娘が最近「ウンチ、ウンチ」と言うようになった。しかし、トイレに連れていっても、「でない、でない」としか言わない。それでオムツをはいていない娘を追いかけて行くと、フローリングにウンチをしているのだ。お願いだから、じゅうたんの上にはするなよ。

 7月10日、近所の息子と同級生になる女の子は、「私、兄弟がいないし、お父さんもお母さんも忙しいから、息子くんや娘ちゃんと一緒に遊びたいの」と言って我が家にやってくる。一方息子は相変わらず、犬が来ると走って近寄る始末。この違いは・・・。

 7月9日、5時前に今度は親戚のおばあちゃんが亡くなったと電話が入る。これで40日で親戚4人が亡くなったことになる。静岡まで行く母を駅まで送るため、1時間仕事を休む。

 7月8日、totoが初めて当たった。でも2等で417円。400円買ったから、損にならなかっただけ。家族で小学校に行き、グランドの日陰で朝食を食べる。子供が遊んでいる間、樹木の地図を作る。

 7月7日、朝5時に母と二人で羽黒神社に行く。おしゃぎりが集まり始めていた。出発は8時頃らしいので、お城山に登って朝ご飯を食べ、おしゃぎりの出発を見る。夜は夜で家から一番近い場所を通るおしゃぎりを家族全員で見に行く。

 7月5日、小学校に行き、来週の授業の打ち合わせをする。田舎の学校だが、校内にはほとんど園芸品種しか植えてない。そのため半分も樹木の名前がわからなかった。子供たちは、「この人、木の先生?」と訊いてくる。これで来週90分もつのか?

 7月4日、さらに腰痛で整形外科に行く。ここはおなじみだ。半年に1回行っているのだから。レントゲンを撮られ、背骨に異常がないことを再度確認する。そして山用?のシップを補給する。

 7月3日、昨日から右腕が痒いと思っていたら、朝脇腹がドクガにやられていることに気づいた。職場の同僚はチャドクガではなく、ただのドクガだと言う。やぶこぎなどしたくないものだ。皮膚科に行く。

 7月2日、梅雨に入ってから再発している腰痛がなかなか治らない。おまけに今日は往復6時間の出張。さらに現場4時間。何度激しい痛みをこらえたことか。うっ・・・。

 7月1日、買い物から帰ってきたら、ハシブトガラスが隣の敷地との境界のフェンスにとまっていた。「まさか」と思って見てみると、魚の頭や骨はほとんど持ち去られていた。いつもはほとんど見ないカラスなのに、抜け目のない奴だ。またオタマジャクシがカエルになったので放す。

 6月30日、2日前に親戚のおじいちゃんが亡くなり、母が松代に帰ってしまったので、ひとりで松代に米を取りに行く。村上に戻ってくると阿部さんから船で釣ったと思われるアジとサバが届いていた。それを外でさばいて、アジは刺身になった。

 6月24日、飼っていたオタマジャクシが1匹アマガエルになった。家族で笹川流れに遊びに行くついでに、川に放した。お昼を食べた後、海で遊んでいたら息子が海におしりをついてしまい、結局裸になって遊んでいた。府屋まで行って家族は電車で村上まで戻ったが、私の車の方が速かった。

 6月23日、山北町勝木集落の交流の館「八幡」で泊った翌朝、小俣集落に向かい、打ち合わせのあと、日本国に登りながら救助訓練をした。途中で休んでいた外人にも参加してもらいながら、応急措置と救出を学んだ。さらに山頂では焚き火やビバークの説明を受けた。

 6月22日、祝瓶山と大玉山との鞍部付近にある水場周辺のオサバグサを確認しに行った。濃いガスで樹木から雨のような水が降り注いでいた。オサバグサの花は終わっていたが、すばらしい群落と言えるだろう。帰りは祝瓶山まで登り返したが、ガスは晴れなかった。家に戻って、岩船地方山岳遭難救助訓練に向かった。

 6月18日、『林業技術』に佐野さんが連載している「パソコンよろず話」に「N県のTさん」とナンと私が登場した。そう言えば、私は大学3年の時、佐野さんにベーシックでプログラムを作ってやったのだった。「我ながら情けないのですが、これで私は無事卒業できました」と結ばれていた。

 6月17日、家内は「サクランボ狩りに行きたい」と言うが、昼近くなってからでは遅すぎる。鷹ノ巣温泉付近でオニギリを食べ、小国まで行ってサクランボを買い、リフレに行って休み、丸山公園に行って子供を遊ばせた。

 6月16日、菊谷さん、有田さんと3人でウグイス沢支流ヤヂ沢に入る。型は小さいがコンスタントに岩魚が釣れる。それにしても植林かゼンマイ採りのためか、こんな踏み跡がよくあるものだ。

 6月13日、幼稚園生活のビデオを見た。去年は泥んこ遊びで濡れたパンツが気持ち悪かったのか、ただ一人真っ裸になっていた息子だったが、今年はただ一人半ケツだった。少しは成長したことを喜んでいいのか・・・。

 6月12日、羽田寿志さんがNHKに出演するというので、駅から急いで家に帰った。雨具の使用について「雨だけじゃなく、風も防ぐことができますね」と言うアナウンサーに、「そうですね、道に迷って下りられなくなった時も、安心ですね」と答えていた。おいおい、雨具をビバークに使うのは、羽田さんだけだよ。

 6月10日、未明に伯父が亡くなる。これで父の姉、父、父の弟が亡くなった。歳の順と言えばそれまでだが、3人ともまだ早い死だった。父のように事故で亡くなるのはビックリするが、病気で亡くなる人をみるのは別の意味で辛いものである。

 6月9日、早朝母と二人で野潟に行くが何も釣れずに(外道2匹は釣れたが)帰ってくる。7時半頃、東京の伯父が危篤だという電話があり、母、弟の三人で東京に行く。

 6月3日、お昼を食べに「いこいの森」に行く。恐竜の滑り台は大人が見ていても登りの梯子が怖くて、近いうちに事故が起きるだろう。それから山につけられた歩道を散策するが、そんな道を歩いているのは我々家族だけであった。

 6月2日、2週間前の鳥海山リベンジに向かうが、鳥海山の天気が悪いようなので、庄内空港付近から引き返し、月山に向かう。鍛冶小屋の下にスキーを置いて登り、山頂小屋のかげでビールを飲む。下りは姥ケ岳に登り返し、コブ斜面をいつものように苦労して滑る。

 5月31日、幼稚園年中組の体操で跳び箱1段にして前転させたらしい。怖がってできない子がたくさんいる。2段にして「やりたい人」と言っても普通に跳ぶ子供ばかり。ところが何時の間にか息子が跳び箱の前にいて、「やってみる?」と言ったら、なんと簡単に前転してしまった。年長組でも難しいらしく、順番を待っていた年長組からも拍手喝采。言葉や行動があまりに遅くて心配していたが、ひとつくらい秀でているところもあるのか。もっとも友達から「まなとくん、すごいね」と言われても、知らん顔でダンゴムシ採りに夢中になっていたらしいが・・・(連絡帳より)

 5月30日、今度は岩船港に行ったが、またも何も釣れない。もうこんなバカなことは止めにしよう。でもそんなバカが20人以上もいるから不思議だ。以東岳から登った朝日を見れたことが唯一の収穫である。

 5月29日、早朝野潟へ行くが一匹も釣れない。午後からいつもの病院に行った後、高坪山・虚空蔵峰の荒島城コースを歩く。これまで高坪山というと細いブナ二次林のイメージしかなかったが、関川村境周辺は予想以上に太いブナだった。

 5月27日、母が押し花の材料にツクバネが欲しいと言うので、能化山に行く。予想したとおりツクバネがあり、ヒメサユリやウラジロヨウラク、ヤマツツジが咲いていた。クルマユリも夏には咲くだろう。登山口から一周、昼ご飯も含めて2時間半の登山だった。

 5月26日、母と早朝に岩船港にアジ釣りに行くが誰もほとんど釣り上げない様子に引き返し、いつもの野潟に行く。しかしここでもイワシの子供のような魚しか釣れず、家に帰る。午後から息子と母と職場に行きワラビ採りをして、「魚つりがしたい」という息子を海に連れて行く。

 5月22日、18年ぶりに加治川村の大峰山に登った。18年前は確か2月に登ったはずで、加治駅から願文山を経由して看板までだったが、その看板は違うものになっていた。林道寺沢線から登ったが、よく踏み固められた登山道をあっという間に山頂まで歩いた。

 5月20日、町内の草刈と桜を植えた後、広場で慰労の飲み会。11時から焼きそば、焼肉、トン汁(飲まなかったけど)でビールを飲む。終わった後、畑に行ってイチゴをたくさん採る。

 5月19日、職場の同僚と鳥海山に向かう。河原宿の上の標高1700m付近にガスがかかっていたので、そこからスキーで滑り降り、チシマザサの脇でお昼にする。休んでいるとガスに被われてしまい、何とか駐車場まで下り、さらにブナ二次林の中を下って車に着く。

 5月16日、息子が庭のジュウモンジダの裏側の黒い点を見つけたところ、家内が「虫だ」と言って息子が怖がってしまった。それから私がいくら「虫ではなく、胞子嚢だ」と言っても怖がっている。娘は平気で触っているのだけどなあ。

 5月15日、3月まで新潟大学におられた石沢先生が『新潟県植物保護』に「緑の百年物語に求めること」という文章を書いておられた。石沢先生の言うとおり、「22世紀に禍根を残」さなければいいと思うけど。

 5月13日、池袋の秀山荘に行き、オリジナルのザックと新しい渓流シューズを買う。東京駅のNHK商品の店で息子が欲しがっていた「しのぶさんともりおくん」のぬいぐるみと買おうとしたが、置いて無かった。そこでどーもくんのタオルでごまかし、娘にはおじゃる丸とクーのぬいぐるみを買った。

 5月12日、父方の従兄弟の結婚披露宴で母と二人で東京に行く。そして母の妹の家に泊まる。4月から新宿付近の病院に就職した従姉妹は、乙武さんを道路で見かけたらしく、「私、あの病院で看護婦をしています」と話かけたと言う。

 5月10日、我が家は災難続きである。税務署から税金を払っていないと督促状が来た。しかしやっと郵便局に振り込んだ領収書を発見した。午後から休んで税務署に行って、苦情電話のうっぷんをはらそうと勇んでいたが、母親が振込用紙に住所氏名を書いていないことが原因だった。やっぱり私は怒ることができないようになっているらしい。

 5月9日、さらに情報が入り、その男性がかなり有名な苦情電話魔だということがわかった。私の新聞記事よりも、その人によって迷惑を受けている人の方が明かに多いだろう。良識あるひとりの人間だと思い、手紙を書こうと思っていたが、助言いただいたように無視することにした。

 5月8日、多くの人からメールをいただき、苦情電話をしてきた男性がどういう人間かわかってきた。人は退職するとそれまで勤めていたことを忘れてしまうのだろうか。自分が勤めていた頃のことを省みず、よく電話であれだけ私を罵ったものである。

 5月7日、4月29日の『越後百山』を紹介した新聞を読んだ男性から、「民有林を含む山の本を紹介するとは、どういうつもりだ」という電話がきた。過去にも『新潟 花の山旅』の件で苦情を言ったころがあるらしい。でも電話をする相手が違うだろう。

 5月6日、朝松之山町の美人林に行く。新しい道路ができて、わずか実家から五分で行けるようになった。10時前に葬式に出席する母を親戚の家まで送り、そのまま村上に向かう。無線では越後駒やニ王子岳から山仲間が楽しそうに話している。考えて見れば晴天が続いたゴールデンウィークだった。

 5月5日、ひとりで松代に帰る。家のまわりには雪がまだ残り、ブナは新緑がまぶしい。水田もやっと雪が解けたようで、畔にはフキノトウが食べ頃になっていた。お昼に親戚に行き、伯父さんの退職を祝う。

 5月4日、というわけですっかり我が家の予定が狂ってしまった。今日家内と子供を連れて松代に2泊3日で行く予定が、明日ひとりだけで帰り、母が出席する予定だった5月5日の伯父(母の弟)の退職祝いに出席することになった。そこで諸上寺山で桜を見て、南大平キャンプ場でお昼を食べて、海で釣りをしてゴールデンウィーク最後の日が終わってしまった。

 5月3日、早朝高坪山に登る。タレントの中山秀征さん(の付き人?)の叔父さんが亡くなった。なぜそんなことがわかるのかと言えば、私の父とその叔父さんは従兄弟だからだ。つまり私の父方の祖父と中山秀征さん(の付き人?)の母方の祖母は兄妹(姉弟?)である。ちなみに「中山秀征」の花輪はあった。

 5月2日、長岡の村山先生から「新潟日報の書評をみました」と手紙がきた。紀行文はよく書けているし、知っている人もでてくるし、植物名もしっかりしているし、居ながらにして春夏秋冬の越後の山を実感できるという感想だった。

 4月29日、移動運用でそのまま泊ったため、一ノ瀬さんと一緒に石川を遡行し、大平山に登った。樽ノ口周辺では、胸高直径1mを越えるトチノキ、カツラ、ブナの森が素晴らしく、緑の日らしい一日だった。

 4月28日、いわふねクラブの移動運用を林道木原木線の駐車場で行った。しかし移動運用とは名ばかりで、移動飲み会と言った方が正確だろう。それにしても酔っている杉原さんに、「酔っているだろう」と言われるとは思わなかった。

 4月25日、新潟日報の担当者から、今度の日曜日の「にいがたの一冊」に佐藤れい子さんの『越後百山』の紹介が載ると電話があった。順番待ちで3箇月後くらいになりそうだと聞いていたが、ゴールデンウィークに間に合わせようということらしい。レイ子さんが言葉を換え、担当者が削っているので、原稿どおりになっていないようだ。

 4月24日、紀伊国屋で「たーちゃん」のぬいぐるみを買ってきたら、息子が狂喜乱舞し、どーもくん、うさじいのぬいぐるみと一緒に並べて、どーもくんのビデオを見ている。そして「しのぶさんともりおくんのぬいぐるみが欲しい」と言った。そんなぬいぐるみはまだ無いんだよ。それに蝙蝠のぬいぐるみを欲しいなんて言うのはオマエだけだ。

 4月21日、職場の同僚3人とニ王子岳に登った。車は30台以上停まっているのに、登山者名簿には数人しか記入されていない。独標からポールの角度を確かめながら、ゆっくり登る。山頂で矢筈山岳会の五十嵐さんと逢う。13時過ぎには飯豊のガスもはれてきた。

 4月17日、またディスプレイがつかなくなった。後ろのケーブルを何度いじってもつかない。ディスプレイが原因であることを確かめるために、職場のディスプレイを借りてきたら、あっさりついた。ディスプレイなんて2年半の間、2回数センチだけ動かしたことがあるだけなのに、断線なんてするなよ。

 4月15日、朝パソコンのディスプレイがつかなかった。電源のランプはついているし、立ち上げのサウンドは鳴る。おかしい。何度やってもつかない。夕方、後ろのケーブルをひねって見たら、なんとついた。タワーの方は固定してあるのだから、ディスプレイの方が断線しているのか。

 4月10日、下渡山に雪割草があるという情報を聞き、朝ご飯前に登って確認した。面積は要害山と同じくらいだったが、一部密な所もあった。帰りにはアツキノハ(ツガルフジ)を採って、夕ご飯におひたしにして食べた。

 4月9日、職場の同僚がtotoの3等を当てた。しかし、当選金額は370円である。同僚は銀行に行こうか、もう少し貯まってから行こうか悩んでいる。同僚は2口買っただけだから170円の収益だが、4口買っていた自分がもし3等だったら、当たってもマイナスだったぞ。

 4月8日、新保川の用水取入口まで散策して、家に戻って朝ご飯を食べる。それから母、息子と三人で神林村川部集落から要害山に登る。要害山の椿はユキツバキなのだろうか、それともヤブツバキなのだろうか?山頂で中条町の亀山さんと逢う。

 4月7日、早朝母とふたりで笹川流れの遊歩道を笹川集落から板貝集落に向かって歩く。ショウジョウバカマ、カタクリ、エンレイソウなど紫色系の花が多いなかで、オオバキスミレの黄色が印象に残った。それから南大平集落へフキノトウを採りに行った。

 4月6日、スギ雄性不稔の個体(何らかの原因で花粉が出ない個体)を探すために、スギの枝を200本以上叩きまくった。花粉の多い少ないはわかったが、花粉を全く出さない個体は1本も見つからなかった。当然花粉症は悪化した。

 4月3日、『新・にいがたファミリー登山』を買った。ところが帯の裏側に「新潟日報事業社の登山ガイドブック」として、佐藤レイ子さんの『越後百山』が入っている。おいおい、「本書はガイドブックではありません」と書いてあっただろう。法外な冊数を買い取らせておいて、著者を裏切るようなことはしないでくれよ。

 4月2日、やっと『森林科学』31号が出た。2月発行予定と言いながら、年3回しか発行されないのだから、次ぎの号までに出ればいいということなのか。原稿でお世話になった人に『山の本』35号と一緒に別刷を送ろうと思っていたが、漸くかなうようだ。

 4月1日、蒲萄山塊横断の2回目として、村上市吉浦集落から鍋倉山に登り、少し引き返して市村境を目指し、朝日村早稲田集落に下った。昼食をとりながら無線をしていると高坪山や粟ケ岳避難小屋はガスで何も見えないと言うが、こっちは日本海と市村境の山々がよく見えた。

 3月30日、佐藤レイ子さんから『越後百山』(新潟日報事業社)が送られてきた。私に関係する写真は大兜山、矢筈岳の前を行く後姿、毛猛山の三角点の横にあるピッケルくらいだろうか。その他10山くらいに名前が出ているはずである。皆さん買ってください。

 3月25日、蒲萄山塊横断の手始めとして、村上市間島集落から能化山に登り、朝日村上野集落まで歩いた。能化山は4回目になるが、間島集落によって道標の設置や刈り払いなど整備が驚くほど進んでいた。明かに登山者が付けたと思われる赤いビニールテープもあり、一般登山者が増加しているのだろう。

 3月24日、息子と仲良くしてくれていた倭子ちゃんが引っ越すので、挨拶に行く。息子は恥ずかしそうに花束を渡していたが、いなくなることはわかっていないのだろう。その後、母、息子、義母を連れて、新発田市の雪割草の展示会に行く。午後は家族5人で、野潟の海に行って貝殻を拾う。

 3月23日、某新聞にまた見愚痴さんの顔写真が出ていた。職場では例のごとく、「少し血圧が高いんじゃないのか」とか言う意見があった。昼休みに大内尚樹さんの『山へ』を読み終えた。田舎の学校に勤めながら、構内にビオトープを造るという発想の矛盾を思い起こした。

 3月17日、家内が午後から遊びに行くと言うので、それじゃと午前中だけ山に行くことにした。葡萄鼻山はこの時期としては3回目だったが、雪面がクラストしていて、途中でスキーをデポし、ツボ足で山頂に向かった。山頂からは去年歩いた大石ダム〜黒手ノ峰〜一本松〜牟礼山のルートが確認できた。

 3月16日、『山の本』35巻が届いた。羽田さんの文章は「紀行」だと思っていたが、「静山紀行」で目次を見たら二人並んでいた。ところが羽田さんの方は全登山時間が違っているし、私の方は2年前に歩いたルートが実線になっていた。これを道路と勘違いして、このコピーだけ持って山に登るような人がまたいなければいいのだが・・・。

 3月12日、執筆者の顔写真が出る『林業技術』に見愚痴さんの文章が載った。「これは酒を飲んでいる時の写真だろう」とか、「写真1枚で笑わせてくれるとはさすがだ」とかいろいろな意見があった。ただ越後人全てがユキツバキに春を感じるわけではい。依頼が来たから、そう書かざるをえなかったように思えるのだが・・・。

 3月11日、このまま春になると思っていたら、村上は昨日今日で30cmくらい雪が積もった。名古屋女子マラソンを見て、買い物に出ると、ホームセンターの入り口にどーもくんのガチャガチャがあった。ガチャガチャはこれまで「お金がない」と言って、一度もしたことがなかったが、どーもくんならと思ってお金を入れたら、売り切れだった。

 3月10日、胎内へスキーに行くことになった。でも今月はもう小遣いがない。家計費も赤字になりそうだから、借りるわけにもいかない。と悩んでいたら、町内会の庶務の報酬があることに気づいた。スキーを終えて家に帰ると、予約していた大内尚樹さんの『山へ』が届いていた。サイン入りだった。

 3月7日、鷲谷いづみさんの『サクラソウの目』を買った。鷲谷さんとは一度だけお会いしたころがある(本人は覚えていないと思うけど)。まだ目次を見ただけだが、サクラソウとの出会いからはじまり、保全生態学に至る過程が楽しめそうだ。

 3月6日、『憧憬の山々』は急いで読む必要がないようなので買うのをやめた。うさじいのぬいぐるみとどーもくんのハンカチを2枚買って家に帰ると息子は大喜びで、去年買ってあげたどーもくんのぬいぐるみと一緒に絵本を見ながら、ひとりで遊んでいた。そんなに喜ぶやつはおまえだけだ。

 3月4日、朝、母と一緒に村上市の下渡山に登った。マルバマンサクの枝を採って来るためだ。車を停めたすぐそばに、ほころびかけていたマルバマンサクを見つけた。山頂ではエノキを発見し、下りでオオバクロモジの枝も採ってきた(雄か雌かわからないけど)。

 3月3日、今シーズン最後と神林村の大池に行き、パンをあげた。ハクチョウはだいぶ少なくなったような気がする。カモは、オナガガモ、マガモ、ハシビロガモ、ホシハジロ、それにこれまで見なかった(遠くにいただけだと思うが)キンクロハジロがいた。

 3月2日、昨日幼稚園のお遊戯会があり、家内が撮影してきたビデオを見た。おばあちゃん役だから女装していて、まず笑った(自分から希望したようだ)。劇の最後はみんな立ち膝だったのに、息子だけ足を前に出して座っていた。そのため、幕が閉まっても、息子の足だけ出ていた。

 2月27日、何年かぶりで白旗史朗世界山岳写真美術館へ行った。ひとり世界の山々の写真が展示された部屋にいると、異境の地にいるようで、ふと現実から離れてしまう。雪堀で疲れた身体も、どこかに飛んでいってしまったようだ。

 2月25日、凍てついた山頂の避難小屋を見てみたいとニ王子岳に登った。ニ王子四天王のうち、二人がいたので無事小屋に辿りつき、無事下ることができた。天気のいい2月だったら、もう一度登ってみたいけど、もうこんな天気のニ王子岳は登らなくていい。本当に死ぬと思った。

 2月24日、雪割草の展示即売会を見に行った。もちろん買うつもりなどなく、ただ春を感じたいためだ。同じオオミスミソウなのに、どうしてこんなに変異があるのだろうか。人気があるわけだ。去年知人からもらったものは、1500〜2000円というところか。

 2月17日、幼稚園でお誕生日会があり、家内が録画してきたビデオを見た。「まなとくんはなんさいになりましたか?」「にがつここのか」「すきなたべものはなんですか?」「うめぼし」「おおきくなったら、なにになりたいですか?」「おかあさん」やっぱり本番もダメだった。

 2月16日、『岳人』3月号を買った。またまた勝手なことを書かれてしまった。オレはこの山域(蒲萄山塊)に詳しくないぞー。確かに地形図はよく見てるけどね。「長靴」は正解。ただし「穴のあいた(水だけでなく、ヒルも入る)長靴」と書いてほしかった。

 2月14日、白山書房から校正原稿が届いた。これでまた『山の本』がもらえることになった。春号は羽田さんの文章も載るらしいので、贈呈分を交換するというわけにはいかなくなった。今後は、夏冬が羽田さん、春秋が私と分けて投稿する必要がありそうだ(笑)。白山書房関係者はこれを読んでいないだろうな。

 2月9日、息子4歳の誕生日。2、3日前から食堂に置いていたシュンランが咲いた。ちょうど息子が生れた時もこのシュンランが咲いていた。1歳の誕生日にも咲いていたが、それから2年間花芽をつけなかった。外はまだ白いが、この花を見ると春が近づいていると感じる。

 2月4日、週刊文春を毎週買っている。「新宿赤マント」の「二月はキライだ」を読んだが、自分には好きな季節はあっても、特別嫌いな季節はないように思う。「ショッピングの女王」はかかさず読んでいるが、やっと今年のネタになったようだ。1箇月分もネタがある人がうらやましい。

 2月3日、胎内スキー場に行った。風が強い日で、風倉ゲレンデのリフトは停止していた。正面のリフトも自分が乗っていた時だけでも2回停止した。それにしてもいろいろなスキーがあるものだ。初めてバイクのようなものを見たが、今日もテレマークは私だけだった。

 1月28日、大阪国際女子マラソンをテレビで見た。シドニー五輪で高橋尚子選手のゴールシーンが放映される度に息子はなわとびをゴールにしてマネをしていたが、それを思い出したのかおもちゃ箱からなわとびを出してきた。でもまだゴールまで2時間以上あるんだなあ。
 
 1月22日、来月幼稚園でお誕生日会があるので、練習のつもりで息子に質問した。「好きなテレビは何ですか?」「おすもう」もう初場所は終わったんだよ。「好きなおすもうとりは誰ですか?」「あかのはな」「あかのはなはいません」「あおのはな」だめだこりゃ。

 1月19日、もう20年前のことになるが、大学入試の時にお世話になったおばあちゃんが一昨年の暮れに交通事故で亡くなっていたことを知った。大学周辺は道路が良くなったことや、多くの学生が車を持つようになったため、危険になってきたなあと思っていたが、まさか・・・・・・。

 1月14日、本名正名さんの追悼登山が村松白山であり、21人で登った。私は一番最後を歩いたが、先行の4人パーティがいたようで、ラッセルも楽だったようだ。風邪をひいていたのだが、小屋で着替え、下って車で着替えたので、症状は良くなったような気がする。

 1月11日、鏡開き。幼稚園では餅つきがあったらしく、餅を食べすぎた息子は幼稚園で寝てしまったらしい。寝たままバスに乗せられた息子は、先生にだっこされたまま、玄関で母に渡された。ところが息子のズボンは小便で濡れていた。

 1月10日、息子が幼稚園の同級生から手紙をもらってきた。明かにおじゃる丸とわかる絵やひらがな・・・。一方息子はやっと顔とわかる絵しか描けない。親は最近顔が描けるようになったと喜んでいたのに・・・。

 1月7日、ぶどうスキー場に行った。毎年初スキーは「今年もテレマークターンができるのだろうか」と不安になる。5年くらい前から1日券ではぶどうスキー場は急な斜面が多く、身体がもたないことがわかっているので回数券で滑ったが、11時前には終わってしまった。

 1月4日、村松白山に一泊で登った登山者が下山できなくなって救助されたという記事が新潟日報に載っていた。「正月の登山は六回目だが、これほどの新雪と悪天候は初めて」と言っていたようだが、これまでの五回は運が良かったと考えるべきだろう。
 
 1月3日、正月の飲み疲れで寝ながら箱根駅伝を見る。去年先頭を走っていた人は、やっぱり顔を覚えているものだ。午後から買い物に出たが、雪が10cmも積もっていた。昨日だったらとても高坪山の駐車場に行けなかっただろう。

 1月2日、QSOパーティのため、高坪山に登る。最後の斜面で吹雪になったが、山頂は少し風が弱くなり、テントを張って無線をする。新発田の長谷川さんも登ってきたが、テントのポールを忘れたようで、テントに入れてあげる。高い山はもっと荒れているのだろうな。

 1月1日、羽田さん、有田さんとニ王子岳に向かうが、一王子小屋に着いたところで「この雪だと山頂に着くのは13時頃になる」と羽田さんが言うので、そこで行動を中止する。昨日の「大荒れ」の予報のおかげで、昼過ぎまで誰も登ってこず、静かな元旦を過ごす。

ときどき日記に戻る